第4話 火曜日

火曜日になった。

横手教授は朝食をとりながら新聞を読み、文科省の不祥事が目に入って胸くそが悪くなった。昨日の教授会では文科省の方針に添いたい執行部と大喧嘩してしまった。

食事が不味くなるので新聞を閉じた。後で研究室で読むとしよう。横手教授は大学で文化人類学に出会い、フィールドワークに行ったモンゴルで中国の教授と仲良くなり、20代は留学とフィールドワークを繰り返していた。落ち着いて日本で教職に就いたのは30も半ばの事だった。すっかり婚期を逃した息子を母はとうに諦めているが、親戚や上司、先輩は何かと世話を焼いてくれる。


それは横手教授にとっては正直なところどうでもいいことだ。最近のポピュリズム寄りの世の中で研究の重要さをわからないアホ共にどう理解させるか、どう予算をぶんどるか、いつフィールドワークに行けるか、等々重要な案件の中で結婚とか何とかどーでもいいだろと思う。母が死んだら寂しいだろうとは思うが、すでに嫁に行った姉が子供も産んでいる。我が家のDNAは繋がったわけだし、まあいいのではないか。


などと考えていると研究室に到着した。ドアをあけるとコーヒーの香りがする。

「おはようございます!」

助手の中田くんが振り向いた。今日も無駄に爽やかである。中田くんは横手研究室では、いや、学内でも異彩を放つ変わった助手である。何といっても学部は法学部だったのだ。なぜか文学部の研究科に進学してきて、横手教授は法学部の教授にずいぶんイヤミを言われた。中田くんは非常に優秀な学生であったらしく、法学部でも期待の星だったのだ。


学業が優秀な上に、見た目も異彩を放っている。引き締まった筋肉に整った顔立ち、いつもかっちりしたスーツ姿。母は一度、謝恩会の後、横手教授を送ってきた中田くんを見て「韓流スター?」と聞いたほどだ。(齢65の母の趣味は韓国ドラマ鑑賞である)

それはさすがに言いすぎかと思うが、できる商社マンのような雰囲気だなと思う。(横手教授がフィールドワークによく行く中央アジアにも、資源求めて商社マンがよく出没しているのだ)

つまり、この文学部の研究室にはまったくもってそぐわないタイプであり、女子学生はほぼ全員が中田くんにのぼせ上がっている。

横手教授にとってありがたいのは、中田くんが死ぬほど仕事ができる事だ。大学教授というのは見た目の100倍くらい雑務が多く、なかなか研究に没頭できないが、中田くんが来てかなりの量が軽減された。周辺の研究室からは猛烈に羨ましがられている。


「どうぞ」

中田くんが出してくれたコーヒーを飲みながら新聞の続きを読む。

「今日ですが、授業変更でゼミが午後になりますので、出版社のアポイントを明日にしておきました。院生のレポートですが、ざっと下読みして付箋つけてあります。どうぞ。今日締めの学内用の原稿は午前中に大丈夫そうでしょうか。念のため今週いっぱいまで伸ばせることは確認してあります」

そういえばそうだった。

今日締めの学内用の文章があった。昨日も言われた気がするが教授会ですっかり忘れていた。まあ、半日あれば書けるだろう。


「中田さん、聞きたいことがあるんですけど…」

週に一度のゼミの時間、研究室が女子学生の声で満ちる。正確に数えると横手研究室の大学院生は男女半々だが、声を発するのは女子ばかりなので結果そうなる。

中田くんは「その文献はここに載ってるから」と的確な助言をしている。中田くんはあらゆる人に対し平等に愛想がいい。いつもにこやかであまり動揺しない。慌てていたのは一度大きな地震が起きたときくらいである。横手教授を守ろうと覆いかぶさって来たときは顔面蒼白であった。(ちなみにその時、横手教授は本を守ろうとしていた)


ゼミが終わって、中田くんが横手教授の書いた原稿を教務に出しに行った。何人か学生が残り、雑談をしている。

「本当に不思議なんだけど。中田さんて何でこの大学にいるのかな。ね、横手先生」

横手教授は顔をあげた。

「何が?」

「中田さんですよう。かっこいいし仕事もできるし、何で助手なんでしょう?助手ってお給料安くないですか?」

うむ、確かに。横手教授は頷いた。

「安いねえ」

「中田さん、超稼げそうじゃないですか」

うむ、確かに。横手教授は頷いた。


「勝手に決めないの。助手の仕事に愛情と誇りを持ってやってんだから」

いつの間にか中田くんが戻っていて、戸口からそう言った。女子学生がキャッと言う。

「でも、お給料安いんでしょう?」

「高くはないけど、好きなことだから」

確かに、横手教授の話を中田くんほど熱心に聞いてくれる人はいない。法学部から来たくらいだし、研究に対する情熱はすごい。横手教授まで納得していると、なぜか中田くんは少し頬を赤くして「すいません」と言った。

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