日常の始まり
目が覚めた時、頭の中がやけにスッキリしている気がした。
靄が晴れたような、頭の中に張っていた薄皮が一枚剥がれたような、そんな感覚だった。
わたしは体を起こすと、錆色の毛皮を舌でブラッシングをして灰色に霞んでズタズタの布を体に巻きつける。
こんなズタズタの布切れを身に纏うくらいなら、一層の事裸のままの方がマシなのはわかっているけど、どうしても恥ずかしいという感情と、布切れにしか見えない服を身につけないということが"かつて人であった"名残を完全に捨ててしまうことになりそうでやめられない。
わたしは布切れを、思うように動かない肉球と爪を疎ましく思いながら、体に巻きつけた。そして、二本の足で歩いても布切れが落ちないように布の端と端を結んだ。
「ニャオン」と短く鳴くと、人間の幼児くらいの大きさの白いネズミがわたしの元に駆けつけてきて「キィ」と鳴く。
昨日まではノネズミのようなサイズだったはずなのに…と少しだけ不思議に思う。
遥か昔に見た、畑に揺れる秋の小麦畑のように輝く金色の髪の青年、アウルムを助けてから、わたしとお城には奇妙なことが続いている。
彼が来るまでのわたしは、言葉も忘れ、辛うじて人間だった頃の服を身に纏う化物だった。
今ならわかる。きっとあのまま年月をさらに重ねれば、わたしは布切れも邪魔だと破り去り身も心も完全に山猫になっていただろう。
「キィキィ」
「ああ、ごめんなさい。アウルム様に朝食を用意してくれないかしら」
物思いに耽っている私を咎める鳴き声で我に返った。私は、慌ててネズミの家臣へ指示を出す。
この子たちも、彼が来るまでは単なる城に巣食うネズミだったはず。
それが今では幼児ほどの大きさになり、火を使ったり城のメンテナンスをしている。
どこからもって来るのか、新鮮な果物や塩や胡椒、ワインなども調理場に並んで見たのを昨日目にした。
家臣が慌ただしく部屋を出ていくのを見送り、私は窓辺に置かれた粗末な木の椅子に腰掛けた。
私は、何が起きてこの姿になり、何が起きて言葉をまた思い出したのか…。
城や私に変化が起きたのは、アウルム様が来てからに間違いはなさそうだ。
魚を取りに出掛けた私が、キラキラした綺麗なものだと思って捕まえたのが彼だった。
あの時のわたしが彼を食べなかったのは運が良かったとしか思えない。
多分、僅かに残った人間であった時の記憶が、人間である彼を食べ物ではないと認識したのだろう。
私は、彼の服を咥えて根城にしていたこの朽ちた城に運んだ。
ここで私ははっきりと思い出した。
きらきらしたものが人間であること、人間は弱っているのでなんとかしなければならないということを…。
四足歩行をしていたわたしは、急にそれが恥ずかしくなり二足歩行をしながらよたよたとガラクタが置いてあるところまで歩くとズタズタの布切れを前足に持った。
肉球と短い指ではうまく布がつかめずもどかしい思いをしたのも覚えている。
何か音が聞こえて、私が音のする方向を見てみると、彼が目を開いてこちらを見ていた。
目が覚めた彼が何を話しているのか最初は分からなかったが「僕の名前はアウルム」それだけが耳に残っていた。
次の日、目が覚めると私の周りで白い小さなネズミたちが働き周り、私の頭はその前の日よりも少しだけスッキリしていた。
ネズミの家臣から、彼の目が覚めたことを伝えられ、わたしはアウルム様の部屋へと向かう。
お腹が空いているだろうと、ネズミたちには食事の用意をするようにと伝えるのも忘れなかった。
この日の私は、彼の言葉がなんとなくわかるだけではなく、私の言っていることが彼に通じることがわかった。
いや、正確には私が人間の話す言葉を使えるようになっていたのだ。
何故、前の日まで言葉が使えなかったのかはわからない。
彼と食事をして、会話をした。
そして、「リンチェ」という名を貰った。
化物である私に、名前が付けてもらえた。
目の前が急にキラキラし始めた気がしてその後何をしたのかはあまり覚えていない。
やけに幸せでふわふわとしていて、陽だまりの中でお昼寝をしているような…そんな気持ちでいっぱいになったことを覚えている。
幸せな気持ちで眠った後、目が覚めた私の頭は昨日より遥かにスッキリしていた。
昨日と同じように、ネズミの一匹にアウルム様と私の食事の準備を命じる。
城を見渡してみると、ところどころ崩れたり朽ちたりしてはいるものの、数日前とは見間違えるほど綺麗にはなっている気がする。
