山猫の姫

小紫-こむらさきー

山猫の姫

「あなたのお陰で私は、この耳で音を聞き、心で理を作り、この口で言を紡ぐことが再び出来るようになった。

 この醜い姿でも、この傷つけることしか出来ない両爪でも、あなたの役に立つことが出来るならこの身など惜しくはありません」


 錆色の毛を逆立てた目の前の彼女は、大きなガラス玉のような眼をギラつかせながらそう言って僕に覆いかぶさっていた。

 いつも湿っぽく暗かった城内は、煌々と赤い光に満ちている。

 それが城に回っている火の手だということに気が付くまでに数秒かかった。

 

 そうか、あの時気を失った僕を巨大な山猫の姿をした彼女は守ってくれていたんだな…と状況を吞み込みながらゆっくりと考える。


「リンチェ…」

 

 改めて名前を呼ぶと、彼女は少し冷静さを取り戻したようだった。

 ギラギラとしていて針のようだった瞳孔が少し丸みを帯びたことを確認して言葉を続ける。


「また、君は一人で抱え込もうとしてるんだね?」


 火の手が迫っていて、今すぐ逃げ出さないといけないかもしれない状況だとわかりつつも、僕は目の前の彼女の頭にそっと手を差し出す。

 頭を差し出してきた目の前の巨大な山猫をいつものようにゆっくりと撫でた。

 少し硬い毛は、火の手のせいか、いつもより少し暖かい。心地よいからか目を閉じている彼女にさらに語り掛けるように私は言葉を続けた。


「一緒に生きようと言っただろ?

 君のその愛くるしい毛むくじゃらの体も、少し不器用な可愛い両手も僕にとっては宝物なんだ」


「たから…もの…」


「そうだよ。さぁ…早く状況を説明しておくれ。

 ここを切り抜けていつもの僕たちの生活に戻ろうじゃないか」


―――ニャォン


 返事の代わりなのかリンチェは鈴を転がしたような可憐な声で人鳴きすると私の襟元を咥えて自分の背中の方へ放り投げた。

 そして僕が彼女の背中に捕まったことを確認すると、疾風のような速さで駆け始めた。

 四足歩行がこんなに速いとは知らずに思わず振り落とされそうになる。


「君…こんなに速かったのか…すごいな」


「あなたの前では恥ずかしいからしたことなかったけど…。

 火の手が回りにくい城の上まで移動するからしっかりつかまってて」


 火の手に囲まれているということを忘れて思わずはしゃいでしまう。

 景色は流れるように変わり、火の熱を感じる間もない

 多分、危険な場所で私が目覚めてすぐ逃げやすいようにと守ってくれていたんだろう。


 そんなことを考えられるようになったなんて最初のころと比べて彼女も随分成長したなと感慨深くなっているうちに頬に当たる風が止んだ。

 どうやら目的地に到着したらしい。


 あたりを見渡すと、見慣れた幼児くらいの大きさのネズミの家臣たちが勢ぞろいしていた。

 中にはミニチュアの甲冑らしきものを身に着けたものまでいる。


「アウルム様もここに残り、我らと戦ってくれます。

 これから、無礼な訪問者に対し反撃の狼煙をあげましょう。

 皆の者、生き残り、また新たな日常へ戻るのです」


 キィーキィーとけたたましく鳴き始める家臣たちは、どうやら僕の帰還を歓迎してくれているらしい。

 リンチェの凛々しい演説で士気が高まったのか、部屋の中に熱気がこもるのを感じた。

 この熱気の中、冷静に現状を把握するのはもう少し先になりそうだと判断して、目の前の棚にあった酒瓶に手を伸ばすと、蓋を開け中の葡萄酒を喉に流し込んだ。


 凛とした声で話す二足歩行の巨大な山猫と、その世話をする無数のネズミたち。

 そんな奇妙な存在が『あたりまえの光景』となる前の生活が僕にもあったけれど、それはやけに遠い日のように感じる。

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