文化祭

 あの後、塩崎くんには別れる旨を改めて連絡した。別れるというか、正直現状でも付き合っている認識はこちらにはないのだけど、向こうから連絡が来るのを放置してるのもあんまり良くないということになった。なったというか全部私の脳内だけの話なのだけど、向こうの連絡が途絶えるのを待つのもちょっと埒が明かない感じになってきたし、仕方ない。

 別れるって言ったらなぜか食い下がられて「なんで?」とかしつこい感じがしたので「好きな人ができた」とかなんか定番っぽい言い訳をしてみたのだけどどうしてこのとき「沈黙は金」ということを忘れていたのだろうか。後悔とは先に立たないものである。

「じゃあ晴れてフリーってわけだ?」

 須田さんが目を三日月にするので私はやはり仰け反って少し距離を取る。

「余計なお世話はいらないからね」

「まあまあ、フリーだからこそできる話ってあるじゃん」

 たぶんその話は私には向かないやつなんだけど。

 夏休みが明けて実力テストが終わると、学校の全体が一気に文化祭に向けて動き出す。実行委員会が発足してテーマが決まり、タイムテーブルが決まり、全校制作が決まる。全校制作とは何かというと、まあまったく読んで字のごとくなのだけれど、全校生徒で行う制作である。具体的に今年はモザイクアートだそうだ。クラスごとに模造紙二枚程度の大きさの紙(というか実際に模造紙二枚)に配布された色紙を貼り、それを全クラス分集めて合わせると巨大な絵になる。下絵と色の指定は美術部が行っており、あとはクラスごとに貼るだけ。だけとは言っても結構な重労働だ。

 ところが文化祭まであと二日という段になって、その全校制作の仕上げに問題が発生した。これを貼り付けるためのベニヤ板が、ごっそり無くなったらしい。

「全部か」

「ほぼ全部。枠に使う細い棒だけ残ってた」

 朝倉探偵事務所(概念)を訪れたのは美術部の後藤さんだ。つやつやしたセミロングにカチューシャを挿していて、細くて小さくてかわいい。前歯が少し出ていることも含め、全体的にリスに似ている。

「犯人を探せという話か?」

「ううん、板そのものを探してほしいの。あれが無いと困るから」

「ふむ」

 朝倉は結局、曖昧な返答だけをして答えを出さなかった。後藤さんが帰っていった後で、私は朝倉に水を向ける。

「珍しい。朝倉が手も足も出ないなんて」

「……いや、手も足も出ないというか」やはり朝倉の歯切れは悪い。「口止めされてる」

「口止め? なに、犯人に?」

「ん。向こうが先約だし、羽振りも良かったもんでついな」

「悪徳だねえ」

「弁護士は別に正義の味方ではないぞ」

「あーはいはい。わかってますとも」

 意外だったのは朝倉がそっちの肩を持ったことではなく、それを私に口外したことだった。守秘義務とは何だったのか。

 結局文化祭の当日になってもベニヤ板は返却されなくて、流れで私まで片棒を担がされた形になったため、妙に気が重い日が続いた。


 文化祭のクラス別の出し物を相談しているときに誰かが「喫茶店をやろう」と言い出して別の誰かが「喫茶店といえばメイド喫茶!」とか言って誰かが風営法云々と御託を並べたために「じゃあ男子メイド喫茶ならいいだろう!」という謎の結論を引き出していたときに朝倉は机に突っ伏して居眠りしていたためホールで女装する役に回されていて、まあ、自業自得っぽい。

 安さの殿堂で買ってきたチープなメイド服を着せられて憮然としている朝倉は「裁判を欠席したようなものだ」と述べており、取り敢えず決定について今更文句を言うつもりは無いらしい。

「細い細いと思ってたけど女装するとちょっとがっしりして見えるね」

 私が感想を述べると、朝倉は顔いっぱいに渋面を作って「私はそれにどう反応すれば良いんだ?」とだけ答えた。安っぽい生地に安っぽいフリル。シンプルでわかりやすいデザイン。だがもちろん、その分だけ地味だ。

