第5話 水曜日
水曜日が来た。
昨日も一日、ハードな日だった。中田くんはやや疲労を覚えながら出勤した。月、火と中田くんはダメージを受け続けている。昨日は美しい新妻がもし仕事も手伝って教授の原稿書きを自宅で手伝ったりしたら、自分よりもコーヒーを淹れるのがうまかったら…と想像してバリスタの修行に出るところだった。更に女子学生に、なんで助手をやってるかなどと言われて動揺してしまった。決まっている、横手教授と研究を愛しているからだ。
今日は中田くんもいくつか授業がある。中田くんは文学部文化人類学研究科の助手として、横手教授以外の教授の授業にもアシスタントとして参加している。横手研究室の名を上げるためにはやむないことだ。教授と離れているのは寂しいが。
今日の仕事を考えながらコーヒーを淹れていると、教授が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよー」
今日の教授はチェックのシャツに紺のパンツ。白地に薄い赤のチェックなので、ジャケットを着れば外部対応も可能なやつだ。今日は出版社が来る。ネクタイはなくてよいがジャケットは用意しておこう。
そこまで考えてコーヒーを手に振り向くと、横手教授の後ろ頭で寝癖がはねていた。
あぐ…!(中田くんの体力は20回復した)
「教授、寝癖が。今日来客があるので直しますね」
「ん」
寝癖…!これも新妻が直すようになるなんて…!(ダメージ20、差し引きゼロ)
教授はまったく中田くん内心の動揺に気づかず、のんびりコーヒーを飲んでいる。櫛で横手教授の後頭部を撫でつけながら、いっそのことはげてくれたらもてなくなるのにな…。と中田くんは不穏なことを考えていた。(横手教授の名誉のために、現在はふさふさであることを付け加えておく)
「横手せんせー、見合いするんだって?」
授業後に資料を片付けていると、諏訪教授がぶっ込んできた。中田くんはひきつった笑顔を浮かべ「え、そうなんですか?」
としらばっくれた。
「うちの大学の独身四天王がいよいよ崩れるのかあ、寂しいな」
諏訪教授も四天王の一人である。横手教授と諏訪教授の違うところは、諏訪教授は学生に手を出しまくっているバツ2(両方もと教え子)であるところである。もはや存在自体がコンプライアンス違反だが、養育費が大変らしく最近は大人しい。
「本当ですね」
「横手教授が結婚しちゃったら、中田くんやることなくなっちゃうね〜。うちの研究室来なよ!」
中田くんは思いがけず鋭い諏訪教授の言葉に一時停止した。しかし2秒で立ち直り、微笑んだ。
「何おっしゃってるんですか。原さん(諏訪研の助手)がいるじゃないですか」ハハ…と乾いた声で笑って、中田くんは足早に教室から立ち去った。
横手教授が結婚したら他の研究室に行く。残念ながらそれだけでは解決しない。他の研究室に行ったって、中田くんは横手教授を見かけるたびに何もできない自分に打ちのめされ、絶望するのだ。今だってこんなに辛いのに。
だから今耐えられないなら、横手教授のいない世界に行くしかないのだ。
研究室に戻ると出版社の人が教授と打ち合わせをしていた。現在、横手教授のところにはいくつかの出版社から本の企画が持ち込まれている。
アジア世界から世界を見直すことで、今の世界の様々な問題を紐解いていこうという話が多い。今回の出版社は新書の企画である。
打ち合わせる二人にコーヒーを出す。
「あ、中田くんありがと!」
編集の山川さんがにこやかに振り向く。
「そうだ、中田くんどう思う?」
山川さんがコーヒーを飲みながら中田くんを呼んだ。どうやらタイトルが決まらないらしい。内容は横手教授のメイン研究である中央アジアから見た近代史である。
「逆説 アジア世界 とかどうかと思ってるんだけど」
「うーん…でも、これまでの歴史が正なわけでもないと思うんですけど」
横手教授が頷く。山川さんが笑う。
「横手先生とおんなじこと言うね!僕は分かりやすくていいと思うんだけど」
「端的で分かりやすいですけど、言葉の持つ印象だけが伝わっちゃいますもんね」
横手教授が頷く。
「やっぱ、そうかあ」
もう少し考えます、と言って山川は帰っていった。
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