誰でもない星

斧乃木もえ香

誰でもない星

彼女は「自分は至極普通で変哲がない女の子だ」と言い放っていたが僕から見ればそれなりにヘンテコな子だった。にこにことよく笑う子だったけれど彼女の心には誰もいないように見えた。あまり恋の話はしない僕らだったけれど、僕はある日彼女が「好きっていうのはね、2通りあるのよ」と言っていたことを思い出した。


「まず1つ目の好きは、全部独占しちゃいたくなるの」「何回でも寝たくなるし、嫉妬もするし、他の女のところに行ったら許せなくなるわ。なんでそんなことするのって問い詰めて、女友達愚痴をはいて、泣いたり取り乱したりしてからさようならするわ」僕は彼女が取り乱しているところを想像してみた。ポロポロ涙をながして、肩を震わせている。なぜか普段の彼女より美しいように思えた。


「 よくいる”依存型”の面倒くさい女みたいだね」「 そうね、でもその場合、それから何年先・・・いや1年先でもその人のことを思い出すことはもうないし、浮かばないし、彼がどうなろうと全く興味はないのよ」ふうん。それは好きだったって言えるの?「一種のブームの1つかもしれないわね。」まあすごい意見だ。恋愛感情をいっときのブームと言われてしまったら、男はぐうの音も出ないだろう。


「その人達と過ごしたことはすぐに忘れていくわ。あなた、何か1つの食べ物にはまるとずっとそればかり食べているってことない?」

確かに僕は18歳のある期間、牛乳をのむことにバカみたいにはまった。牛乳なんてみんな毎日飲んでいるかもしれないがとにかくはまってしまって、水よりも牛乳を飲んでいた。あの頃僕がコーヒーだったらかなり甘いコーヒーになっていただろう。「でもそのブームが終わったら口のしなくなるでしょ、今まで以上にね。その食べ物を毛嫌いするようになったわけではなく、ただ単に頭のなかから外れただけ。必要がなくなっただけ。わかるでしょ?」僕の牛乳と彼女の男たちが一緒にされてしまうとなると彼らが気の毒な気がしたが、うん、なんだか納得がいってしまう説明だった。


「じゃあもう1個の好きは?」僕が尋ねると、彼女は考えながら言った。

「その好きな人とは、恋人同士にならなくてもいいの。彼にガールフレンドがいたとしても、私たちが親友同士だったとしてもいいの。誰とキスしていても、誰と寝ていても、全く気にしにないし嫉妬もしないの。私はあの人のことが好きだから全て大丈夫って思えるの」なんだかむずかしい。「それって前者が恋で、後者が愛ってやつなんじゃないか」僕はまだ人を愛した経験がない。「 分からない。でも愛だったら私はこの人を幸せにしたいとも思うんじゃないかしら。そうじゃなくて、知らないところでも勝手に幸せになってくれればいいのよ」


「なるほどね、想ってるだけでも幸せってことか。じゃあ仮にその人が結婚してしまったらどうするんだよ」完璧に他の人のものになってしまったら、だ。

「そうしたら一度だけ抱いてくださいって頼みにいくわ」そう言った時の彼女の瞳が思ったよりも憂いを含んでいて、僕は思わず心がぐらりとしてしまった。「それか、お気に入りのレストランでディナーを食べるだけでもいいわ」そしてゆっくりと煙草に火をつける、僕も1本もらって煙を吸い込んだ。煙と白い息が混じり合って溶けていくさまがぼんやりと壁にうつった。僕らは小さなストーブを囲んで学校の喫煙所でずっと喋っていたのだ。彼女は国際コミニュケーションとかいう授業をサボっていた。エイリアンが話をしているようにしか見えないのだと言う。


「だって」彼女はまた話し始めた。「そういう好きな人のことはずっと覚えているんだもの。学校が終わって、夜の住宅街を駅まで歩いていることとか、彼は自転車だけれど歩いている私に合わせてゆっくり漕いでいることとか、アーモンド型の目とか、ゆっくり言葉を選びながら話す喋り方とか。そりゃプレゼントをもらったわけでもないし、夜景が特別きれいな所に行ったわけでもないのよ。でもその2人いた空気とか、においとか、心拍数とか、その人がいるだけで特別になるものよ」でもね。「でも、好きになってもらえなくてもいいの。これって傷つきたくないだけなのかしら?」


「そういう、好きと言えなかった気持ちってどこへ行くんだろうね。だって、コテンパンにやられたわけでもふられたわけでも、めでたく実を結んだわけでもないのだから」星にでもなるのかね、と僕は冗談めかしてロマンチストぶって言った。彼女は軽く笑って煙草を灰皿に押し付けた。「 そんな美しく輝いたりしないわ。せいぜい漂っている名前もないチリになって、誰でもない人に吸い込まれて消えていくのよ」


彼女が好きだった男が誰なのかはわからないし、彼がどんな風に彼女を思っていたかは分からない。その後彼女が恋や愛の定義を見つけられたかは分からない。ただ1つ言えるのは、僕は彼女のことを、数年経った今でも忘れていないということだ。

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誰でもない星 斧乃木もえ香 @rosevalerybaby

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