朝倉東は○○が怖い
好きだと言われた。ほとんど唐突に。取り敢えず「考えさせて」と返事をし、一晩考えて「まあいっか」と思った。恋愛とかそんなに興味もなかったけど、まあ周りもやっているようだったし、もしも高校生になって本当に好きな人ができたときに「どうしていいかわからない」とならないための予習だと思うことにした。セオリーを学んでおくのは大事だ、多分。概ね大体の事象において。
中学時代の恋人である塩崎くんは、まあ同級生からこう言うのもどうかと思うんだけど純朴な感じというか、野球部所属の丸坊主の男の子で、びっくりするくらい足が速かった。その他に特殊なところは別に無かった。凡百の、ふつうの、うるさいけれど男子中学生の平均からすれば別に突出もしていない程度のうるささの、地味といえば地味かなってところに分類される男の子だった。彼が目立ったのは県の陸上大会に地区の代表として出て、百メートルのレーンをばーっと走っていったときくらいだった。世界大会かよってくらいの猛スピードに見えたのだけど、田舎の県大会でも四位そこそこのタイムしか出なかった。
別に好きではなかった。尊敬はしていた。なにせ私は運動がからっきし苦手で、足が速いというのはそれだけで十分、尊敬に値することだった。別に嫌いでもなかった。侮蔑していなかったかって訊かれると、正直今となってはよくわからない。一途ではあっても誠実ではないというか、だって模試の結果とかなんとか目に見えてまずいところがあったのに、それをあんまり問題視していなかったりとか、なんで? って思うところはちょいちょいあって。思いつきで優しくしてくれたりまあそれなりに恋人扱いもしてもらったのだけど全部行き当たりばったりで、それに対して私が何かしら即席でいい反応をしないと不機嫌になったりして、面倒くさい。面倒くさかった。
塩崎くんは甲子園出場を目指して県内にある野球部の強い学校を志望していたのだけれど、落ちた。その後ずいぶん荒れに荒れて、当時ギリギリ恋人っぽい状態にあった私に八つ当たりを初めた。八つ当たりっていうかまあ、私一人がその憧れの学校に受かってしまったからそのせいだと思うのだけど、でも一緒の学校受けようって言っておいて勝手に落ちたの自分じゃん? って思っていたらそれが何かまた他人事っぽいとかなんとか琴線に触れてしまったらしく、塩崎くんはまた怒る。あの時なんであんなに怒られたんだろうってその後一ヶ月くらい考えて、多分あの時の私は「一緒の学校に行きたかった」って落ち込むか、さもなくば「私もそっちの私学に行く」とでも言い出すべきだったのだ。向こうの想定的には。いや、確認してないから真誤としては不明なのだけど、でもなんとなくそれがしっくり来る。知らないけど。
彼は今になっても時々私にメッセージを寄越す。他愛ないことで。笑いか何かのツボが全く違うのかもしれないし、あるいは私の共感能力みたいなものが低いのかもしれない。
「随分めんどくさいのと付き合ってたんだねえ」
須田さんがつぶやき、今井さんがうんうんと頷く。教室では数人ずつのグループがいくつか、それぞれに雑談に興じているところだった。
名前を覚えるのに遅れを取ったせいもあって少なかった私の友達は、何故か朝倉を介して現在じわじわと増えつつある。たぶん、何より一番最初に秘密を握ってしまったことが勝因だろうと思う。攻略法を求める相談ならば朝倉に、なんでもない愚痴や惚気なら私に、という分担みたいなものをうっすら感じる。
「付き合ってたっていうか、あの態度は自分でも正直無かったなって思う。相手もかわいそうではある」
「っていうかそれってあれじゃないの、いわゆるアクセサリーっていうか」
「思った。とむが好きっていうか、可愛い恋人が欲しかっただけっぽい」
「ね、だよね? 恋に恋しちゃってるタイプ。受験の話だって夢に夢見ちゃってるだけって感じ」
「それそれ、叶うわけ無いじゃんそんなの。うち別にスポーツ強豪でもないし、スポーツ優待とか無いし」
「野球部が強いのだって人数多いだけだよねえ」
「で、その後結局どうなったの」
「こっちとしては自然消滅したい、っていうかしたつもりなんだけど、向こうがどう思ってるかはわからない。連絡は来るし」
「怖ぁ……」
「やめよう、その話はやめよう。なんで女子トークのはずが怪談になるの」
今井さんが二の腕を抱くみたいなポーズで寒気を示してみせる。八月十五日。教室内の気温は決して低くない。
その日は登校日だった。終戦記念日だからといって、全校生徒が体育館に集められて戦争についての話を聞く。その感想文を提出するのが夏休みの宿題でもあるから、夏休みのど真ん中とは言え、休む人は多くない。
「とむって今はさあ、朝倉さんと付き合ってたりすんの?」
