紫煙と烏賊の話

 


 死にたくなるような朝だった。

 空気は冷たくも空は青く、騒々しくも緩やかな朝の訪れ。冷えた風が頬を撫でれば寝ぼけた頭も醒める。ごくごく普通、平々凡々、ありふれた朝の始まり。

 だと言うのに、今日は夢見が悪かった。内容は覚えていないけれど。

 重たい身体を起こして、汗ばんだシャツの襟を引っ張ってみたが、それだけじゃ不快感は拭えない。寝こけているだろう家主はまだ暫く起きないだろうし、適当なタオルと服をタンスから引っ張り出して部屋を出る。後でシーツの類も洗濯機にぶち込んでやろう。

 じっとりとした衣類を洗濯カゴに放り込んでシャワーを浴びる。冷水から温水に変わるまでの時間すら惜しくて、すぐそのまま被ってみたはいいものの、やっぱり冷たい。飛び出しそうになった声を噛み殺して、ボディタオルを手に取った。ボディソープで泡立てている途中、シャワーの水音に混じって、洗面所の微かな足音に気が付いた。

 思わず音の方へ顔を向ければ、足音は迷いなく、それでいてどこかたどたどしく近付き、磨り硝子の扉に手を掛けた。声を掛ける暇はない。


「おとうさん……?」

「……誰がお父さんだ。寝ぼけてんじゃねえぞネコ」


 浴室での声は響く。敏感な耳をしてるネコには目覚ましになるのだろう、眠そうに伏せられがちな瞼を目で擦り、組んだ両腕を上へ伸ばし息を漏らした。


「らんらんだぁ……」

「ライカな。あと、風呂入ってるから出てってくれ」

「……あ、ごめん」


 扉を閉じて遠ざかる足音。リビング辺りにでも向かったのかもしれない。

 頭を掻いて温水を頭から被る。とっくのとうに温かくなっていたそれを浴びながら、今更こみ上げてくる気恥ずかしさに顔を覆った。文句の一つでも零してやりたいが、ネコに聞こえるかもしれないから口を噤む。

 普通に風呂入ってくるんじゃねぇって事とか、父親だったら風呂の扉開けてもいいのかって事とか、らんらんじゃなくてライカだって事とか! ……まあグチグチ言うこともねぇけど。


 羞恥と呆れ、そんな一日の始まりだった。

 他にも朝食に出した牛乳をひっくり返したり、タンスの角に足の小指をぶつけたり、気分転換にと外へ出れば鳥の糞が頭にぶちまけられたり、どういうレベルで運が無いんだ。ちなみに、入り直した風呂場で今度は転倒した。下手したら死んでる。

 運が良いと思えるのは、ネコはもう家を出ていて、今日はなにかしらの予定が入ってないことくらいか。ちくしょう。

 着替え終えてタオルを頭に被せながらソファでぐったり死んでれば(比喩であって実際に死んでるわけじゃない)最近聞き慣れてしまった携帯電話の着信音が部屋に響く。手に取って画面を確認すると、これまた見慣れた名前が映っていた。


 △▽△


 事務所の応接室に入って一番に感じたのは、気分を落ち込ませるような煙たさだった。自然と眉間に皺が寄るが、そんな表情の変化なんて、誰も気付きはしないだろう。


「やほやほ、ライカくん」


 煙たさと僅かな苦味。

 投げ掛けられた声色は楽しさに弾んだ子供のようで、この声の主がどれだけ幼い感性をしているか証明しているようだった。当の本人はゆるりとした仕草でソファに沈み込み、煙を燻らせている。


「それで、話は?」

「突然本題に入るなんてつまんないの」


 嫌に楽しそうな声でそれは言った。燻っている煙と柔らかな白髪が重なって、鈍い光を帯びているようだ。だからといって見惚れる、なんてことは無いんだけど。


「ねえ、何かお土産とか持ってきた?」


 尋ねる声に否定を返す。毎回茶菓子を持ち込むほど、殊勝な性格でもないのは知っているだろう。急な呼び出しなら尚更だ。


「ちぇっ、つまんないの」

「それよりユキ、どうしたそれ?」


 それ。

 ユキが持っている筒状の……手っ取り早い話が煙草だ。吸い始めたばかりらしい煙草はちらちらと先が燃えている。


「ちょっと前にさー、ネコさんが煙草の煙が好きじゃないって言ってて」

「お、おう?」

「事務所を煙草の煙とか、匂いとかで満たしたら追い払えるかなーって」


 「猫は煙が嫌いって言うしね」なんて零しながら煙草を吸い、紫煙を吐き出すユキを眺める。煙草特有のヤニ臭さに顔を顰めるが、やっぱりユキも気にしない。

 そこで、一つの疑問が浮かんだ。


「それだけか?」

「何がー?」

「その報告の為だけに、俺をここに呼んだのか?」


 そこまで言えば、目を細めてユキは笑う。薄暗さと煙草のせいだろう、舌舐めずりをして獲物を今か今かと待ち構えている悪魔のように見えた。


「あはっ、それだけじゃないよ。強いて言うなら……ライカくん、最近運がないなって思わない?」

「……なんだ、急に」

「別にー? 煙草ってさぁ、ネコさん避けなだけじゃなくて魔除けにも使われるんだよ」


 銀色の灰皿に灰を落として、もう一度煙草を吸うユキ。視線がソファに向かったのは座れとのことだろう。視線に従い、勢いよくどかりと座れば、ユキは面白そうに笑った。


「元々は獣避けなんだけどね。煙……どっちかというと火なんだけど、それで動物を追い払ってたのが、転じて魔すらも避けるって言い伝えになっちゃった。他にはお香と同じ感じかなー。葉に気分を良くする匂いを混ぜて浄化する。病は気から、ポジティブに考えを切り替えようってこと」