「というわけでー、女子による男子メイドちゃんたちデコレーション大会を始めまーす!」

 福山さんが号令をかけると、クラスの五人くらいから黄色い歓声(男子を含んでいる場合も黄色でいいんだろうか)、半分くらいからやる気のない同意を示す声、もう半分くらいからは拍手、残りの数人からブーイングが上がった。

 メイク担当はメイド側から指名されることになり、朝倉はおとなしく頭を垂れて私のところに来た。会釈と言うには不貞腐れすぎている。

「捨てられた犬みたいな顔してるけど」

「いや、実際助かった。避けられないことなら被害は最小限に留めたい」

「信頼されているようで何より」

 朝倉を椅子に座らせ、顔を覗き込む。青白い顔、こけた頬、薄い唇。全体的に貧相で暗い印象。長く垂れ下がった前髪がその暗さに拍車をかけていてよろしくない。

「ん、わかった。前髪結おう」

「嫌だ」

 間髪入れず却下。珍しい。

「なんで?」

「嫌なものは嫌だ」

「なんかあるの?」

 沈黙。わかりやすい。こうなっては何があるのかが気になって朝倉の頭に手を伸ばす。朝倉が仰け反って私の手を避ける。背後は壁だからほとんど逃げ場はない。

「嫌だ、渡村離せ」

「まあまあそう言わずに」じたじた暴れる朝倉の手を押さえ込み、前髪をめくる。見ると、額の向かって左側、目の上くらいに縦三センチくらいの大きな切り傷があった。生え際から始まって、右眉の一部が傷のために禿げている。

「どうしたのこれ」

「昔うちの姉に振り回されて柱に衝突して、思い切り切ったんだ」

「これ隠してたの? これだけなら別に良くない?」

「嫌だ」

「じゃあいいや」ぱっと手を離すと前髪が一斉に降りて、朝倉が元の朝倉に戻る。「今から眉毛やるのも面倒だし、目隠れメイド路線で行こう。前髪は上げずに耳の上あたりをピンでデコったら可愛いんじゃないかな」

「結局デコられるんだな」

「目隠れついでに萌え袖もやってみたらいいんじゃない?」

「作業しにくいし、不衛生だと思うんだが」

「それ言いだしたらこの前髪だって十分不衛生だし、そこ突き詰めたら最終的にパン工場のクリーンルームみたいな服装になると思うよ」

 朝倉はその後もぶつぶつと文句を言いながら、特に抵抗せず私にデコられた。両耳の上にカラフルなアメピン、頬骨の上にはキラキラのグリッター。薄い唇には色付きのリップを塗った。何もしなければ不健康に見える青白い肌も、こうして他の色を差してみれば色白という程度に収まる。朝倉に足りないのは赤みだ。

「自信作」

 私が朝倉を指すと、メイクを担当した私以外の女子数人が一斉に首をひねった。

「なんだっけ……なんか既視感が……」

「配膳っていうよりモップ振り回してそうな感じするね」

「何かで見た……なんかどっかで見た……」

「髪の色変えたら何か思い出しそうな気がするんだけど……」

「可愛いでしょうに」

「いや確かに元の朝倉から比べれば十分に可愛いんだけど」

 勝手に品評会を始めた女子の輪の中で、朝倉はひどく肩身が狭そうに首を竦める。

「私はどう反応すればいいんだ?」

「可愛いポーズでも取ってみれば?」

「それは断る」

 品評会はその後も人を変えて続き、それなりに可愛く仕上がってる男子と頑張った割に全く似合ってないない男子に概ね分けられた。ネタ路線に全力で振ってやたら愉快に仕上がってるのが二人ほどいて、彼らは受付に立つのが正しいだろうと采配を受けた。ちなみに女子は宣伝とビラ配り、それから裏方だ。

 男子メイドちゃんたちの準備を終え、ざら紙に印刷したビラを配る。可愛い子いっぱいいますよ〜という誘い文句はなんとなく違法っぽさがあるのだけどなにしろ文化祭とは一種の治外法権でもあるので問題にはならない。高校生というのは結構理不尽に無敵の生き物だったりする。

