UPDATE2.3「死の平原」
UPDATE2.3「死の平原」
丈の短い草が生い茂り、木々が点々と生え、その葉を穏やかな風に揺らしている。ここはザーリマン平原。魔物等が少なく安全な平原として、始めたばかりの初心者や、交易商人たちに親しまれてきた平原だ……少なくとも、数か月前までは。
何も知らない気の毒なトラベラーが一人、大きなバックパックを背負って歩いている。男の足取りは重い。そんな男の正面、一匹の鹿が男のことを見つめていた。
二者の目が合う。そして、しばしの沈黙。シュッ、という空気を裂く音と共に、鹿の頭部が吹き飛んだ。
「……!」
トラベラーの男は急いで倒れた鹿のもとに駆け寄った。頭を失った鹿の首から夥しい量の鮮血があふれている。
「何か、いるのか?」
ふと左側を見やると、そこには一本の矢が突き刺さった鹿の頭部が転がっていた。男は立ち上がり、頭部に刺さっていた矢を引き抜く。背後に何かの気配を感じた男が振り向く……次の瞬間には、男の額の真ん中に、男の持つ矢と同じ一本の矢が、突き刺さっていた。
男が倒れるその瞬間を、遠く離れた崖から見ていたのは、若草色のギリースーツを身にまとう少女だった。地面に伏せていた少女はギリースーツを脱ぎ去り、立ち上がった。右手には銃身の長い、不可思議なボウガンが握られている。茶髪のポニーテールが揺れる。彼女の名はユミ。不可思議なボウガンも彼女が自作したものだ。そう、彼女こそ、あの不運な鹿と男を殺めた犯人であり、この平原を『死の平原』と恐れられる由縁となった少女なのだ。
長い銃身を折りたたみ、背中に背負うと、鉤付きフックロープを崖に固定して、ゆっくりと降下し始めた。
地面に降り立つと、フックロープを回収。そのまま犠牲者の男の元まで走っていった。バックパックを開け、金目の物となりそうな物を取り出し、腰のバッグに詰める。そして、鹿の頭部、男の額に刺さった矢を回収する。空を見上げると、日が沈みかけていた。ユミは自分の匂いを嗅ぐと、顔をしかめた。ここ数週間、体を洗ってすらいなかったのだ。
「たまにはお風呂にはいらなくちゃね」
男の死体を無感動に一瞥すると、鹿の体を縛り、立ち上がってサンスイヴィルに向かって歩き始めた。
鹿と金になりそうな物を一通り売却すると、ユミは公衆浴場、いわゆる銭湯に向かった。
銭湯は瓦屋根の和風な造りで、一本だけそびえる煙突からは湯気が出ていた。中に入ると、火照った体を冷ます者や、牛乳を売る者、他愛もない談笑をしている者たちと様々だ。この町は近くのゼンモン・シティほど大きくないとはいえ、それなりにトラベラーたちで賑わっていた。ユミは受付に武器類を預け、トークンを支払うと、『女湯』と書かれた暖簾をくぐった。
浴場に入るやいなや、ユミは少し顔をしかめた。この世界の性質上、美女、美少女が多いのは仕方のないことなのだが……自分の控えめな胸を見下ろすと、ため息が出た。
もう少しどうにかならなかったのか……
体を入念に洗い、湯船に浸かったユミは、少し前のことを思い出していた。ザーリマン平原が、死の平原と呼ばれる少し前のことだ。
暗黒の半年間を生き残り、束の間の平穏を味わっていたユミは、今までのボウガンの改良を考えていた。射程を伸ばし、様々な距離に対応できる素晴らしいボウガン。それが彼女の夢となった。試行錯誤を繰り返し、数多の失敗を乗り越えたユミは、ついに完成させたのだ。スナイパーボウガンを。
その射撃テストを行う場所となったのが、ザーリマン平原である。遮蔽物はほとんどなく、魔物も少ない。その上、ほとんどの場所を見渡すことのできる崖もある。まさに絶好のポイントだった。
フックロープで崖の上に昇ったユミは、しばしの間、穏やかな風に吹かれるままにしていた。風が彼女の髪の毛先を遊ばせる。息を大きく吸って、吐く。そして、銃身の横にあるレバーを手前に回して弦を引き絞ると、ガチリとロックが掛かる。チャンバーの蓋を開けて、矢を入れる。蓋を閉じて、もう一つのレバーを引き、装填。これで準備が完了だ。これで分かった通り、このボウガンは連射がきかない。慎重な運用が求められる。
地面に伏せ、スコープを覗いた。標的は決まっている。草原をうろつく低級ゴブリンである。照準の十字線がゴブリンの頭部を中心に捉える。
ユミは乾いた唇を舐めて湿らせた。
「醜い獣め……!」
引き金を引く。殺意の籠った矢が、空気を裂いて一直線に飛んでいく。そして、スコープの奥で、頭に矢を受けたゴブリンが倒れるのが確認できた。
ユミは喜びのあまり両手を挙げ、立ち上がった。その胸は喜びで満ち溢れていた。だが、それと同時にむなしさもこみあげてきた。完成させたはいいが、倒すべき標的がいない。せっかく完成させたこのボウガンを、もっと使いたい!
