第6話 木曜日
木曜日。
横手教授は昨日決まらなかった著書のタイトルを考えながら出勤した。しかしながら、昨日のやり取りからして中田くんはよくわかっているなあとしみじみ思う。研究内容や横手教授の歴史に対するスタンスからはじまり、コーヒーの好み、好き嫌い、果てはワイシャツのノリの硬さまで。
なぜ中田くんがうちの研究室にいるのかは不思議だが、断固として手放したくない。
タイトルは思いつかないまま横手教授は研究室に到着した。
「おはようございます」
中田くんは今日も爽やかである。しかし、心なしか元気がない。
「おはよ」
横手教授はいつも通り、席について中田くんが出してくれたコーヒーを飲む。今日も美味しい。
「今日はS社の原稿締切です。昨日確認の電話がありましたので、八割出来ているのでメールで送ると伝えてあります。あと、今日は研究日ですので予定は極力お入れしないようにしているのですが…」
大学では週に一度研究日があり、授業や雑務は入らない。論文執筆や研究に集中する日になっている。横手教授も今日はS社の原稿をささっと終わらせて、論文に取りかかるつもりであった。
「先程お電話があり、松山翠様という方がいらっしゃるそうです」
「…誰?」
その名前には覚えがない。
「松山教授のご親戚だと」
松山教授は横手教授の師匠だが、なぜ親戚がここに来るのか不明である。
「おそらく先日のお見合い写真の方かと」
「…ああ!」
そういえば昨日松山先生から着信があった。横手教授は折り返したが結局つながらなかったのだ。
「お見舞いにいらっしゃるとおっしゃってました」
「えー、なんで?」
「…わかりかねます」
確かにそうだろう。横手教授にもわからないものを、中田くんがわかるはずもない。見合い写真が送られてきたのは先週のこと。松山教授からえんえんといかに姪っ子ができた娘かということが書かれており、げんなりして諏訪教授に譲ろうとしたのだか「俺が松山教授に殺されるわ」と断られてしまった。しかし、さすがの横手教授も松山先生に対して「興味ないんで」とは言えず、とりあえず引き伸ばすため、最近体調が…という言い訳だけしておいたのだ。なるほど、だから見舞いか。
まあ、仕方ない。横手教授はとりあえず今日提出の原稿を書き始めた。見合い相手が来ようと来まいと締切は来る。黙々と原稿を仕上げて中田くんに誤字脱字を確認してもらってい、午前中は無事に過ぎ去った。原稿をメールで送り、昼食の蕎麦を食べて研究室に戻ると来客は到着していた。
「松山翠です」
髪の長い、若い女性だった。横手教授は確かに姿を写真で見たはずなのだが、すでに忘れかけていた。松山先生の姪だけあって、面影はある気がする。
「お見合い前に訪ねるなんて、マナー違反ですいません」
中田くんの出してくれたコーヒーを飲んでいると、シュガーバターサンドが出され「お見舞いで頂戴しました」と中田くんが小さい声で言った。
「いや…」
「もしかしたらお受け頂けないかもと思って」
顔を上げた松山翠の眼は力強かった。
「以前から伯父様によく聞いていたんです。中国に行って帰って来ない弟子がいるって」
横手教授も顔を上げた。
「モンゴルでもウズベキスタンでも、いつの間にか現地の人と仲良くなっちゃうんだって」
確かにそれは横手教授の事である。横手教授はいつも現地に溶け込むのが早い。色々あんまり気にしないので、異文化に対してハードルが低いのだ。
「だから横手先生は、私の憧れの人なんです。論文も素晴らしかったです」
シュガーバターサンドは予想より美味だった。甘党なこともリサーチ済みらしい。
「だから是非、お見合い受けて頂けると嬉しいです。私、先生の役に立ちます」
「…私にはもったいないお話です。ただの研究バカですから」
「それでいいんです。先生の研究は素晴らしいものです。私と結婚すれば、先生はこれから結婚を急かされることも変わり者扱いされる事もなく、これまで以上に研究に熱中できます」
なにがこの女性をそんなに駆り立てるのだろう、と横手教授は思った。世間では若く美しい女性はもてはやされるだろうに。
「…それで、あなたにメリットがありますか?」
ふふ、と松山翠は笑った。
「さっき申し上げたでしょう?先生は私の憧れなの。憧れの人と結婚したくない人がいますか」
松山翠が帰ったあと、横手教授は嵐の後のような疲労を覚えていた。なぜ若い女性というのは誰もがあんなに自信にみちあふれているのか。
しかしながら、見事な交渉であった。横手教授にとってデメリットは何もない。結婚などどうでもいいが、どうでもいいならしてもいいかもしれない。
ふと、コーヒーが空になっている事に気づいた。こんな事はあり得ないことである。いつもコーヒーは、適切なタイミングで継ぎ足される。中田くん、と声をかけると不在だった。コーヒーメーカー横に「体調がすぐれないので早退させて頂きます」というメモが残されていた。
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