 ビラ配り二周してキッチン(と言えるほどではないが他の言葉が思いつかない)と交代する。客入りは良くもも悪くもなく、受付に立っているのが愉快な感じに仕上がっちゃってる男子メイドちゃんということもあって、大きなトラブルは発生していないようだった。

 まあまあ平穏な高校生の文化祭って感じだな〜と思って気を抜いていたら入口の方から「千里〜」ってあんまり聞きたくない声が聞こえた。もしかして、っていうかもしかしなくてもあの声、そして私を(勝手に)下の名前で呼ぶ人間と言えば、

「塩崎くん? なんで?」

 およそ半年ぶりに見る塩崎くん(元彼)は、なんというか、見るも無残な高校デビューをキメてしまっていた。パンクとV系のどちらにかぶれたのかはわからないけれど、薄い顔に派手な髪型が致命的に似合っていない。せっかく顔が薄いのだからいっそ派手なお化粧でもしてみれば化ける気がするのだけど、それは取り敢えず別の話だ。

「なんでって、会いに来ただけじゃん何か悪い?」

「いや会いに来ただけって、うちメイド喫茶だしメイド喫茶のお客さん以外は入ってこないでほしいんだけど」

 この時点で周りの空気が何? 痴話喧嘩? みたいな感じになってきちゃっててすごい嫌なんだけどでも二人っきりで話とかたぶんそもそも向こうがするつもりなくてだって人連れてきてるし。似たような服装の高校デビュー失敗組二人。三対一で話すのも嫌だしじゃあこっちも誰か連れて行くかって言うとそれでどうなるって話で誰も巻き込みたくない気はするし帰ってほしい。

「っていうか話なら他所でやってよ、なんで学校に来るわけ」

「返事くれねえのそっちじゃん」

 まあそうなんだけど全く返事がない時点で何かしら思うことはないのか。

「ここで話すのが嫌なら外行こうぜ。話してくれんだろ」

「ちょっと」

 ぱっと腕を取られたタイミングで襟の後ろをそこそこ強く引かれて、私は「ぐえ」とか「うえ」とか言う感じの声を出しながらよろける。よろけたついでに塩崎くん(そろそろくん付けも癪になってきた)の手が離れて、よろけた先には誰かの腕があり、それに支えられてバランスを立て直す。

「あ? 誰お前?」

「名乗ってもどうせ知らないだろうに」朝倉が塩崎と私の間に立って、塩崎を睨みつけている。メイド服姿で。

「千里の浮気相手?」

 違うと言えばそれはそれで塩崎との交際関係を認めるような発言になりそうで言い淀む。浮気以前に、そもそもまだ付き合ってることになってるのが釈然としない。付き合ってないしそもそも付き合ってない。うん? 朝倉とも付き合ってないしそもそも塩崎とも付き合ってない。ああでもこの絵面だいぶだめっぽい。教室の外に軽く人だかりができている。ガタイが良くてV系だかパンクだかにかぶれたガラの悪い塩崎と、見るからにガリガリの上によりにもよってメイド服なんか着ちゃっている朝倉が睨み合う光景はそれだけでも異様だ。私のために争わないでっていうか私を巻き込まないで。