何気ない風に言いながら、今井さんの目は好奇を隠しきれていない。そもそも女子トークというのもこの話のための前フリだったんだろう。私は少し考える。
「おや? おやおやおやおやあ? 何、迷うの? 考えるの? 微妙な関係なの?」
須田さんに勢い良く距離を詰められて私は同じだけ仰け反る。
「それ訊かれるの三回目だからそろそろ何か考えないといけない気がして」
「ああそっちか」須田さんががっかりしたように笑う。
「朝倉さん、いつも仏頂面だし何考えてるかわからなくてちょっと怖い」
「よくよく見ればわかりやすいやつだと思うけど」
「よくよく見なきゃいけない時点でわかりやすくはないよね」
そういえばそうだ。
「まあ、とむもわかりやすくはないけどさ」
「そう?」
「振れ幅は小さいよね。あんまり怒ってるところも見ないけど、きゃあきゃあ騒いだりもしないじゃん」
「地声が低いから様にならないんだよ、ああいうの」
「虫とか見るとどうなる? 例えばGとか」
「脊髄反射で踏み殺しに行く」
私の返事に須田さんと今井さんが「ぽいわー」と声を揃えて、私はなんとなく釈然としない。
「高校に入ってからは無いの? そういうの」
無いわけではない。実際のところ、朝倉と付き合っているのかと聞いてきた残りの二人は男子だった。別に付き合ってはないと答えたところ、片方はすぐさま、もう片方は振った後に「なぜ朝倉と仲良くするのか、朝倉の何がいいのか」という旨の話を始めたので、そういうとこだぞ、と念じておいた。朝倉は他人の悪口を言わない。内心でどう考えているかは知らないけれど、少なくとも私は隣りにいる人からそういう種類のことを聞きたくはない。話がつまらない方がマシ。沈黙は金だ。
「なんか疲れたし、しばらく無くていいや」
「そんなこと言っても男子とつるんでたら怪しいって」
「しかも大体が二人の世界じゃん?」
「別にそんなこと無いって。人が来れば対応するよ」たぶん。
「逆にさあ、朝倉さんもなんでとむに絡むんだろうね? 名前が気に入ったってだけであんな絡む?」
「朝倉さんはとむに気があったりして」
「……それ本気で言ってる? 朝倉東だよ?」
他の誰かならまだしも、朝倉東が誰かに傾倒するところなんて想像できない。人間自体を嫌っているわけじゃないだろうけど、長生きする昆虫を観察するレベルの愛着しか無さそうだ(いや、昆虫に本気で傾倒する人間もきっと世界にはいるんだろうけど)。
「言ってみてから思ったけど、無さそう」
「でも実際謎だよね? 明らかに特別扱いじゃん?」
特別と言うとなんだか大仰だ。言葉としては「特殊」の方がしっくり来る。特別と特殊の意味合い的な違いに詳しいわけではない。
「楽なだけじゃないの。私だってそうだし」
「楽?」
今井さんにオウム返しにされて口が滑ったことを自覚した。「私だってそう」は今の文脈には完全にいらなかった。これじゃまるで今井さんや須田さんとの会話がしんどいみたいだ。いや実際ちょっとはしんどいんだけど。
朝倉に裏表というものはない。斟酌とか忖度とか気遣いとかそういうものも基本的にはない。裏と言えるものが無いわけではないけど、それは基本的に開かれたディスプレイとしての裏であり、ディスプレイされている以上は表だ。裏も表もない雑な言葉を投げても、朝倉からはそのまま裏も表もない返事が来る。必要以上に踏み込まない朝倉との会話は、楽以外の何物でもない。
私は隣人が何を考えているか、知りたいとは思わない。伝えたいと思って口にしたことだけがその人だ。人が隠していることを暴きたいとも思わない。その人が自分をどう見せるかは相手の自由だ。開示したいというのは自由だけれど、開示させたいというのは今のところ、理解できない。
そういうとこだぞ、と私はわたしに対して思う。そんなだから、人とうまく会話できないのだ。他人に対する興味が足りない。
「ほら、基本的には向こうが喋ってるのをただ聞いてるだけで話が済むっていうか」
慌てて取り繕った言葉に、二人は「ああー」と声を揃えた。
「結構一方的に喋るもんね」
「とむもあんまり喋るタイプじゃないしねえ」
二人の反応に、私はそっと胸を撫で下ろす。コミュニケーションは難しい。
戦争講話は長かった。長くて、聞いたことのある話ばっかりだった。これなら民法でやってる戦争特集を見ても似たような感想文が書けそうだと思った。そもそも、演題に立った話者がどう見ても若い。一九四五年に何歳だったのか、戦争を経験していると言えるのかどうかもかなり怪しい。これだったら歴史研究家でも連れてきた方がよほど正確な話ができそうだとすら思った。
体育館に集まった生徒の殆どは眠そうに見えたし、それは朝倉も例外ではなかった。三角座りしている後頭部ががくりがくりと揺らいでいる。
私は朝倉東をどう思っているのか?
