夢を見たという話
そこには何もなかった。
天井がない。床がない。壁がない。
空がない。地面がない。果てがない。
文字通り何もなかった。僕ときみ以外は。
手を後ろで組んで、僕のことなど一切見ようともしないその後ろ姿をただ見つめていた。
「君は自分が誰か説明できる?」
人懐っこい声はよく響く。
ここには僕ときみしか居ないのだから、質問は僕に向けられているものだ。
ならばと僕は口を開く。答えではないけどね。
「急に何?」
「君がとても困っているようだから、私なりに気を使っているんだよ」
困っている。僕が。これは何を言っているんだろう。
そう言いかけた言葉を飲み込んだ。これが夢なのは感づいていたし、心当たりは、なくはない。
夢というのは頭の中の引き出しを引っ掻き回して、ぐちゃぐちゃにぶちまける、取るに足らない妄想に近しいもの。
最近はとても退屈して、自分らしくもないことにいろんなことに思いを馳せることが増えてきた。
元々、自分自身に対する信頼なんて無かった。暇な時間があると、自分がなにかなんて考えるくらいには。
中学、高校の頃に皆通る道だと聞くけど、中学校とか通ったことがないし、少し変な出来方をしているから、自分がなにかって問いにいつも詰まってしまう。
だからといって夢でも考え出すなんて相当暇しているみたいだ。
起きたら気分転換にどこか出かけなきゃな。
「できるときみは思うの?」
「できるよ。思うとかじゃなくて、できる。君ならね」
僕にずいぶんと甘い。
それはきみだから、とかじゃなくて僕自身に他ならないからなんだろうけどさ。
自分が誰か説明できる人は多分、そんなに多くはない気がする。
例えば僕が明るい人だとして、明るい人は全員僕なのかと言えばそれは違う。
明るくて優しくて、無邪気で、正直者で、なんて条件を上げ続けても、それが当てはまる人全員が僕なわけじゃない。
自分が誰かを説明したいなら。
「一分間だけ話をしよっか。一分間で自分をPRしようの会!」
「それやるの実質僕だけじゃん。きみが先にやったら?」
「私が『私』の説明なんてできるわけないだろ!」
明るい声色、それでもきみは僕を見ない。
「できるよ。きみは、上下猫。ネコさん。僕の雇い主だ」
「それだけ?」
「説明だけならそれだけでも充分だよ。最後の一言が蛇足なくらい」
「ふぅん。じゃあそれで君自身のことも説明できないの? 一分間も要らないよ?」
その言葉に頷くことはできなかった。
そんなに多くはないといったけど、その実とても簡単に説明することができる。
名前一つで十分だ。名はその人を表すというわけじゃないけど、ただ特定個人を指すのなら、充分。
でも、僕は。
「なら余計にさ。説明できるわけないの、わかんでしょ」
「わからないなぁ」
僕を呼ぶ名前はたくさんある。ここ最近呼ばれているのは一つだけど、本来ならその呼び名は間違ったものだ。
それでも、その名前が今の僕だと思うのなら。
「どの呼び名でも、君は君だろ?」
振り返ってようやくきみは僕を見た。
柔らかく笑ったその微笑みは本物のようで、僕の胸がちくちくと痛む。
「さ、じゃあ今から一分だけ時間をあげるから、自分についてお話してみよう。君は自分をどれだと思ってるのか、私に教えてよ」
所詮は夢。自分を甘やかす、柔らかな夢。
言ってしまえばあの言葉は、僕自身が欲しいと強く望んでいるものなのかもしれない。
現実でそんなこと、言えっこないもんね。
「僕は……」
猫みたいな吊り上がり気味の、真ん丸な目が僕が見る。
心の裏も全部見透かすみたいな、その目が苦手なんだ。
「私は君を、かわいい子だと思ってるよ。冷たくて懐かない、かわいい子」
「それ、僕の願望込みだから却下。参考になんないでしょ」
「案外そう思ってるかもよ。私ってほら、誰も嫌ったりしないからさ」
めちゃくちゃな暴論。
それっぽい言葉を連ねているだけなのに、本心から言ってるように思えるのは相当気が滅入ってるせいだ。
「ほらほら、時間無いよ。答えてごらんよ」
「きみが勝手に決めたくせに」
「そりゃ私だからね」
悪意とは程遠い無邪気な笑顔に思わず、らしいだなんて。
答えは一つ。
僕はそれ一つだけ。
「僕は……」
それ以外は僕ではないのだとしたら、本当の僕は。
「ユキ」
息を吸うみたいに唇を窄ませて、引き伸ばす。たったの二文字だ。
でもそれじゃ足りないと思って、僕は言葉を、蛇足を重ねる。
「僕は、ユキだよ。発音できない言葉でも、殺したいくらい嫌いなあいつが付けた名前でも、ほんとのお母さんとお父さんが付けてくれた名前でもなく」
「ほんとに良いの? 私が付けたあだ名だけど」
「いいの。だって」
僕の世界、僕の夢。
しょうもない自問自答。
どう答えたって意味は無い。
だとしても、僕の名前がユキだと答えるのは。
「きみが居るからね」
「……私が居なかったら?」
「誰でもないよ。僕を認識してくれる人が居なかったら、僕は居ないも同然だ。でも、きみが。ネコさんが居るなら僕はユキだよ」
「……よくわかんないや」
「僕も思うよ」
少なくとも。
君の存在が、僕を僕たらしめるものだから。
▽△▽
「ユキちゃん起きて!」
「んぎゃっ」
重たいものをお腹に投げ込まれた衝撃で目を覚ます。
目の前には見慣れた賑やかな色。
屈託なく笑うその顔に、胸焼けがしそうだった。
「やっと起きた! さっきからユキちゃん魘されてたからさ、大丈夫かなあって」
「君のおかげで大丈夫じゃないけどね」
痛みとか息苦しさとかで目を顰めてれば、「よっこらせっ」なんて掛け声で彼女は退いた。
ソファで寝てたらしい僕はなんとか立ち上がって、一度伸びをする。
時間は昼過ぎ。散らばっている本を見てると、多分読書中に居眠りしちゃったのかもしれない。
「ねえねえユキちゃん、どんな夢見てたの?」
無邪気な声が頭に響く。寝起きなんだからそんな騒がないでよ。
「凄く魘されてたみたいだったから起こしたんだけど」
「あれ起こすって言わないし。襲うって言うんだよ。襲撃暴行突撃、好きなのを選んでいーよ」
「んじゃあ突撃ー!」
からからと笑う彼女に溜め息を吐いた。
どうせ言ってもわかんないだろうな。
「……起こしてくれてありがと」
「どういたしまして!」
僕からお礼なんて珍しいんだから。
でもそんなことを言ったって、彼女にはわからない。見慣れているのにまだ慣れない、眩しい笑顔でそう言ってのけるんだ。
「そんなに酷い夢だった?」
「しつこいな。……まあ、でも」
彼女の姿を借りた僕と、僕の自問自答。
僕の不安、僕の悩み。
それを解決するための、夢。
例え一時的な、その場しのぎだとしても、僕にとっては得難いものに変わりない。
「夢じゃないんだろうね」
現実に何か影響を与えるのなら、それはきっと夢じゃない。
その人の生き方、在り方を少しでも変えるほどの想像、思考時間。
夢という形で与えられはしたけど、それでも僕にとってあれは夢っていうふわふわした、柔らかいものじゃなかった。
まあ、とりあえず。
買ってきた無駄な本は捨ててしまおう。
もう読むことは無いんだから。
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