「関係ないんだから入ってくんなよ」

「悪いが他人のトラブルに割って入るのが家業でな」

「あ? 意味わかんねえ」

 振り抜いた右腕が朝倉のお腹にヒットして、朝倉はそのまま後方に吹き飛び、派手な音を立てて机とか椅子とかに激突する。

「は? 弱。マジなんで入ってきたし」

 別に朝倉なんかどうでもいいけど朝倉をふっとばした塩崎がヘラヘラ笑ってるのを見たらカチンと来た。

「そうやって無関係の他人巻き込むから嫌いだっつってんのがわかんないわけ?」

「あ?」

「昔っからそうでしょ? 自分ひとりじゃ何もできなくてなんでも周り巻き込んで従わせて、他人に諌められても暴力で黙らせて、それでなんで好かれると思ってるの?」

「ンだとこら」

 塩崎が青筋を立てて私を睨む。でも引いてやらない。私だって腹が立っている。

「先生、こっちです早く!!」

 誰かのそんな声が廊下から聞こえて、塩崎が舌打ちしながら踵を返す。結局自分より強い人間が来たら逃げるんじゃんダッサ。

「朝倉、平気?」

 振り返ったとき朝倉は既に立ち上がっていて、存外平気そうな顔で「眼鏡が無い」と答えた。殴られた拍子にどこかへ吹き飛んでしまったらしい。よほど視界が悪いのか、顔のパーツ全部を真ん中に寄せ集めるみたいな顔をしている。

「なんであんな、わざわざ殴られに行くようなことするかな。無抵抗で吹っ飛ぶしさあ」

「力も体重も無いんだ、殴り返したところで『殴り返した』って事実が残るだけで、それは得策じゃない」

「やり返さないにしても避けるとか何かあるじゃん」

「避けても話が長引くだけだったろ」

「……心配してんだけど」

「心配? 君がか?」

 本気で怪訝な顔をされて反射的に脇腹を小突く。朝倉が呻く。人を何だと思っているのか。

「心配して損した」

「なあそれより眼鏡が見つからないんだが」

「朝倉、眼鏡こっちにあった」

「ありがとう。――ええと、……平山か?」

「そんな見えねえの? これ何本?」

「それ人生で三百回はやられてるからな」

「三百回は嘘だべ? 眼鏡かけて生まれて来たってざっくり二、三週間にいっぺんやられてることになんじゃん」

 朝倉と平山くんが眼鏡を取り合い始めたのを尻目に、私のところには今井さんと須田さんが駆け寄ってくる。二人から「とむ!」「なんであんな吹っ掛けるようなこと言うの! 怖かった!!」とそれぞれに怒られて肩を縮める。

「あー……ごめん、なんか腹立ってつい」

「朝倉も! 大丈夫だった?」

「まあ平気だ。君は」

 朝倉が急にこちらに水を向けてきてびっくりして「私?」と訊き返したらちょっと素っ頓狂な声を出てそれでまたびっくりする。頭がごちゃごちゃしている。

「結構強く引っ張った気がする。怪我してないか」

「いや、……あの程度で怪我はしないでしょ。スペランカーじゃないんだから」

「スペランカーって何?」

 横から口を挟まれて少し焦る。うっかりしてた。スペランカー、女子高生てきに共通語ではないらしい。

「何があった」

 教室の出入り口から顔を出したのは隣の担任だった。っていうかもしかしてさっきの声、誰かのハッタリだったのだろうか。お礼を言わなきゃいけない気がするけど、誰の声だったかが思い出せない。

「先生、遅い」「他校の男子が乗り込んできて、喧嘩になって」「朝倉さんが殴られて吹っ飛んで」「いや俺は平気なんだが」「他校の男子?」「とむの知り合い?」「なんか元カレみたいな?」「どっちかって言うとストーカーっぽかったよね」「どこに逃げたんだろう」

「とむ?」

 声をかけられて急に意識の焦点が合う。須田さんが至近距離で私の顔を覗き込んでいる。

「……ごめん、やっぱ保健室行ってくる。ちょっと足首痛いや、どっかの朝倉のせいで」

「大丈夫? 着いてこうか?」

「いいよ、平気。近いし。むしろ片付けなきゃいけないのにごめんね」


 展示区域外は展示区域とはうって変わって暗く静かだ。遠くに文化祭の喧騒が聞こえる。膝に顔を埋めて休んでいると、足音が一つ近づいてくるのがわかる。

「なんでここにいるの」

「A氏は腰が抜けている」

 言いながら、朝倉は私の隣三十センチくらいのところに腰を下ろした。わざわざその言い回しを選ぶところが最高に腹立つ。

「元はと言えばあんたが殴られたりするから」

 思い切り怒鳴ってやろうと思ったのに、今更手も足も喉まで震えてきて声が詰まる。

 人があんな風に殴られるところを生まれて初めて見た。怖かった。怖かったのだと今更自覚した。心臓はうるさいほどなのに血は巡っていないのか、指先がひどく冷たい。あんな風に殴られてあんなに吹っ飛んだのに、朝倉は平気な顔をしている。

