紅い蝶の瞬く夜

「来たね」


 夜も更けて、さすがにリンチェも寝静まったころ、甘い匂いを頼りに重い石の扉を開いた。

 ここは書庫のある塔の柱の中に隠されている見取り図にも載っていない部屋。

 へマムの秘密の部屋というところだろう。

 僕を導くようにひらひらと舞っていた見慣れないぼんやりと光る蝶は、石の扉を開けた僕を笑顔で迎えたへマムの肩に纏わりつきすっと消えていく。


「あなたが迎えを寄こしたのだろう」


「…聞きたいことがあると思って気を利かせたのさ」


 へマムはそう言って強く香る煙を吐き出すと、木箱の上に腰を落とした。

 部屋の中央の石の祭壇のようなものには、真っ赤な炎が灯り、周りで焚かれている香には光の粒のようなものが羽虫のように纏わりついている。

 僕はへマムの向かい側に腰を落とし、彼女の顔を見つめた。

 女神のようにそっと微笑みを浮かべてはいるもののその表情からは考えがまったく読み取れない。

 人の子である僕からすれば永遠にも近い時を生きているからだろうか。表情に感情を乗せる人物だと思っていたが、感情を隠す術も身に着けているのかもな…と考えながら彼女の顔を見つめた。

  

「その足の刻印は…だ」

 

 しばしの静寂の後、へマムはこちらの聞きたいことを読んだかのように話し始める。


「非常に強力な呪いだ。

 契約ともいえるけどね。

 あんたに力を与える代わりに、いつかあんたの命を奪う」


 言いたいことをすべて言われてしまった僕は、ただ頷くしか出来なかった。

 元々は国や兄のために使われるための命だった。それがリンチェのためになるのなら命が奪われることくらいは構わない。

 『国を失うこと、愛しい人を失うこと、それが残された我が妹が国のためにすべきこと』

 『お前の肉体が死を迎えるとき、選択の時は訪れる』と、彼女の兄だったものは言っていた。

 リンチェのために命を奪われるのは構わない。

 でも、リンチェが亡くなった国に縛られるために悲しむのなら…この力でそれを断ち切りたい。


「リンチェのためにすべてを捨てるといって得た力で…彼女を兄や亡き国から解き放つことは出来ないか?」


 無理だ。

 そういう答えが重々しい空気と共に帰ってくると思ったが、目の前の人物から返ってきたのは噛み殺している笑い声だった。 


「それはそれは…やっぱりあいつは詰めが甘いねえ」


 笑い声に反応して、つい眉間にしわを寄せた僕を見てへマムは口元を手で押さえながら謝り、息を漏らしながら話を続ける。


「悪魔の口車に乗って契約させられたと聞いていたけど、邪霊に魂を落としてもそんなところは変わらないのかってつい笑ってしまってね…気を悪くさせて本当にすまない」


 そういうと彼女はしばらく笑い、すうっと深呼吸をすると少し落ち着いた声で僕の眼を見つめてこう続けた。


「早い話が、アウルム、あんたのしたいことは多分できると思うよ」


 へマムがいうには、悪魔や邪霊との契約は精霊や妖精とのそれとは違って言葉の定義が重要らしい。

 なので、悪魔や邪霊は言葉巧みに相手を騙し、契約者から大切なものや魂を掠めとるのだという。


「リンチェの兄がしたかったのは、あんたが無くなった国のために死んでリンチェと国にかかった呪いを解くことだ。

 でも、あんたには『リンチェのために』全てを捨てさせた。

 妹が、兄の願い通り国の復興が第一の願いだということを疑いもせずに」


 へマムは楽しそうに笑うと、パイプを燻らせながら僕のほうに向きなおった。

 最初に部屋に入ったときの穏やかで何も読み取れない表情とはちがうその表情に、圧倒的な力の差のようなものを感じて思わず身震いをした。


「あんたと、私の可愛いリンチェが楔を断ち切る知恵くらいなら授けてやろう。

 守り神のあたしがいうのもなんだが、あの子が望んでもいないのに亡くなった国に縛られるのも馬鹿らしい話だと思っていたんだ」


 へマムは、その真紅の宝石のような眼を妖しく輝かせて微笑むと「明日から忙しくなるよ。ゆっくり休んで明日に備えるんだね」と僕に出ていくように命じた。

 城の渡り廊下を歩きながら、へマムが最後に見せたあの妖しくも美しい微笑みは守り神としての責から解放された恐ろしい精霊としての顔なのだろうとなんとなく思いを巡らせる。


 月明りに照らされ、蛍のように瞬く光の球がちらちらと飛び交う城の中庭をぼんやり歩き、階段を上り自分の部屋の前に辿り着く。

 リンチェはどうしてるだろう…と気になりはしたが、彼女のために犠牲になろうとしている自分を今夜だけは見抜かれてしまいそうで足を運ぶのを止めた。


 誰の何にもなれないと、ずっと思っていた僕が、やっと誰かの特別になれた。

 ただ僕は、現実から逃げたくて、利用したくて、あたりまえのことを親切な振りをして彼女に教えていただけなのに。

 リンチェは、そんな僕を親のように慕ってくれて、僕の与えた大したことでもないものを大切な宝物にしてくれている。


 だから、せめて、当たり前のことでもなくて、本当は誰でも与えられるものでもない、僕しか与えられないものを彼女に与えたくなってしまったんだ。

 僕の命くらいで、彼女が呪われた日々から解放されて、なりたがっている人間の女の子になれるなら…そうでなくても、兄の呪いの償いなんてばからしいものから解放されて、彼女が彼女の人生を歩むことが出来るようになるなら安いものだろう。


 きっと、よろこんでくれるはず。

 これが僕からの最初で最後の僕だけにしかできない贈り物だ。


 僕は、リンチェの金色の瞳と太陽の香りのする彼女のふかふかの毛皮を思い出しながら眠りについた。

 その夜は、久しぶりに安らかにゆっくりと眠れるような気がした。

 

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