無数にいるネズミたちは、せわしなく動き回り床を拭いたり、どこからか集めてきた布を縫い合わせたり、欠けた花瓶に野花を活けていた。
せわしなく家臣たちが動き回る様子や、花が飾られたテーブルを見るとなんとなく懐かしい気持ちになる。
城内を一回りし終えると、朝食の準備が整ったらしい。
短く鳴くネズミに促され、私はアウルム様の部屋へと向かった。
「おはよう、リンチェ」
アウルム様は、すでに起きていて暇でも潰していたのか、手に持っていた書物を横に置くと私の方をみて腰を上げて出迎えてくれた。
「アウルム様、おはようございます。
だいぶ顔色が良くなられましたね」
そう言ってお辞儀をしてアウルム様の方を見る。
彼は、私を見て固まっていた。なんだろう…。お辞儀の仕方が変だったのだろうか。
「あ、違うんだ。
こう…昨日と話し方が、そう、話し方があまりにも違うものだから驚いただけだよ。
お辞儀が変だとか、君が怖いだとか、そういうことじゃないよ」
私がオドオドしたのを察してか、アウルム様は申し訳なさそうにそう言って頭をかいた。
そういえば、昨日の私はもっとたどたどしい話し方だった気もする。
でも今となっては何故そんな話し方だったのかも思い出せない。
ネズミの一匹が、私たちを呼びに来て食堂へと誘導される。
年季の入っている決して綺麗だとは言い難い広いテーブルの上には、欠けた花瓶。
そして、欠けたりヒビの入ったお皿がいくつも並んでいる。
焼いた魚やパン、そして果物が並ぶ食卓を見て、私はなんだか懐かしい気持ちになった。
「わぁ…」
思わず漏れたのであろう感嘆の声。
後ろを振り向いて見ると、まるで子供のように目を輝かせている姿がそこにあった。
「昨日の食事でもずいぶん驚いたけれど、今日は更に驚いたな…。
なんだか来たときよりも、建物の中も綺麗になってる気がするし。
ネズミが料理をして、山猫のお姫様がもてなしてくれるなんておとぎ話の魔法の国みたいだ」
「まほう…おひめ…さま…」
それは、私がよく知っている気がする言葉だった。
でも、今はよく思い出せない。
アウルム様が、席に座ったのを見て、私も慌てて彼の向かい側に座った。
「そうだね、その可愛らしいふわふわの手だと、少しだけ食器を使うのは難しいかもしれないね」
カチャン。と無様な音を立てる食器にヤキモキしていると真横から優しい声が聞こえた。
アウルム様がすぐ隣にいたことにすら気が付かないほど、目の前の金属の食器をつかむのに躍起になっていた自分を自覚して私は慌てて声の方を見た。
「こうやってナイフで切ってしまえば…ほら」
彼は、白く綺麗な指で器用にナイフとフォークを操り、あっという間に魚を程よい大きさに切り分けていく。
そして、フォークを私の手の上に置きそっと握らせると、そのまま手を離さずに切り分けられた魚にフォークを突き立てた。
「ね?うまくいっただろ?」
「ありがとうございます…」
前にこの食器を使っていた時は、うまく使えていた気がして、悔しくて必死で食器を掴もうとした。
今更なことだけど、自分が食器も使えないほどに化け物になっていたことを認めたくなかった。
でも、この両手は山猫の、食器も使えず、包帯を満足に巻くことも出来ない化け物のものだと自覚してしまった悲しさと、彼がそんなことを気にもしないで「可愛らしい手」と言ってくれたことがすごく嬉しくて思わず声が震える。
人間の時だったら、涙の一つでも流せたのかもしれないが、この体は悲しくても涙は出ないらしい。
「あ、違うんだ。
無礼なことをしてごめんね、決して馬鹿にしたわけじゃ…」
「違うんです。嬉しくて…。
ありがとう…私のこの何も出来ない手を…可愛いと言ってくれて…」
彼は、私の汚れたごわごわする毛皮を撫でる。
そして、私の両手を持ち上げて目を合わせると、優しく微笑んでくれた。
「君はその手で僕を助けてくれたし、包帯も巻こうとしてくれた。
何も出来なくなんてないよ。これから出来ることを増やしていこう。
僕がここにいる間は、手助けを出来る限りするから」
『僕がここにいる間は』で、彼がいつかはここからいなくなってしまうことを実感して胸が少し痛む。
けれど、その痛みよりも、この手が彼の命を救えたこと、これからも出来ることが増えるかもしれないと言ってもらえたことが嬉しくて、涙はでないものの感情の高まりで思わず体が震えてしまう。
そんな私に何も言わず、彼は私の体の震えが治るまでずっと頭を撫で続けてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます