第9話 慎吾 その2
「はぁぁ……」
顔を洗い、アルコールが抜けきらないどんよりとした瞳を鏡に見るたび、ため息がもれる。ホント何やってんだよ。毎日毎日。
まあそう思ったところで、やる気がどこからか降ってくる訳でもねぇし?
取りあえずバイトだ。
夕方部屋を出て、照明の切れた暗い駐輪場に向かうと、しゃがみ込んでいる怪しい人影が見える。酔っ払いか? まあ俺も似たようなもんだけど、新年早々の面倒事はごめんだ。
近寄りたくはないが、そいつがどいてくれないと俺の自転車が出せない。舌打ちしたい気分のまま声を掛けることにする。
「あのー」
驚いたその人は弾かれたように立ち上がり、膝の土を払いながら「ごめんなさい」と丁寧に頭を下げた。
「い、いえ」
会釈した顔を上げると、丸っこい眼鏡の奥にある綺麗な瞳と目があった。か、可愛い――。
「すみません、妹の自転車を返しに来たんですけど鍵がなかな抜けなくって、力をいれたらその、どこかに飛んでしまって」
時々詰まりながら一気に話す様子にも大いに好感が持てる。って単なる俺の好み。
「そっか」
言いつつ、さりげなくスマホライトを点けて地面を照らすと、俺よりは年下らしい女性が慌てた様子で両の手をぶんぶん振り始めた。
「いいんですいいんです!そんなつもりでは……」
「ちょっと待って」
ゆっくりライトで照らして行くと、側溝の網へすっぽりはまってしまったらしい自転車の鍵が見える。小さめのキーホルダーが辛うじてひっかかっていた。
「あ」
「あっ」
予想外に重なった声に妙な心地よさを感じた。赤いキーホルダーを慎重に指先で挟むと、おずおすと伸ばされた手の平へそっと渡す。
「あ、ありがとうございます!」
「じゃ、行くから」
「助かりました、本当にありがとうございます!」
照れくささに無言で自分の自転車を引っ張り出すと、挨拶代わりに左手をあげて走り出す。ありがとう……か。
思わずにやけそうになる頬をピシャリとすると、時計を確認した。大丈夫、まだ遅刻じゃねぇ。
進む秒針を確認し、ペダルを漕ぐ足に力を込める。
なんだかんかだと3年になるバイト先の親父さんは、どんな失敗をしても怒らないが遅刻だけはやたらとうるさい。そういう性分なんだろう。
小さな定食屋の裏に自転車を止めると、裏戸をガラッとあける。
小柄で、少し背中が丸まったおかみさんが、いつもの柔和な顔で迎えてむれた。
「慎ちゃん、寒かったでしょ、賄い出来てるから先に食べちゃって」
「あざっす」
両の手をよく洗い、店の名前が入った藍色の腰前掛けを身に着けると、カウンターに湯気が立つ丼がトンと置かれた。ニンジン、キクラゲ、もやし、白菜、ほうれん草、葱、小海老がふんだんに使われた中華丼だった。
両手を合わせ「いただきますっ」
かき込むと口の中にとろっとした餡が流れ込んで来る。シャキシャキとした野菜達にふっくらと炊かれた米の一粒一粒が包まれ、咀嚼するごとに幸せな気持ちに満たされた。
途中、淹れてもらったお茶を口にしながら、さっき手にした赤いキーホルダーを思い出す。あれは確かサクランボ、だったような。
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