日常の終わり

 とても晴れた春の日だった。

 特にトラブルもなく、公務を終えた兄と久しぶりに狩りでもしようと山へと繰り出した日だ。


「どうやらこの森の者たちはまだ冬眠から覚めぬようだ。

 せっかくの兄弟水入らずの時間だ。少し足を伸ばしてみよう」


 兄の嬉しい申し出を断る理由はない。僕は二つ返事で快諾をすると、兄がまたがる白馬の後ろに自分の黒い馬を走らせる。


 少し肌寒いが、春の香りが鼻をくすぐるし、日差しも柔らかい心地の良い日だった。

 しばらく公務も忙しくろくに話もできなかったせいか兄と会話がとても弾んだのを覚えている。


「少し奥に来すぎたかな。ここら辺で休憩でもしよう」


 森の中にポツンと開けた場所にたどり着く。

 兄もどうやら見覚えのない場所らしい。

 まぁ、少し戻れば知っている場所にたどり着くだろうと判断した私たちはせっかくなので馬を降りて下女のもたせてくれたパンを食べることにした。


 弓の手入れをしながら兄は許嫁の隣国の姫のことを話している。


「次男とはいえ、お前もそろそろ16だ。領地内に器量の良い貴族の娘でもいればいいんだがな」


「私にはまだ妻を持って領地をやりくりするなんて早いよ。もう少し兄さんのそばで学ばせてもらわないと…」


 今、この国は平和だった。

 特に戦争があるわけでもなく、僕には継がなければいけない国もない。

 兄や父としては、領地を治めてこそ一人前といった価値観があるのはわかっている。でも、どうしても僕自身が誰かの上に立ち、何かを決断するといったことを行う想像ができなかった。


「まあ、時期が来れば考えるよ。

 あ…兄さんあそこに小川があるよ。魚でもいないか見てくるよ」


 気が進まない話題から逃げるために、席を外そうとわざとらしく話をそらした僕は、目と鼻の先にある小川へと歩いた。

 兄もそれを見透かしているのか、苦笑を浮かべながら右手を上げ了解の合図を送る。


 靴を脱ぎ、川の中に足を踏み入れると、川の水の刺すような冷たさを足に感じる。

 足元を軽く見回すが、魚はいそうにない。

 このまま戻っても早すぎると、魚を探すふりをしてもう少し川の奥へと足を伸ばした時だった。

 ぬるりとした感触が足に伝わった時には、もう僕の体はバランスを失って水の中に倒れ始めていた。靴を持っていた片手を慌てて動かすが、何もつかめるはずもなく僕の体は無抵抗に川底に倒れこむ。

 急いで立ち上がろうとして、川底に手をつくが藻か何かの滑りでうまく力が入らず、水を吸って重くなった服や腰にぶら下げていた剣の重みで体はどんどん沈み流れの激しい方面に引きずられていく。


「助け…」


 そう言ってやっとの思いで顔を水面から出すと、川辺で顔を真っ青にしている兄が遥か遠くに見えた。

 兄が何か叫んでいるが、もうここでは聞こえない。

 何とかしようと足を動かそうとした僕は、水の重みや流れではない何か引っ掛かりを感じた。

 流される中必死に自分の足を見ると、見たこともない黒い大きな毛の塊が僕の足にうねうねと奇妙に揺らめきながら絡みついている。

 

 あまりの気持ち悪さにパニックになり、その毛の塊を振りほどこうと自分が水の中にいることも忘れてもがく。

 あっという間に頭は水の中に沈み、顔じゅうの穴という穴に水が流れ込んでくる。


 もがきながら体と意識が重くなる感覚に襲われた僕が次に感じたのは湿気とカビ、そして強烈な獣臭さだった。

 近くでガサゴソと布を擦る音と何かを漁るような音がする。


 そうか、僕は川でよく分からない黒い塊が足に絡みついてそのまま…。

 運よく誰かに助けられたのか。

 お礼を言わないと…と僕は近くで何か作業をしているであろう人を確認するためにゆっくりと目を開けた。


「ニ゛ャオオオン」


 不気味なしゃがれ声を放ったソレはギラリとした大きな金色の瞳で僕を覗き込んでいる。

 ヒッと息を呑み身を強張らせる僕の目の前にいたのは、人ではなくボロボロの汚れた布を体に巻き付けた巨大な錆色の猫が佇んでいたのだった。

 その猫は、僕の背丈の頭二つ分、いや、三つ分は大きいように思える。そんな化け物が今僕の顔を見ているのだ。

 本能的に恐怖を感じた僕はサッと目をそらし、山猫の手元を見た。猫の手元には細長い白く薄汚れた布が握られている。

 食べるつもりなら、きっともう食べられていたはずだ。きっと食べるつもりはない…と言い聞かせて今にも叫んで逃げ出したい気持ちを抑える。

 敵意がないなら、それに越したことはない。

 話が通じるかもわからないけど、とにかく恐怖と不安を紛らわせたくて僕は何か言葉を口に出そうと必死で言葉を探す。


「こ、こんにちは」

 

 上手く言葉が浮かんでこないが、黙っているままでいると、巨大な山猫に食べられてしまいそうな気がして意を決して口を開いた。

 山猫のギラギラと光る金色の瞳に中にある瞳孔が少し開いた気がして、変な汗が身体中に噴き出してくる。

 恐怖で歯が鳴りそうになりながらも、必死で平静を装いながら言葉を続ける。


「僕はアウルムって言うんだ。もしかして、君が助けてくれたのかい?」


 少し間をおいて、山猫は首をかしげるるような仕草をした。 

 襲いかかってくるような気配は感じない。


「ニ゛ャオォォォン」


 言葉が通じたのかどうかは分からないが、返事のようなしゃがれた鳴き声をあげると巨大な山猫は目を細め、僕に頭を擦り付けてきた。

 少しの獣臭さとゴワゴワした毛皮の感触が肌に伝わってくる。

 この山猫に敵意がないということくらいしか分からないが、とりあえず命を取り留められたことの安堵からか一気に倦怠感が体を襲ってくる。

 僕は頭を擦り付けてきた山猫の頭を軽く撫でると、そのまま目を閉じてまどろみに身を任せることにした。

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