「別に俺はネガティブでも病んでもねぇけど」

「そうかなぁ?」


 柔らかい笑みを浮かべてるくせに、やけに言葉は冷えている。何を知ってるつもりかわからないが、どうせ暇潰しだとかどうとか思ってるんだろう。人で遊ぶ悪趣味なユキらしい。


「夢は頭の中を整理するから起きることでもあるし、未来を視る力でもあるんだよ。もしかしたら……」

「オカルト話してぇなら相手間違えてんぞ」


 眉を下げて「つれないなー」なんて。間延びした声はいつも通り、本の代わりに煙草を手にしたユキだった。


「……一本寄越せ」

「あ、吸ってくれるの?」

「吸わねぇと帰す気無ぇからだろ」


 何がおかしいのか、小さく音を立てて笑うユキから煙草を一本受け取る。銘柄も何もわからないそれ。葉に紙を巻いて燃やすだけなのに、その煙は驚くほどの中毒を引き起こす。

 縁のない俺にとっては麻薬とそう大差がない。合法か、違法か。それだけ。


 さっきのユキを真似て、火をつけてフィルターを唇で挟む。ゆっくり吸っただけなのに、煙の量に噎せ返った。予想以上なくらい喉に絡む。


「ライカくんへたっぴなんだねー」

「っ、下手もクソもあるかよ」


 煙草なんざ吸わねぇんだから仕方ねぇだろ。

 内心でも毒づいて、もう一度。鼻先を掠める煙草の熱と、メンソールの刺激に目を細める。煙草には当分慣れなさそうだった。


「適当にコンビニで目に付いたのを買ったんだけど、おいしい?」

「うまかねぇな」


 もう火を消してしまおうか。そう思いながら煙草を灰皿へ。

 その瞬間、影が落ちた。


「事務所は禁煙ですよ」


 灰皿へ向かうはずだった煙草は誰かの手に握り込まれた。熱くはないのか、手の主を見上げた。


「煙草は料理の味が濁ってしまいます。身体にも悪いそうですし、ネコさんも嫌がるので辞めてくださいね」

「……カイト、居たんだな」

「ええ、ついさきほど」

「僕は気付いてた!」

「でしょうね」


 俺の後ろに立っていたんだ、ユキから見えるのは当たり前だ。


「それ、熱くねぇの?」

「特には」


 ユキは自分が持っていた煙草を灰皿へ捻り潰せば、カイトが灰皿を持つ。ついでに俺の吸っていた分を灰皿へ落とせば、そのまま応接室を出ようと歩いていく。

 火に触れたはずの手のひらは灰で汚れてはいるものの、火傷しているようには見えなかった。


「そうだ、ユキ。ライカへの謝罪は済んだのですか?」

「謝罪?」

「あー……これからするとこ!」


 なんのことだとユキへ視線を向ける。先程とは違う、ほんの少し引きつった笑みはぎこちない。

 穏やかな微笑みで、カイトは「忘れているかと思いました。では昼食の準備をしますね」なんて残してやっと出ていった。


「で、謝罪って?」

「あー、大したことじゃないよ。なんか僕が悪いみたいであんまり言いたくなかったんだけど……」

「濁すな、言え」

「ええと……ちょっと前にさ、ライカくんにお使い頼んだじゃない?」


 お使い。確か、隣町の山にある廃墟が心霊スポットになってて、その廃墟の調査を頼まれたのは記憶に新しい。心霊スポットのわりには物はなんにも無ぇし、なんならぼろいだけの廃墟だったと伝えたあの案件。途中地震があってすぐ帰ったっけな。

 なんでそんなもんを調べなきゃなんねぇのかは知らねぇけど、ユキにとっては必要らしいそれ。自分でやりゃいいのにな。


「あの場所、心霊スポットじゃなかったんだけど、厄介なのがいてね。人の精神をかき乱す芋虫……うーん、やっぱり烏賊かな。烏賊なんだけど、その巣だったらしくてさ。それに影響されたっぽいんだよね、ライカくん」

「いか」

「うん、烏賊」

「山の中にか」

「岩と地中掘るからね」


 頭が痛い。


「僕もほんと気づかなかったから悪くないと思うんだけど、そこに送り込んだのは僕だし、なんか普通に言ったら怒られそうだし」

「煙草はなんの意味があったんだ」

「魔除けって言ったじゃん。離れても中でいろいろ残ってたから……煙草で還ってもらったんだ。残り香なんて雛みたいなもんだしね」


 そう語るユキはさも「仕事をしました!」と言わんばかりだった。

 要するに、その烏賊とやらが俺をどうにかしようとしてて、それを祓うために煙草を吸わせたと。


「いや、誰がんなの信じるんだ」

「えっ、信じてくれないの!?」

「馬鹿も休み休み言え、クソしょうもねぇし突拍子無さすぎで吃驚だわ。あーあ、わざわざ事務所まで来たのにしょうもな」

「わー! どーしてそういうこと言うのさー! ライカくんのために考えたんだよー!?」


 ギャーギャー喚くユキを無視して立ち上がる。そのまま伸びをひとつ。

 心做しか気は晴れてる気がするし、身体も軽い。でもユキの口から聞かされたのが烏賊がどうこうとか、ふざけるのも大概にしてくれ。


「……はぁ」


 つかれた。

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