「すまない、泣かせるつもりはなかったんだが」

「泣いてない」

「そうか。私の視力が落ちたんだな」

 言いながら、朝倉はエプロンのポケットからタオルハンカチを取り出して私に差し出した。そういう繊細なこともできるのかと頭の隅で考えながら、思い切り鼻をかんでやる。

「っていうかなんでそんな平気そうな顔してるわけ」

「あれくらいなら慣れてるからな」

 聞けば朝倉家は弁護士一家であるから、逆恨みやら何やらの暴力沙汰は日常茶飯事らしく、武器も持っていない高校生くらいは大した警戒の対象にもならないのだそうだ。「あの間合いから腕だけで殴りに来る時点で避けるほどでもない」とは当人の弁。正直、呆れてものも言えない。

 先生を呼ばれてそそくさと逃げていった塩崎がどこに行ったのかというとなんかその辺に隠れていたっぽく、保健室でしばらく休んでから教室に戻ろうとした渡り廊下の途中でまた絡まれた。腕を掴まれて食堂の影に引きずり込まれる。

「しつっこいなあ」

「何だよ話しようってだけだろ」

 塩崎は謎に余裕を取り戻していてまた面倒くさい。塩崎の背後にはやはり連れ合いの男が二人。正門まで距離があるからそこまで差し迫った危険はないような気がするものの、近くに人が通りかかる確率もあんまり高くない。悲鳴を上げてみたところで誰かに聞こえるかどうか。

「はいはいストーップ。だめだよ女の子にそんな絡み方しちゃ」

 軽快な声が割って入って面食らう。私たちの横五メートルくらいのところに、知らない人が立っている。短い髪、ラフな服装、ハスキーな声。性別はわからない。

「あ? 今度は誰だよ」

「さて。悪いけど君なんかに名乗る名前は持ってない。そっちの女の子、君がトムラさん?」

「え、はい、あの」

「あいわかった。こっちにおいで」

 歩いてきたその人ぐっと腕を引かれて、その人の傍に寄る。

「でも」

「関係ない人間が話割って入ってくんじゃねえよ」

 塩崎が右手を振りかぶり、その人のお腹目掛けて拳を打ち出した。

 何が起きたのかはよくわからなかった。ただその人の右足が塩崎の首の横を捉える、その瞬間だけを見た。塩崎は倒れ、その人は笑っていた。

「先に一撃負っておくと正当防衛が通りやすいんだ。君たちも先に一回殴ってくれると助かる」

 その人は挑発するように(というか紛れもない挑発なんだろう)人差し指をちょいちょいと揺らす。塩崎が連れていた奴らはそれを見てたじろぎ、塩崎を担いでぱたぱたと去っていく。

「あの、どちら様ですか」

「うちの愚弟に頼まれて来た。あいつ今のに殴られて吹き飛んだらしいね?」

「……朝倉のお姉さん?」

 問うと、その人は唇の片端をにっと釣り上げて私を見た。朝倉(姉)は朝倉(東)と違って美人だ。どちらかといえば中性的な面立ちで、身長が高い。予め話を聞いていなければ、男性とも女性とも判断がつかなかっただろう。

「初めまして、弟のワトソン。あとはこっちで処理しておくから、君は安心して学校に戻るといい」

「処理って」何をする気ですか、と言い終わらないうちに、朝倉(姉)の声がかぶった。

「うちのがいるからそっちに流」

「ごめんなさいちょっと意味がよく」

 朝倉(姉)が喉をくつくつ鳴らして笑う。仕草が似ている辺り、確かに姉弟なのだなという印象がある。

「冗談。まあ、きっちりお灸を据えておくから、君はゆっくりお祭りを楽しんでおいで」

 ぽんと背中を叩かれて、どうやら行っていいということらしいので頭を下げて踵を返す。背後から「あ、そうだ、ごめんもうひとつ」と声がして振り返る。

「愚弟が女装させられてると聞いた。もし持ってたら写真をもらいたいのだけど」

 朝倉(姉)はその顔に、なんていうか弟をからかう姉そのものというような邪悪な笑みを湛えていて、これ多分写真なんて渡したら朝倉(東)にめちゃくちゃ怒られるんじゃないかなという気がしつつ、取り敢えず持っている中で一番盛れてるのを送ることにした。盛り盛りに画像加工を施してあるので、そこそこちゃんとかわいい。

