夢売りの魔女
「私はあんたを愛さない」
幼き日。
転んだ私は擦りむいた手足が痛くて泣こうとしていた。今思い返せばなんで泣くのかわからない。
しかし、そのときは、涙がせき止められた。
平手打ちだ。頬に衝撃が走る。空気の裂けるような音が自分の耳元から聞こえてきたのだと信じられず、あっけにとられる。
徐々に上がってくる熱の気配も他人事で、どうして? という感情ばかりが胸のなかを埋め尽くした。
新しいお母さんが言ったそんな言葉の意味がわからなくて、まばたきすら忘れてしまう。
「いい、人の感情には必ず終わりがあるの。そしてね、期待が大きければ大きいほど、それが失われたときの失望は大きいの」
「……わからないです」
「ほんっと馬鹿ね。なんで頭の出来は親に似なかったのかしら。……まあ、今のあんたにわかりやすく言えば」
彼女は未開栓のペットボトルを開けて、ミネラルウォーターで傷に噛んだ砂利を流してくれる。
洒落たかばんからポーチを取り出して、そこから出てきたガーゼに消毒液を染み込ませる。
「走って、その勢いのまま転んだら、地面に引きずられた手足が痛いでしょ」
傷にしみた。白いガーゼが赤くなっていくのを見て現実感を取り戻す。
泣きたかったが、そうすれば彼女の機嫌を損ねるのを知っていた。だから、我慢した。
「だからむやみやたらに走らない。それと同じ。私はあんたを愛さない」
「……けど、ばんそうこ」
「虐待だって言われるのが目に見えてるでしょ」
傷を塞ぐ兎柄の絆創膏には見覚えがあった。
お姉ちゃんと呼びなさい! なんて眩しい声音で言った彼女がよくつけていた。
「自分の身は自分で守るの。与えられるものなんてろくでもないんだから」
そう言って彼女は歩き出す。歩幅は合わせてくれない。だから、走るようにしてついていかなければいけない。
手足が痛い。それでも置いていかれたくはなかった。
目の前で揺れる手は、あの頃から変わらず痛みの象徴だ。
変わるものがあるとしたら、私は追いかけなくなった。
だから当然、彼女と私の手が繋がれるときはついぞ訪れなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「シン、デレラ……?」
いつかに聞いたことのある童話の名。あまりに有名な題名で、花束を構成する花冠ひとつひとつの種類を言い当てるより、世間的には知られているだろう。
言うなれば日常と地続きのそれがこんな状況、あるいは異常そのものの口から紡がれたことに、猛烈な背徳を感じる。
「あなた、いったい……なんなんですか?」
「わたしは『夢売りの魔女』と呼ばれるものさ。少女に『
ふふ、と魔女を名乗る老婆は笑った。
「対価にはその命を。さすれば、きみはこの世界を救う物語に成る」
「それが、シンデレラ?」
「きみには、『零時になるまでの幻想』という魔法がかけられる」
「まほう……」
「そう、世界が終わる零時の鐘が鳴り響くその瞬間まで、この世界はきみが綴る物語となる」
ただし、と魔女は皴を深くした。
その口の端が、三日月のような弧を描く。
「シンデレラの魔法は零時の鐘で夢に消える。シンデレラに成るきみの命は、世界を救った後に終わってしまうのさ」
「……なんで、私なの?」
どんな大仰な理由が用意されているのかと身構える。
あえて、前提を否定することはしなかった。
いや、できなかった。
世界が終わる、なんて、ほら話すらも。
「さあ?」
しかし返ってきたのは、そんな疑問だった。
「物語に対してわたしという存在ができるのは、そのページを開くことだけ。シンデレラという物語を綴ってきたのは、きみさ」
「シンデレラの結末は、身分違いの恋が成就するハッピーエンドだったわね」
嘲るような笑みが浮かぶのを自覚する。
「縁遠い……って言葉も間違ってる」
だって、
「恋なんてしないよ、私は」
「ラブストーリーはお嫌いかい?」
「本当のことなんてひとつもないもの」