――嫌い?
ノー。嫌いではない。
――話したいと思うことがある?
イエス。でもそれは友達だってそうだろう。
――会いたいと思うことがある?
わからない。
――無意識に目で追ってしまうことがある?
ノー。
そこまでを考えて、考えることをやめた。というかネタが尽きた。そもそも恋の定義や領分なんて知ったことではない。考えるのが面倒になって抱えた膝に頬を付ける。面倒くさいことは嫌いだ。
講話は二時間だった。その間、在学生の八割は眠たげに頭を揺らしていた。解散の後、眠そうだったねと朝倉に話しかけると、朝倉は「新規性がひとつも無かった」と苦々しげに感想を吐き捨てた。
「あんな二千回も聞いたような話をわざわざ聞かされる意味がわからない」
気持ちはわからなくもないけど、二千回は大袈裟だ。小学校入学から聞かされたとしても、年に二百回聞くことになる。
「まあ、時々は思い出せよってことじゃないの」
「知らない戦争を思い出すことなんてできるわけがない。最新の軍事設備やら兵器についての話なら聞く価値がある」
「まあそういう奴だよねえ」
私が言うと、朝倉は怪訝に片眉を上げてこちらを見た。表情は豊かなのだ、これで。
「そういえば今日、今井さんとか須田さんとかと肝試しやるんだけど、朝倉も来る?」
「肝試し?」
「そう。なんか夏っぽいことしようってことになって」
朝の雑談の中で出た話だった。夜の学校に集まって、ちょっとした肝試しをする。主催はオカルト研究会で、なぜそんな話が回ってきたかと言えば、二人の中学の同級生がオカ研に入っているらしい。
「いや、悪いが、興味がない」
朝倉の返答はにべもない。私はつい楽しくなって、「怖いんだ?」と返す。朝倉が私を見る。
「興味がないと言ったんだ」
「意外だなー、朝倉にも怖いものがあるんだ。超常現象とか苦手なタイプ?」
「だから俺は」
「まあいいよ、怖がってるのに無理矢理連れてくなんて悪いもんねえ」
そんな感じで結局、朝倉は肝試しに参加することになった。当人はなんだか「あれだけ煽られて黙っていられるか」という旨のことをぶつぶつ言っているけれども、煽った覚えもないので無視しておく。
その日の夜八時、改めて学校に集合する。本当はもっと真夜中にやりたかったけれど、それは学校の許可が降りなかったということらしい。職員室にはまだ明かりがついていて、肝試しのムードとしてはぶち壊しに近い。
肝試しの主催がオカルト研究会であることは、朝倉には言っていなかった。朝倉を勧誘しに来たオカ研のメンバーは遠目にもそれとわかる。朝倉は案の定、それを見て顔をしかめた。「聞いてない」と恨みがましい声が聞こえる。聞かれていないから答えなかっただけだ。
「や、朝倉先生!」
遠くから呼びかけられて朝倉が頭を抱える。
「頼むから先生はやめてくれ……」
オカ研のメンバーを含め、その場には十人くらいの学生が居た。割と繁盛している部類だろうと思う。例の人体の神秘氏、それから髪型も背格好もそっくりの、座敷童みたいな女の子が二人。もともとああなのか、あるいは肝試しのためにああしているのかはわからない。それから、推理研にも居たような無個性眼鏡。
「というか、推理研に居た当人じゃないか?」
「ん? ああ、朝倉さんだっけ? 来てたのか」
「推理研にいたと思うんだが」
「うん。誘われたから来た」
「ミステリとオカルト、どっちも好きなんですか?」
「単に不思議な事が好きなんだ。推理もオカルトも不思議を解明するひとつのアプローチ、って立場」
なるほど。一理ありそうな気がする。
「オカルトがありなら大抵の推理なんて成立しないだろう?」
「推理は推理、オカルトはオカルトで分けて考えること。推理につじつまが合わないからって部分的にオカルトを引っ張ってくるのは無し。取り敢えずそういうルールでやってる」
何のルール?