「ありがとう。呼び止めてごめんね」

「あ、私からもひとついいですか?」

「うん? 弟の寝顔写メでも見る? 可愛いやつ」

「いえ、それは何か訴訟とか起こされそうな気がするので」

「大丈夫。私なら勝てる」

 訴訟で?

「そうじゃなくて」

 肝試しの時から、ひとつ気になっていることがあった。彼女が朝倉の姉――朝倉の姉ということは、

「……やっぱり『南』なんですか?」

 朝倉(姉)は少しの間きょとんと目を丸くした後、盛大に笑った。


 教室に戻って改めてクラスメイトに謝り、一通りの心配を受けて言い訳をし、その後はビラ配りを免除してもらってひたすら裏方で仕事をしていた。使ったコップの片付けとか、注文の入ったお菓子の盛り付けとか、在庫が減ってきたものの買い出しとかだ。

 ホールではお客(とはいえノリで来たような同世代男子がほとんどだ)が男子メイドと一緒に「萌え萌えキュン」みたいな古き良きメイド喫茶仕草を行っており、光景としては平和そのものだった。朝倉を含む一部押し付けられ系メイドたちはほとんど常に苦虫を噛み潰すような顔で黙々と仕事をこなしていた。私は私でその光景に笑いを噛み潰すのが大変だった。

 一般公開も終わった十六時半ころ、スピーカから「ぴんぽんぱんぽーん」と声がした。音ではなく声だ。

「文化祭実行委員会からお知らせです。十六時四十五分になりましたら、全校生徒の皆さんは校庭へ集合してください。繰り返します」

 不審な放送に教室内がざわつく。なにしろそんな予定はプログラムに無い。

「なんだろう、サプライズ?」「誰の声だった今の?」「高橋先輩じゃない? ほらあの、野球部の」「先輩って文化祭実行委だったっけ?」「知らないけど」「四十五分ってもうすぐじゃん」「後夜祭の前にってことだよね?」「レジ閉める時間無くない? 誰か教室に残る?」「全額誰か持ってけば良くない?」「先生呼んでお願いしようよ」

 四時半で一般客が退去しているとはいえ、本来金銭管理やら片付けに回されるはずだった三十分が削られるのは痛い。教室内はささやかな混乱に包まれ、やがて担任がどこからか連れてこられた。放送のことは担任も把握していないらしく、まあ担任は文化祭実行委には絡んでいないから仕方ないのだけど、とにかく行ってきていいということになって全員で校庭に出る。

 校庭にはほとんど全校生徒が集まっていた。今から何が始まるのか、誰もわかっていない様子だった。教師数人も同じように浮足立っているから、本当にごく一部しか知らないイベントなのかもしれない。


「れでぃーーーーーすえーーーーーんじぇんとるめーーーーーん!!!!!」


 いくつものスポットライトが一斉に点灯し、光が指し示す先、朝礼台の上にチープな仮面とチープなタキシードを身に着けた誰かが立っている。どこかから口笛が鳴り、歓声がわく。誰も状況なんかわかっていないはずなのにその瞬発力はすごい。

「あれか」

 朝倉が教室棟を見上げてぼそりと呟く。

「何が?」

「準備段階で板が無くなったって言ってたろ。あれは多分――」

 朝倉が言い終わらないうちに、教室棟から轟音が響いた。校庭の生徒の間から悲鳴が上がる。一瞬の後、スポットライトがあらゆる方角から降り注いだ。空を見上げると、紙吹雪が舞っている。

