第7話 金曜日
金曜日になってしまった。
中田くんはもはや疲労困憊だった。昨日、あの地獄よりの使者(お見合い相手)の繰り出す攻撃にとてつもないダメージを受けた。初めて早退してしまったほどだ。
帰ったものの眠ることもできず、部屋の隅でうずくまって悶々と考えても考えても、シュミレーションの結果は同じだった。「結婚なんてどーでもいい。どーでもいいからしちまうか」というのが横手教授の結論のはず。中田くんにはわかってしまう。誰よりも横手教授を観察してきたから。最終的に「してもいっか」ていう顔だった…!
だから中田くんは朝方、半泣きで退職願いを書いた。鞄にしのばせて、通勤しながら引き継ぎのスケジュールを考える。自分のワガママで退職するから、横手教授には迷惑をかけないようにしなければ。
中田くんは誰よりも早く出勤し、研究室を整理し始めた。しばらく助手がいなくても資料の在り処がわかるよう、わかりやすく付箋を貼りはじめた。
「おはようございます」
「おはよ」
横手教授は今日もけだるい。服装は紺のサマーニットにベージュのパンツ。中田くんの好きな組み合わせだ。もはや瀕死の中田くんはそれだけで涙が出そうだった。
「昨日大丈夫だった?」
ふいに横手教授が中田くんの隣に来て、そう言った。
「はい、ご心配おかけしてすいません」
中田くんは動揺を隠して答える。
「でも、元気ないね」
じわりと涙が出そうなので、慌ててコーヒーを入れる。
「コーヒーどうぞ」
「うん」
横手教授はコーヒーを片手に席についた。
「今日は学部の授業が2コマ入ってます。2限が1年生の、3限が2年生です。それぞれ資料セットしてあります。来週の木曜日は出張ですので、荷物準備しておきますね」
「うん。やけに早くから準備するね」
「…いつもこうですよ」
中田くんは長い間気持ちを隠しているので、動揺を隠すのも上手だった。来週、出張に出かけるのを見送れないのは残念だが、絶望から逃げ出したい。授業がある校舎は少し遠いので(キャンパスが広大なのだ)、横手教授は中田くんが揃えた資料を持って早めに出かけて行った。
教授が授業を終え、研究室に戻った時には部屋はスッキリと片づいていた。教授ゾーンはいつも通り適度に散らかしてあるが、整理されていることは明らかだった。
「大掃除でもしたの?」
横手教授は不思議に思い、中田くんを見た。中田くんは答えずに、資料を手に席から立った。
「横手教授、少しお時間よろしいですか」
「ん?」
いつになく真剣な顔だったので、横手教授は頷いた。中田くんは横手教授の机の横に立ち言った。
「一身上の都合で、辞めたいと思っておりまして」
「ええっ?」
「現在進行中の仕事をここにまとめてあります。学内会議、申請資料、研究関連、授業関連。あと、こちらが今後2ヶ月のスケジュールです。締切関連にはマーカーを引いてあります」
「えっ」
「来週の出張の準備はあちらのボストンバックに」
「ちょっと」
「このあと教務に言って、後任の募集相談をしようかと思います」
「中田くん!」
あまりにもスラスラと色々な事を言われたが、横手教授は驚きのあまり大きな声を出してしまった。
「…はい」
中田くんはうつむいて資料に目を落としたまま返事をした。
「辞めたいって、どういうこと」
「…一身上の都合で」
「…何か私に不満があるの?」
「教授に不満なんて…!」
横手教授にはわからなかった。なぜ中田くんが突然辞めるなんて言い出すのか。
「じゃあ何。中田くんは法学部からわざわざ来るほど、この研究室好きなんでしょ」
「はい…」
「誰より熱心に研究してくれてると思ってたけど」
「はい…」
「あれか?研究以外に色々やってくれるのが疲れた?秘書みたいだもんな」
横手教授はイライラしてきた。口調が学内モードでなく素になってきたが、かまうまい。
「違います!それは、好きでやってます!」
「じゃあ、なんで?」
煙草を探してポケットをまさぐる。答えはない。
「何で?中田くん」
中田くんはうつむいたままだ。
「言えません…」
横手教授は煙草に火をつけた。
金曜日は続く。
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