その日から来る日も来る日も、ユミはこの崖の上でゴブリンたちや、野生動物たちをそのボウガンで殺めていった。引き金を引いた時、彼女の心は満たされていた。だが、いつも決まってそのあとは空しくなってしまうのだった。
そんなある日、次の標的を探していたユミの目に、一人の人間が目に留まった。その男はこちらに気づく様子もなく、ただその先にある街を目指して歩いていた。
ユミの心に、抗いがたい誘惑が現れた。そう、殺人である。相手はこちらに気づいていない。近くに人影もない。バレるわけがない。だが、ユミの良心が、それに抗う。
震える指が、引き金にかけられる。やめろと叫ぶのは自分の良心だ。それすらも振り切って、引き金を引いた。
「待って!」
ユミは手を伸ばした。今ならまだ、間に合うかもしれない。そんな彼女をよそに、矢はまっすぐと、男の頭部を……吹き飛ばした!
「あっ……」
自然と涙が零れる。だが、その心は興奮に震えていた。何も知らない相手の命を奪う。自分の射程内のすべての命は、自分の掌の上なのだ。まさに神になったような気分だった。もう後戻りはできない。だったら、私の好きなようにやらせてもらう。
ユミはすっくと立ち上がり、涙を拭いた。
「はっはっ……ハハハハハ!」
銭湯を出たユミは、暇な時間を潰すために市場に繰り出していた。冷たい夜風が火照った体を冷やす。夜は暗いが、出店の先に下げられているランタンが通りを照らしていた。
食べ物、武器、防具。たいていの物はこの市場だけでそろえられる。出店者もトラベラーだけでなく、一般人である場合もある。とりあえずユミは矢の材料と、干し肉を一ダースほど買ってから、帰路に就いた。
ユミの家はサンスイヴィルの端にある、大きな一軒家の一室だ。外の階段から二階に上がり、ドアを開けた。
女っ気のない、質素な部屋。壁にはスナイパーボウガンがかけられている。一日の終わりには、どうしようもない虚脱感がおとずれる。今日も人を殺した。無意識のうちに罪を感じているのだろうか。それとも、殺めてきたトラベラー、すべての生命からの呪いか。
ユミはかぶりを振って、ベッドに身を横たえた。
次の日は雨が降っていたが、ユミはいつもの崖の上で不運な標的を探していた。雨がギリースーツと彼女のスナイパーボウガンをしとどに濡らす。
「私、何してるんだろう……」
目的もなく、ただ殺すだけ。得られるものは、一時の快楽。
その時、ユミは目を見開く。十字の照準が、黒いローブを着た男を捉えた。フードを被っていて素顔を見ることはできない。
「呪うなら、私があなたを見つけてしまった不運を呪うことね」
引き金を引く。だが、スコープに映る男は倒れなかった。矢は発射された。ということは、信じられないが……
「外したっ……⁉」
そして男は、ユミを見た。鋭く、射貫くような視線がユミに突き刺さる。急いでリロードして、再びスコープを覗く。が、男の姿は無い。うかつであった。構造上、スコープを覗いたままリロードを行うことができないのだ。
「どこ⁉ 一体どこに⁉」
平原をあちこち見渡すも、姿がない。完全に見失った。仕留め損ねた相手を見失うのは、狙撃手にとって致命的である。
「お前が探しているのは、俺か?」
ぞっとするほど冷たい声。驚いたユミは飛び上がって立ち上がろうとするが、腰が抜けてしりもちをついてしまう。彼女の首に剣があてられる。男はフードを脱ぎ去る。まだ幼い、ユミと同じくらいの、高校生ぐらいの年頃だった。
彼は一発の狙撃でユミの位置を一瞬で把握すると、信じられない速度で崖を駆け上がったのである。トラベラーでなければ到底できない芸当だ。
「うっ……」
ユミは恐怖のあまり、思わず失禁する。少年はその様子を見て目を細めた。
「俺はスカウトに来た。拒めば、もちろん殺す。さぁ、選べ」
「わ、わ、私は……」
死にたくない。ユミはそう思い続けた。ならば、この男に従うしかない。だが、その先に待つものは何だ? でも、彼なら何か自分に目標を与えてくれると思った。ユミはうなずく。
「――あなたに、従います」
そうか、と少年はユミに手を差し伸べる。
「え?」
「俺はシェイド。お前の名は?」
「ゆ、ユミ、です」
ユミはシェイドの手を取る。シェイドは彼女を立ち上がらせた。そして剣を腰の鞘に納めると、くるりと振り返って歩き始めた。
「どうした? 早く来い」
「あ、あの!」
「なんだ?」
シェイドは立ち止まり、ユミに振り返った。ユミは地面に落ちていたボウガンを手に取り、胸の前で抱きかかえると、シェイドに向かって叫んだ。
「私! 絶対にあなたに失望させませんから!」
「そうか。ならまずはそのズボンを着替えることだな」
ユミはこの時初めて自分が失禁してしまったことに気づき、頬を赤らめた。それと、とシェイドは付け加える。
「俺はお前のようなトラベラーとなれ合うつもりはない」
激しさを増した雨が、二人を濡らす。ユミは自分の涙と、失禁してしまった跡があまり目立たないことに感謝し、シェイドの後を追うように歩き始めた。
彼女の真の戦いは、これから始まる。
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