「さて」背の高い、ガリガリに痩せた学生が声を張り上げる。立ち位置的におそらく今回の肝試しの主催なんだろう。「時間ですので、始めましょう」
オカルト研究会の話は概ね、学校に伝わる伝説というかそういう種類の作りをしていた。生徒が死んだとか行方不明になったとか教師がそれを責任に感じて自殺したとかトータル何人死んだ? さすがに普通の学校でそんなホイホイ人死が出てたら大問題なのでは? って感じで私は後半ちょっと飽きていたのだけど今井さんも須田さんもきゃあきゃあ悲鳴を上げながら聞いているので私は取り敢えず黙っていることにする。沈黙は金。
「北棟の裏にある焼却炉には、こんな噂もあります。――十二年前、この学校で生徒が殺され」また?「バラバラにされた遺体は焼却炉で焼かれ」そろそろ学校に怒られない?「それ以降焼却炉はセメントで塞がれ、今も使えない状態に」それは法規制とかそういう話じゃなく?「その焼却炉の近くには今も生徒の骨が埋まっているという――」事件が発覚してるなら回収されてるはずでは?「それから」まだ続く?「今でも弓道場の近くでは、夜になると殺された学生の泣き声が聞こえるという――」うん?
「なんで弓道場?」
つい声に出た。約十人分の目玉が一斉にこっちを向いて、しまったと思う。なんか最近別の場所でもあったなこんなこと。
「亡くなった生徒は弓道部員で、部活中の事故で亡くなり、その後バラバラにして隠蔽されました」
設定に無理がある。もちろん、それは口に出さない。沈黙は金、沈黙は金。
ちらっと確認したところ、朝倉はやっぱりイライラした顔をしていて、その向こうにいる推理研の眼鏡の人は楽しそうにしている。普段から頭脳ゲームをやっているような人のはずなのに、この話にケチを付けたくならないのだとしたら、それはたぶん人徳と呼ばれるものだ。
肝試し本番は、三人ずつ四チームがそれぞれ順番にコースを回るというものだった。残りの数人は驚かし役であるらしく、例の座敷童みたいな二人組は消えていた。人体の神秘氏は案内役として立っている。まあ、隠れようがないんだろう。
班はそれぞれ近くに居た人同士が割と適当に組まされたので、私は今井さんや須田さんとではなく、朝倉と推理研の眼鏡の人(木船田先輩というらしい)と組むことになった。いよいよ何をしに来たのかがよくわからない。
ルートは単純、昇降口から三階に上がって北棟を通過し、一階に降りて焼却炉傍の扉から御札を剥がし、一階を通って戻ってくる、というもの。二階を通らないコースなのは職員室があるからだ。そもそも御札って剥がしちゃいけないものなのでは? と思うのだけど、まあ、肝を試すものだからこれはこれでいいんだろう。
校舎内は暗いので、各班が懐中電灯を持ってその中を歩く。校内は不気味なほど静かで、どこからか水滴が落ちる音がしている。
「っうわ!」
昇降口を上がってすぐ、木船田先輩が声を上げた。私はむしろその声量に驚く。
「さっそく何かありました?」
「ああ。……こんにゃくの破片が落ちてたのを踏んだ」
どういう状況?
