第8話 金曜日 続き
横手教授はタシケントの役所の事を思い出していた。フィールドワークで新しい歴史資料を調査しようとした時に、ウズベキスタンの公務員が横暴で、調査がストップしかけていたときの事を。
あの時、横手教授はどんな手を使ってでも公務員にうんと言わせると決めた。横手教授は研究のためなら何でもする。女性、賄賂など色々と方法を検討し、結局奥さんに宝石を贈って落とした。
まったく納得がいかないこの状況はあの時と同じである。なぜこんな事を言い出したのか、事情があるのかわからないが中田くんに辞められたら困る。中田くんのつむじを見ながら、横手教授は手段を選ばず交渉すると決意した。
「中田くん」
「…すいません…」
しゅぼ、と横手教授が煙草に火をつける音がした。
「すいませんじゃわかんないよ」
中田くんは、予想を超える横手教授の粘りにパニック状態だった。シュミレーションではこのあたりであきらめてくれるはずだった。確かに自分は役に立つ人材なので横手教授は嫌がるだろうが、何といっても面倒くさがりなのであきらめがいい。横手教授が諦めないのは研究の事だけだ。
「中田くん」
「…はい」
「こっち向いて、ちゃんと説明して」
中田くんはおそるおそる顔をあげた。横手教授はものすごく怒っている顔をしている。研究予算でいうと8000万円分ぐらい怒っている。嘘は言えない。かといって本当のことも言えない。
「やめて何すんの」
「…ロースクールにでも入ろうかと」
「今さら?」
「…はい」
教授が2本目の煙草をくわえる。
「ロースクール行きたいからやめるの?」
「そういう訳では」
「誰かの引き抜き?」
「違います」
「結婚でもするの?給料安いから結婚できないとか」
「…っ、ご結婚されるのは先生でしょう!」
はっと気づいたら大きな声を出してしまっていた。
「それはまあ、どーでもいいでしょ」
「どーでもいいから、してもいいって思ってらっしゃいますよね」
横手教授は内心驚いた。その通りである。
「まあ、確かに」
「そういう表情されてました…!」
「それと中田くんが辞めるのとは別でしょ」
「別じゃないです!だから…!」
中田くんがしまったという顔をした。
「…別じゃないの?…どういうこと?」
横手教授は疑問を解くため、これまでの要素を振り返ってみた。法学部から来たエース、仕事ができる、研究熱心、女子学生に人気はあるが無視、気配り、横手教授への忠誠…ん?
忠誠というか、研究熱心なあまり横手教授に尽くしてくれているのだと思っていたが、今回の「別じゃない」発言要素を入れると違う論理が成り立つ。
「…中田くんは、私の事が好きなの?」
中田くんはこれまでおよそ見てきた中でも、一番というくらい瞬間的に真っ赤になった。
「…ちが、いま」
「すごい顔赤いけど」
なるほどと横手教授は思った。これまでも何故ここまで尽くしてくれるのが不思議に思っていたのだ。研究熱心という言葉では行き過ぎる情熱はそういう訳か。ふむふむと頷きながら横手教授は立ち上がった。コーヒーのおかわりを入れるためである。中田くんは動揺のあまり横手教授のカップが空になっていることを見逃している。
「そうすると結婚と退職に因果関係が成り立つ訳か。ん?ということは…」
コーヒーを継ぎ、ついでに中田くんにも入れてあげた。カップを渡す。中田くんは赤面し混乱した顔つきのままカップを受け取る。
「結婚しなきゃ退職しないってことでいい?」
中田くんがコーヒーを吹いた。
「お、おかしいです、それは!」
中田くんはもはや思考停止状態だったが、辛うじて言った。
「何で?」
「教授のそんなプライベートに僕の個人的事情が影響を与える訳には…」
「君が辞める方が私のプライベートによっぽど影響与えるんだけど」
「…そんなことは…」
横手教授は少し苛ついた口調で言う。
「あのね、君が来る前は不味いコーヒーを自分で入れて、出張には資料を忘れて、学内の申請書類はなくして、教務と喧嘩ばっかりしてたわけ」
コーヒーを飲みながら研究室をぐるぐると歩く。
「それが当たり前だった時はいいけど、今さらそうなるとストレスがすごいわけ。そうすると母さんにも八つ当たりして、そんなとこに新しい奥さんとか来て嫁姑問題とか起きたら地獄でしょ」
中田くんも言われてみれば、あの地獄からの使者は横手教授のお母さんとぶつかる可能性があると思った。いや、うまくやる可能性もあるが。
「そ、それは、確かに」
「じゃあいいでしょ、今のままで」
「…でも…!」
中田くんは自分でも何故かわからなかったが必死に食い下がる。
金曜日はさらに続く。
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