月夜に浮かぶ黒い夢
あれから、リンチェはより一層僕に懐くようになり、寝るとき以外はほぼ一緒に過ごす日々が続いている。
毎晩、寝る前に部屋から出る彼女がとても名残惜しそうな表情を浮かべるのを知っていて気がつかないふりをしていた。
一緒に寝ようと言わないのは、世間体や貞操ということではない。
この城に来る前に川で見たあの
特に痛むこともなく、広がる様子もないのでその存在すら忘れそうになっていたくらいだったソレは、リンチェが自分の過去の顛末を話してくれた夜のことだった。
疲れたのか、安心したのか、彼女は話し終わると僕の胸にもたれかかってきた。
きっと感情の整理がつかないのだろうと、落ち着かせるためにゆっくり頭を撫でていると、すぐに彼女は寝息を立て始める。
ぐっすりと寝ている彼女を、起こさないように自分のベッドに横たわらせ、僕はどこで寝ようかと周囲を見まわそうとした時だった。
ズキンと急に痣の部分が痛み、立っていられずにその場に尻もちをついた僕の前には信じがたい光景が広がる。
投げ出された自分の足の、痣のある部分から黒い
その靄はみるみるうちに濃くなり、質感を得ると真っ黒な粘土のようにウネウネと形を変えあっという間に人のような形になった。
僕の足の上から少し浮いたところに立っているその黒い塊は、あの日川の中で見たあの毛の塊と似たシルエットをしている。
あの川での感覚を思い出し、思わず背筋がゾッとして全身に鳥肌が立つのがわかる。
そういえば寝ているリンチェは大丈夫だろうかと、黒いソレの向こうに見える彼女に目をやろうとした時、脳に響いてくるような低く不快感を感じる神経を直接爪で弾かれるようななんとも言えない声が聞こえてきた。
なんと言っているかは聞き取れないその声は、とにかく僕に対してよくない感情を向けているということだけはわかった。
なんとか体を動かそうとするも動けず、全身から嫌な汗が噴き出してくる。
せめて、リンチェだけでも安全な場所へ…と思ったところで記憶が途切れた。
あの日、気が付いた時には朝日が僕の顔を照らしていて、ベッドに彼女はいなかったが、いつも通り朝食が出来たことをネズミと共に伝えてくれたことに心から安堵したのを覚えている。
それから数日、毎晩黒い影が僕の痣のあたりから浮かび上がる悪夢を見るようになったのだ。
いや、悪夢だと思おうとしているだけで、多分現実に起きていることなんだろう。
自分に対して決して好意ではない感情を向ける存在が現れる部屋に彼女を眠らせて何かあるのは嫌だと、僕は彼女と夜を明かすことを柔らかに拒んでいるのだった。
悪夢の中の黒い存在は、日に日に言葉が明確になっている気がした。
最初の頃は全く聞き取れなかったその声は今ではなんとなくの単語を聞き取れるまでになった。
昼さがりの暖かな日差しの中、僕の膝の上で猫のように寝転がってまどろんでいるリンチェの頭にそっと手を置いた。
長い間、人の心も記憶も失ってたった一人この城にいた彼女の心境なんて何不自由なく育った自分にはわかるはずもない。
僕は、大切に育ててくれた家族と離れても、寂しいと思えずホッとしてしまうくらいには薄情だ。
彼女や、かつてこの国の繁栄を悪魔に願ってしまった彼女の兄のように自分の守るべきものすらわからない。
だからせめて、僕自身のちっぽけな独善のために、ひたむきに頑張る目の前の可憐な女の子の力になれれば何か変われるんじゃないか。そう思った。
リンチェを元に戻すための調べ物や、彼女がヒトに戻った時に困らないようにと簡単な家庭教師の真似事をしながらゆっくりとした時間は過ぎていく。
そして、また忌々しい夜がやってくる。
「どこか具合でも悪いのですか?薬などがあれば持ってこさせましょうか?」
手の甲にひんやりとした肉球の感触と柔らかな毛の感触がそっと伝わってきた。
リンチェに心配させてしまうくらい険しい顔をしてしまっていたらしい。
心配そうに僕の顔を覗き込みながら僕に手を重ねるリンチェに「大丈夫だよ、ちょっと目にゴミが入っただけだから」と笑いかけると、彼女はホッとした表情を浮かべて胸をなでおろした。
「この頃、悲しそうにしている兄様の夢を毎晩見るのです。
あの話をした後なので、もしかしたらアウルム様も何か変な夢を見ているんじゃないかと思って…」
「昨日の夢は…なんだったっけかな。
君が上手に縫い物ができたと僕に
少しおどけながら、今日苦戦していた刺繍の様子をからかうようにすると、リンチェは唇を前につきだして子供のように拗ねた顔を浮かべた。
「ごめんごめん。いつも一生懸命で可愛くてついからかいたくなってしまったよ」
リンチェは拗ねた顔を維持しきれずに吹き出すと、少し照れながら僕の胸に頭を擦り付けた。
彼女が嬉しい時やリラックスしている時に無意識によくする仕草だった。
少し心配していたけれど、どうやら、リンチェの見ている兄の夢は僕が見ている悪夢のような類ではないらしいとなんとなくわかる。
悲しそうだとはいえ、ながらく忘れていた肉親の夢を見るのは嫌なことではないのだろう。
彼女をいつも通り部屋から見送り、僕はテーブルと壁のランプの火を消しベッドに横たわった。
月明かりが頬を照らす。
もう少ししたらまた、いつものように恨みがましいあの黒い何かを目にしなければいけない時間が来る。
段々と慣れてきて恐怖心も薄れてきた僕は、ふと先程のリンチェの「兄の夢を見る」という言葉を思い出していた。
考え事をしているうちに眠ってしまったようだった。
僕はいつものように、ふと意識を取り戻し、足元に視線を送る。
そこには、やはり、いつものように黒い塊が浮いていて、目や顔がないはずなのに僕を恨めしそうに見つめているということがわかる。
『ワタシノ クニ』『ユルサナイ』『イルリリーナ』『シンジツ ヲ シレ』
相変わらずよく分からない言葉を一方的にぶつけられる時間が過ぎていくのか…と半ば諦めに近い気持ちで、黒い何かを見つめる。
目をそらそうにも、こうなると自分の意思では体はおろか視線を動かすことさえできなくなるのだ。
もう何日も似たようなことが続いていて、不快なだけで恐怖心は薄れてしまった僕は、時間を持て余し、リンチェに明日は何を教えようかを考えようとした。
その時、寝る前に彼女が言っていたことを思い出した。
僕が悪夢を見始めるのと同じタイミングで、彼女は兄の夢を見るようになったと言った。
もしかして、これは…目の前にいるこの黒い恨み言を言うナニカは、リンチェの兄なのでは?
「もしかして、あなたは…」
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