「さっそく肝を試されたな。オカルト研め」
違うと思う。
階段を登ってすぐのところには音楽室がある。中からピアノの音がする。メロディが聞き取れないほど緩やかでかすかな音は、どこか不吉で気味が悪い。
「ト短調か。不気味だな」
「音感あるんですね」
「いや無い」
雑か。
そのピアノの音は小さくならなかった。私たちは歩いていて、音楽室から離れているはずなのに、まるで追いかけてくるかのように一定の音量で聞こえ続けた。バラバラだった音階が少しずつまとまって、メロディの形が見えてくる。
「……通りゃんせ、か。なあこれ、音大きくなってないか?」
「大きくなってるというか、小さくならないというか」
「案外誰か付いてきてたりしてな」
「振り向いてみます?」
「振り向いてみるか」
「じゃあ、せーので。せー、の」
勢い付けて振り向くと、そこには人が立っていた。一瞬悲鳴を上げそうになって、それが朝倉だと気付く。全然喋らないから存在を忘れかけていた。
「なんだ朝倉か……無駄にびっくりした……」
「特に何もいないっぽいな」
「音楽室の方で音量を操作してるんですかね?」
「それにしては精度が良すぎるような」
言いながら前に向き直ると、間近に人がいた。例の座敷童みたいな二人組だった。驚きすぎて声も出なかった。
「通りゃんせ」
「通りゃんせ」
二人は道を開けるようにしてそれぞれ廊下の端に寄った。そこからじっと見つめてくる視線はとても居心地がいいとは言えない。
「……進むぞ」
「……進みましょう」
互い声をかけながら足を踏み出す。座敷童組は微動だにしない。その間を通り抜けて少し進むと、一階へ降りる階段がある。
「折り返し地点だな」
「結構静かですよね」
「不気味ではあるけどな」
言いながら階段を降りる。単純に視界が悪くて足元が不安だった。木船田先輩が、足元にライトを向けてくれる。三人が階段を下り終わってふと懐中電灯を前に向け直すと、例の座敷童組が目の前に立っていた。
「――っ!!???」
「っうわ!?」
私たちの悲鳴にも、座敷童組は表情を変えない。何のリアクションもしない。
私たちは今、階段を下ったところだ。北校舎の階段は校舎の両端にふたつしかない。私たちを追い抜かずにここに来るためには、私たちが最初に上った方の階段を下らなくてはならない。距離は往復二百メートルはある。時間的にどう見積もっても無理だ。
どすんと何かが落ちるような音がして振り返ると、朝倉が尻餅をついていた。
「何、びっくりしてコケたの?」
朝倉はなぜか返事をしない。木船田先輩が「朝倉さん?」と重ねて声をかける。朝倉が弾かれたように顔を上げ、立ち上がろうとしてへたりこむ。顔が青い。悪霊にでも取り憑かれたのだろうか。
「……A氏は腰が抜けている?」
木船田先輩が、ゲームの口調で問う。朝倉は答えない。
「随分時間掛かりましたね? 何かありました?」
「いや、肝試しの前の怪談、焼却炉の話。あれについて話してたら盛り上がっちゃって。悪い悪い」
肝試しのスタート地点兼ゴール地点で人体の神秘氏に訊かれて、木船田さんはするするとそのような嘘を述べた。「作り話は十八番だから」とは当人の弁だ。
「ウミガメのスープはほとんど作り話だし、あれでポーカーみたいな一面もあるからな」
「まあ確かに、表情で読まれちゃ困りますもんね」
「そうそう。役者っぷりなら演劇部にも負けないんじゃないかと思ってる」
木船田さんはにかっと笑って親指を立てた。心底までいい人だ。
そして目下最大の問題は、朝倉が完全に拗ねてしまったことだ。
眉間にしわを寄せ、唇を引き結び、腕を胸の前で組んで歩いていた朝倉は、実際のところ、腕を放って歩くこともできないほどにビビりきっていたらしい。それで、想定外の場所で驚いたときに、腰を抜かしてしまった。
後から聞いた話、朝倉は幼少期に自身の姉(南だろうか)から嫌になるほど怪談話を聞かされており、その上散々脅され驚かされたせいで心的外傷後ストレス障害になっているとのことだった。専門用語っぽいものを使って誤魔化してはいるけど、要は小さい頃のトラウマで今もおばけが怖い、という話だ。
「可愛いところもあるものだ」
「うるさい」
もはや取り繕うつもりすら無いらしい。
肝試しが解散になった後、朝倉は誰と話すでもなく挨拶をするでもなくさっさと帰ろうとしたので、私は慌てて後を追うはめになった。さすがにちゃんと謝りもせず放置はできない。
「ごめんってば、まさか本気で怖がってるとは思ってなかった」
「だから私は嫌だと言ったんだ」
「いやそれは言ってないでしょ」
怖いんじゃなくて興味が無いだけだって言い張ってたのそっちでしょうがと言いたくはなったけどまあ確かにこの件については完全に私が悪いんだけど、っていうかそもそも朝倉東がおばけ怖がってるなんて誰もわかるわけ――
「あ」
声を上げた私を朝倉が見る。恨みがましい顔をしている。違和感の正体はこれだ。
「朝倉、ごめんね。今回は完全に私が悪かった。……怒ってる?」
「……別に、怒ってはいない」
朝倉東の一人称は「私」だ。朝倉はあの時、一人称を間違えた。つまるところ、最初からかなり狼狽していたのだ、この男は。
っていうかそれキャラだったのか朝倉東。
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