「たしかに、綴られた物語を演じるのなら、その行く道は決まっている。けれど、そこを歩むのはそのときの登場人物さ。定まった道は変えられなくても、その意味がどうなるかはきみ次第さ」
「だからシンデレラが、世界を救う」
絵本のなかで救われた
現実では、世界を救って、その命を花弁のように散らすらしい。
「……ほんとうに世界は、文字通りの意味で終わるの?」
「時計の進む音を聞いただろ。それは星の悲鳴。削られた命の鳴動。終末時計の音さ」
「けど、どうして? 環境破壊にしたって、それによる人の自滅のほうが先って言われてるけど」
「終末を願う人の絶望に侵されたのさ。この星はもう限界だ。閾値を超えてしまった」
「ただ思ったことが地球に影響したの?」
「思いから物語は綴られる。かたちのない幻想に、人は希望や絶望を見出してきたはずさ。だから、影響がないなんてことはないんだよ。この星だって、ひとつの命だ」
そして、と魔女は続ける。
「死の意思こそが、生を腐敗させる」
「……」
「知っているだろ?」
親の知識をねだる無邪気な少女のように小首をかしげて、魔女は囁く。
「だってきみ、
「……っ」
そうだ。だから私は否定できなかった。
「恋の否定は愛の否定だ。しかるに、きみという命の否定だよ」
魔女の含意は理解できない。しかし、言いたいことはわかった。
世界の終わりを否定しないことは、この命を否定することだ。
そして、だからこそ、だった。
「私じゃなきゃ、だめなのね」
「針の進む音を聞いて、人々は思った。生きたい、と」
かどわかす魔女の声は、乾いた土に水を差すようだった。
「死が明晰になることで、生は浮き彫りとなる。ふたつは天秤にかけられた。そして秤は生に傾いた。だから、救世の
どうする?
そう、三日月の唇が言葉を紡ぐ。
「希望になる気はあるかな、白紙の一ページ目よ」
「やるわ」
決断、なんて大仰なものは必要なかった。
この命がだれかのために使えるのなら、それはきっと幸福なことだと思う。
……たとえこんな世界、救いたくなくても。
「よろしい」
私の答えに魔女が頷いた。少女の願いを叶えるのが、魔女であると言うかのように。
「きみに魔法を授けよう、シンデレラ」
腕がゆっくりと持ち上げられる。
垂れたローブの裾から覗く枯れた花のような手指が、何もない空間を摘まみ、そして掲げた。
あるいはそれは、束ねた紙片をめくる動作に似ていて。
――ぽんっ。
そんなやわらかな音が聞こえてきそうだった。
白い光が生まれる。そして割れる。
その破片が、ひとつのかたちを作った。
靴だ。
光の破片が模った、透明な白色の靴。
もしくはそう、童話のなかでこう呼ばれていた。
ガラスの靴、と。
「これが、魔法……」
「その一端だけどね。現実を上塗りする、幻想の絵具。べったりと色を重ねて、こそぎ落とさない限りは、変わることがなくなる」
「それって……なんだか」
「ファンタジーが足りないかい?」
「あるとしたら、もっときらきらしたものだと思ってた」
ぼろぼろのスニーカーを、擦り切れた靴下を脱ぎすてて、ガラスの靴に足を通す。
ぴったりだった。
「きみの歩みに祝福があらんことを、シンデレラ。その足が進む旅路、現実の淘汰と理想への飛翔こそ、のちの世に物語と紡がれるのだから」
ふわり、と魔女の体が浮いた。
それを追って顔を上げる。
満天の星があった。くすんだ都会の空では拝むべくもなかった、欠片たち。
そして、月だ。
まるで夜空を呑み込むような皓々たる満月。
現実ではありえない光景だ。
ゆえに知る。
この世界は、
待ち受ける幾望はなく、過ぎたる既望もなく。
満ちた月を背に。
魔女は明かりに影を落とすよう大仰に腕を広げて、少女に対してうそぶいた。
「――さあ、物語を始めよう。
現実の果て。
幻滅の果て。
少女に艱難辛苦は乗りかかり。
ならばその終わりは……わかるかい、シンデレラ?」
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