第13話 慎吾 その6
闇い……闇いぞ……。それに酷く寒い……。
ここは何処なんだ、俺は、俺はどうしたんだ。
瞼が、どうしようもなく重い……。
白い病室で、慎吾の顔を心配そうに覗き込んでいるのは、少し背中を丸めた定食屋の女将さんだった。
眠り続ける慎吾の横顔に向かって、柔らかな声で語り続ける。
「慎ちゃん、痛かったねぇ、全くこんなになるまで放っておいてダメじゃないの。しっかりしたお嫁さん、探さなくちゃねえ。あんな小さいお店だけど、慎ちゃんに継いでもらうつもりでいたんだから。息子と同じなんだからねえ、慎ちゃんは」
ベットの上で、一回りほっそりした慎吾の腕を、女将さんはゆっくり優しく、さすり続けていた。何度も何度も。
「でも大丈夫だよ慎ちゃん、お医者様が、悪いとこ全部取ってくれたって言ってたからねえ。今はしっかり休んで、そんで帰っておいでよね」
落ちくぼんだ瞳から、一筋きらり。滑り落ちた透明な液体が、音もなく白いシーツに吸い込まれてゆく。
病院へ運び込まれてから17日目。
退院を迎えた慎吾は、1階のロビーで迎えを待っていた。
定食屋の親父さんから、市場の帰りに寄ってくれると連絡をもらっていたのだ。
何から何まで、お世話になりっぱなしだよ俺。
せめて待たせないようにと、荷物を持って建物の外へ出る。
来院者駐車場へと向かう途中で、駐輪場の前を通った。
チャリン。
足元に何かが飛んできた。
それは赤い――サクランボ。
ひょいとつまんで姿勢を戻すと、探しものをするように、しゃがんだまま地面を進んで来る丸っこい眼鏡の女性が。自分の存在にまだ気がついていないらしい。
「これ」
「あ、すみません、自転車の鍵がなかな抜けなくって、力をいれたらその、飛んでしまって、拾っていただきありがとうございます!」
「自転車、妹さんの?」
「え?」
二つの視線が交差する。
丸っこい眼鏡の奥にある瞳が、ますます丸くなる。と同時に、小さく結ばれていた口元が「あ」の形に開かれた。
「あの時の!えっとその節はありがとうございます、そしてまたしてもこの度は……」
慎吾の口元からふっと力が抜ける。
「君は、いつもそんな話し方をするの?」
「え?あ、はい」
風が吹いた。
2人の間を、透明な風が駆け抜けてゆく。
キーホルダーを手渡そうと慎吾が歩み寄った。
その時。
「慎ちゃーん!」
と黄色い声が聞こえてきた。ぎょっとして振り返ると、駐車場に乗り入れようとする軽ワゴンの助手席から、女将さんがぶんぶん手を振っている。
「慎ちゃーん、その子誰? お嫁さん? 紹介してちょうだい」
その勢いは止まらない。
「ち、ちげーよ」
と口に出しハッとする。
「ご、ごめん、これは……」
眼鏡の女性が、驚いた顔でこちらを見ていた。
「あ、いえいえ大丈夫です、ってその、自分でも何が大丈夫なのかわからないのですけど」
空気が和らいだ。
なんとなく顔を見合わせて笑ってしまっている。
「あの人、俺がお世話になってるバイト先の女将さんなんだけどさ……」
慎吾の声に、耳を傾ける小柄な背中。
いつかこの人と並んでる歩ける日が――。
来たらいいなって、俺の叶わないかもしれない淡い希望。
この希望は明日へと繋がっているか?
それは。たぶん。きっと。
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