朝焼けの始まる前に

 私は、あの日読んだ本の内容をアウルム様に話した。

 ただ、本を見せるつもりにはなれなかった。

 あれを開くとなんだかこの世のものではないようななんとも言えない不思議な音楽が流れ、本に書いてある内容が情景と共に脳裏に流れ始めるのだ。

 記憶の中にあった通りの兄の姿、弱った父親と母親。そして過去の自分であろうお姫様…。

 そのお姫様は、美しい長い金色の髪と、陶器のようになめらかで透き通るような白い肌をして、頬は薔薇色に染まっている。そして、絵画に描かれる女神のように美しい顔をしていた。

 今の、猫の化け物になってしまった自分とはあまりにも違う姿だ。

 記憶をほぼ取り戻した今も、自分の姿がかつてあんなに美しかったとは思えなかった。それは、とてもとても長い間、自分が化け物でいるからなのだろうか…。


 きっと彼は、昔の私を見ても今の私を邪険に扱うことはしないということはわかっていても、アウルム様に過去の自分の姿を見られるのが嫌で、私はあの日書庫で見つけた本を自室の寝床の中にそっと隠したのだった。


 あの日から、毎晩兄様が夢に出てくる。

 本のせいなのかはわからない。

 かつての煌びやかだった城の中庭が見渡せるバルコニーに立っている兄様は、悲しそうな顔でただ化け猫になった私を見つめるだけだった。


 夢の終わりで、兄様はいつも少しずつ薄くなって靄のように消えていく。

 何か言葉を交わせたら…と毎回手を伸ばそうとすると、私の手は兄様の体をすり抜け、空を撫でることしかできない。

 なので私は、長いような、短いような時間を私を見つめる兄様の事を見て、せめて、今は幸せであることを伝えようと、1日にあったことを話すようになっていた。

 それでも、きっと兄様に私の声が届いていないと思うのは、兄様がいつも悲しそうな顔を崩さずなんの身動きもしないからだった。


 そんな日々が何日続いたのだろう。

 アウルム様に勇気を出して夢の話をした日の夜、夢の中の兄様に変化が現れた。

 終始悲しげな顔をしていた兄様が、目を丸くし、口をまるであくびでもするかのように大きく開けている。

 初めて見た兄様の表情を見て「もしかして、私の声が届いたのかもしれない…」そう思った。


「兄様!」


 手を伸ばして、兄様の手をつかもうとしたところで私は目を覚ます。

 まだ、日も昇り切らず青く染まり静まり返った部屋の中を見回してみた。

 ネズミたちもまだ起きていないのか本当に物音ひとつしない。

 寝直すのもなんだか気が進まなくて、私はアウルム様の部屋へ向かうことにした。

 アウルム様はなにもないと言っていたけど、夜の間私を避けている気がしたのがきになっているのもあった。

 誰もいない今なら、アウルム様の本当の気持ちや隠していることを聞ける、そんな気が根拠もないのにしていたのだ。


 少しドキドキしながら、そして拒絶されたらどうしようという不安をいだきながら彼の部屋の前に立つ。

 ノックをしても、寝ているだろうか。それとも、寝起きの彼に不機嫌に追い返されるだろうか。

 ううん、彼はさすがにそんなひどいことはしないはずだと気を取り直して、扉をノックしようと手をあげた時、彼の呻く声が聞こえる。


「アウルム様!?」


 気が付いた時にはノックも忘れ、ドアに体当たりするような勢いで部屋にはいるとベッドに横たわる彼の元へ走り寄っていた。

 アウルム様の顔は血の気もなく、全身汗をかいて冷えてしっとりとしている。

 ドアを勢いよく開ける音を聞きつけたのか、何匹かのネズミが何事かと部屋をのぞき込んでいた。

 私は、彼らに飲み水と体を拭く為の布の用意を頼むと目を覚まさないアウルム様の様子を確認した。

 彼の顔色は先ほどと変わらず、真っ青で、先ほどから苦しそうに呻いている。

 目立つ傷は見当たらない。病気か何かだろうか。

 いてもたってもいたれず、私はまごまごしながらアウルム様の体に異変はないか必死で探そうと右往左往しながら彼の体を見てみる。

 布団をめくってしまうのは…と躊躇ったが、そんなことを思っている場合ではない。


 意を決して彼の胸から下を覆っていた布をはぎ取ってみる。

 パッと見てもなにもなく、ほっとしたときだった。

 目の隅にチラッと入っただけで「イケナイものだ」そう感じさせる気配を放つものがある気がした。

 明確に確認する前から、強い自己主張をしているそれは、彼の足首にあった。

 私は、彼のズボンに手をかけ、それを確かめる。


 彼の足には、踝から膝にかけて真っ黒い狼かなにかの尾が巻き付いている痣のような刻印が浮かび上がっていた。


 近くに行くだけで、背筋に悪寒が走る。これはなんなんだろう。呪いの一種?

 こんなものが彼の足にあるなんて。

 何故気が付かなかったんだろう。


 いや、気が付かなかったわけではない。確か、私は近いものを見ている。

 私は必死で記憶を手繰ろうとする。

 そう。それは最初の日に見た。私は、コレに布を巻こうとした。


 でも、あの日に見た痣は…記憶の中ではここまで明確な形を持っていなかったはず。


 ネズミが持ってきてくれた布で、私はアウルム様の汗をぬぐってあげながら捲った彼の衣服を正しながら考えを巡らせる。


「ああ。これはまた性質の悪い契約をしちまったみたいだね」


 背後からの突然の声にビックリして振り向くと、そこには見たこともない褐色の肌をした女性が佇んでいた。

 彼女は驚いている私を気にもせず、燃え盛るような炎の色をしたボリュームのある巻き毛を揺らしながら私の隣に移動してくる。


「そんな怖い顔するなよ。あたしはへマム。

 あんたのおおばあ様の友達さ」

 

 へマムと名乗った女性はそういうとどこからか取り出したパイプを燻らせて部屋を見回すと、ドカッと乱暴に椅子に腰を下ろした。


「ヒトの子も国もしばらく見ない間に随分変わっちまうからビックリするよ。

 イルリリーナ、あんたもすっかりヒトの子からこっち側になっちまって…」


 聞きなれない人の名を言いながら、へマムは私のことを懐かしそうな目で見る。

 まるで、私のことを昔から知っているかのような口ぶりで話す彼女だが、首をかしげて佇む私を見て表情を曇らせた。


「どういうことかと思っていたら、なるほど。

 その恰好は趣味でなったわけではないんだね」


「こんな化け物に…趣味でなるわけないでしょう!ふざけないでください!」


 カッとして言葉を荒げた私を見て、へマムはしまったと悪戯をして怒られた子供のようなバツの悪そうな表情を浮かべると、頭をポリポリとかきながら申し訳なさそうにパイプを燻らせるのをやめて「ごめん」と呟いた。

 

「長く生きてると、ついヒトを捨ててこっち側に来たがるやつを多く見てしまって…ね」


 そして、怒りが収まらずに毛を逆立てている私に近付いてくると、怖気づきもせず私を抱きしめながらそう言った。

 彼女からはなんだか嗅いだことがないのに懐かしい不思議な花のような香りがした。

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