「巨大空気砲でも作ってたんだろう。この演出のために」

「……くっだらな」

 言いながら私は笑う。可笑しくてたまらなかった。舞う紙吹雪、色を変えてはそこらじゅうを照らすスポットライト。校庭中で沸き立つ歓声。見ているうちにどんどんどんどん笑いがこみ上げてきて、どんどんどんどん笑ってしまう。

「こんな紙吹雪、校庭の掃除だけじゃ済まないだろうな」

「絶対あとで怒られるやつだよね」

「近隣の掃除に住民への謝罪、下手したら賠償ものだぞ」

「はは、あはははは」

 ばかみたい。くだらない。最高だ、こんなの。

「渡村」

 名前を呼ばれて振り返る。朝倉はいつになく、変な顔をしている。表情が汲み取れなくて私は黙る。何、と聞き返そうとしたところに、別の声が飛んでくる。

「とむ!」振り返ると須田さんが手招きをしている。「写真取ろう! 紙吹雪バックに! 急いで!」

「すぐ行く! 朝倉は?」

「御免被る。写真は嫌いだ」

 ひらひらと手を振る朝倉に背を向けて、私は須田さんと今井さんの方へ走る。同じように考えた人たちが大勢いたらしく、校庭のあちこちで華やいだ声がする。


 その後、後夜祭の前に改めて教師陣からお説教があった。文化祭実行委員会の顧問、つまりおそらくは文化祭自体の責任者である三年の学年主任は血相を変えていたけれど、生徒の方は誰も彼も笑い疲れて話なんてほとんど聞いていなかった。

 体育館から勝手に持ち出されていたらしいスポットライトをすべて回収し、後夜祭が始まったのは予定を三十分も過ぎてのことだった。全方位に対して迷惑すぎる。どうやらあの企画は文化祭実行委員とはまったく無関係の三年生が勝手にやったことらしい。説教をしている先生方には「一歩間違うとこれが伝統になってしまう」という種類の焦りが透けて見えたけれど、こんな面倒なことを毎年引き継ぐ人間がいるのかはわからない。

「そういえば朝倉、さっき何か言おうとしてた?」

 後夜祭は体育館ステージを中心に行われる。必然、体育館の前の方にはテンションの高い人達が集まり、後ろの方にテンションの低い人達がぽつぽつと固まっている。

「さっき?」

「紙吹雪舞ってたとき」

 朝倉はすこし首を傾げて考える素振りをし、「ああ」と半ばため息じみた声を漏らした。

「好きだと言おうとしたんだ」

 は?

「何を?」

「君を」

「誰が?」

「俺が」

「なにそれ本気で言ってる?」

「こういう種類の冗談を言う趣味はない」

「だって、理不尽だって言ってたじゃん」

「言ったか?」

「言った。いつだか、『見返りもなしに他人の期待に答えるのは面倒だ』って言った」

 いつか朝倉東に、「恋愛はしないのか」という旨の質問をしたことがある。人の感情を平気で踏み躙る朝倉東が、報われない片思いに胸を焦がしのたうち回る図が想像できなかったためだ。朝倉東の返答は「見返りもなしに他人の期待に付き合うのは面倒過ぎる」だった。そういえばその時、朝倉東は探偵業の「見返り」として受け取ったカツサンドを食べていたのだった。

「ああ。まあ、今でも理不尽だとは思う。だが、何だ、私はその理不尽なコストを君に対しては払うつもりがあるし、他の誰についてもそうではない」

 朝倉は、朝倉にしては珍しいことに、歯切れが悪い。朝倉にも恥や照れというものがあったのかもしれないし、あるいは不確定要素について話すのが後ろめたかったのかもしれない。

「だからたぶん、がそうなんだろう?」

 弁護士は心にもないことすらを堂々と喋るプロだ。だからその時の朝倉も、堂々としていた。躊躇や狼狽なんか少しも出していない、つもりでいる。一人称もわからなくなってるくせに。


 真っ赤な顔をカメラで撮って見せてやったら、どんな反応をするんだろう。

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