夜明けに咲く花

「イルリリーナ、こっちに来て手伝ってくれるかい」


 へマムは相変わらず私をよく知らない名前で呼ぶ。

 私は、少しでもアウルム様の近くにいたいのに…。


「その坊やはそのうち目を覚ますよ。

 その前に済ませておきたいことがあるんだ。早く手伝っておくれ」


 へマムが来てから3日。

 ずっとアウルム様は寝たきりだ。

 私はネズミたちに彼を任せて、へマムの元へと小走りで向かた。





 あの日、私が逆立てた毛が収まったのを見てへマムは私に優しく諭すように話してくれた。

 今、私たちのいる城が浮世と此の世の狭間にいるということ。ネズミたちが城の金貨や宝物を少しずつ使って常春の国で様々なものを仕入れていること、私の兄が、邪悪な何かになってしまいつつあること。

 そして、アウルム様が兄の願いを聞いて、今眠りについてあるであろうこと。

 

 私は、何も知らなかった。何も知らずに、アウルム様がいう言葉を鵜吞みにして、彼の痛みも悩みも、気付いていたのに知らない振りをして甘えていた。

 そのことを突きつけられたようでひどく胸が痛んだ。


「いいかい、イルリリーナ。忘れているだろうけど、あんたの先祖も、あんたも、女の体に生まれたのなら穢れを焼き払う力を受けついているはずだ。

 だからね、それをゆっくり思い出すんだよ。

 さ、ここに立って深呼吸をしてごらん」


 私を知らない名前で呼ばないで。私はリンチェ。

 そう思いながらも言い出せずに、私はへマムに言われるがまま、今日も濃厚な甘い香りの漂う香の焚かれている祭壇の前で目を閉じるのだった。


 この香りを嗅ぐと頭の中がピリピリとする感覚、体中の毛穴が開いて、鼓動が早くなる。


「火の力。焼き払い清める力。思い出すんだ」


 へマムの声が遠くで響く。

 思い出すもなにも私はこんなこと知らない。

 私は…。

 私は…。


 思考が遠くなる。言葉を、紡げなくなる。




―――


 目を開けると心配そうに私の顔をのぞき込むへマムがいた。

 まるでお母様みたい…。小さいころもこうやって精霊卸の儀で倒れた時に心配したお母様も私の顔を見ていたっけ。


 精霊卸の儀?そんなこと私していたっけ?

 あれ?


「していたさ。

 あたしは直接会ったことはないけど、何度もあんたと会ってるんだよ」


 へマムが私の心の声を聞いたみたいに、そう言いながら優しく頭を撫でる。

 そして、今まで忘れていたことが嘘みたいに、私の頭には精霊卸の儀で何度も倒れたこと、お母様が書庫の奥に隠してある真っ白の宝玉を浄化していたことを思い出す。

 大切なことを忘れていた哀れな脳を呪いたくなったのは何度目なのだろう。


「あんたが悪いわけじゃないさ。そう作り替えられたんだよ。

 あたしの留守中に忍び込んだナニカに、ね」


 へマムはそういうと、キセルを加えて気だるげに煙を吐き出した。


「さて、あの坊やの目が覚める前にあんたにはまだまだ教えることも思い出してもらうこともたくさんあるからね」


 鬱屈とした空気を振り払うかのように、少し声を張り上げたへレムはそう言って立ち上がると私に手を差し伸べた。

 私は、その手を取りたちあがると深呼吸をしてへマムから漂う甘い香りを肺いっぱいに吸い込んだ。


 ゆっくり、思い出していく。

 人間だったころに、していたように。

 

 頭の中がピリピリする。でも、前みたいな不快感は感じない。


「火の力。焼き払い清める力」


 へマムの声が遠くで聞こえる。

 小さなときに見ていたこと。お母様がしていたことをイメージする。

 白い宝玉の中に渦巻く灰色の淀みが赤く光って消えていくように。


 両手を前にかざしながら私はスッと目を開いた。

 目の前の香の台からは、小さいときに精霊卸の儀で見た紅い大きな花が見事に咲いていた。


「やるじゃないか。

 これで、あんたの中にあるあたしの力は目覚めたよ」


 へマムの嬉しそうな声で我に返る。

 頭を撫でられると、なんだかお母様を思い出して涙が出そうになった。


 へマムがいうには、私はもう”そっち側”…つまり、ヒトではない精霊のようなものらしい。

 それでも、元々の生まれがヒトの私は魔法を自由につかえるわけではなく、あくまでもへマムの力の一部を借りて簡単な魔法を使うことが出来るという程度の力しかないということだった。

 

「この力は、あんたがかけられたような契約による呪いは浄化できない。

 でも、覚えておいてほしい。

 あたしの、このへマム様の力はそれ以外のものなら焼き尽くせるって」


 胸を張ったへマムは「これでも、かつてあったこの国の守り神なんだからね」と続けたが、私のことを見てしまったというような顔をすると「気まぐれすぎてこんなことになってしまったのは申し訳ないけど…」と決まりが悪そうに頭をポリポリ掻いて項垂れた。

 そんなへマムがなんだか子供のように見えてつい笑ってしまった。


「きっと、貴女がいたとしても私や兄は、あの悪魔の口車にのってしまったと思う。それに、精霊が気まぐれなのは仕方のないことでしょ?

 だから、そんなに気に病まなくてもいいよ」


「イルリリーナ…」


「ううん、ちがうの」


 私の頭を撫でようとするへマムの腕を手で静止して、私は彼女の顔を見た。


「私は、イルリリーナじゃない。

 私は…私の名前はリンチェだよ」


「そうかい。いい名をもらったね。リンチェ」


 イルリリーナは、多分、私の名前なんだろう。

 へマムが最初に口にした時からずっと気が付いていた。

 でも、認めたくなかった。ピンとこなかった。


 今の私は、あの人が名をくれたからここにいる。

 イルリリーナだった私も、ここにいるけれど、ここにいない。

 私は、リンチェ。山猫の姫。


 呪いが解けたとしても、過去にそのままもどるわけじゃない。

 わかっていたけど、わからないふりをしていた。

 今の私は、私のしたいことを、私のすべきことをするんだ。

 私に名をくれたあの人が誇れるように。

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