第2話 「ダメ男、決意する」

2012年 3月 20日 沖縄の気候とは違い、ジャケットを羽織るだけではまだはだざむく、平良は自室のアパートへ帰って来た。千葉県の柏駅から自室へは、小走りなら10分掛からずに到着出来る。


今回、沖縄に行っていたのは旅行ではない。それはあくまでも仕事で、沖縄に住む19歳の声の出し方に悩む女性から依頼を受けての事だった。


それにしてもこの1Kの狭い一室は、希望と絶望が交差する異様な雰囲気に包まれている。研究資料やタバコの吸殻で埋め尽くされているデスク。部屋中に散らばる公共料金やカード支払いの請求書。いつ着たのか覚えていない、脱ぎ捨てられた洋服の数々。


少し目線を上げてみると、壁に貼ってある1枚の紙が視界に入ってくるのが解る。その紙には「1年後の自分!日本全国を飛び回る大人気カリスマボイストレーナー!2011.03.16」と、刻まれている。


ボイストレーナーとして生きていこうと決意をしたあの日から、もう1年経っているのだ。この1年間、あまりに濃い時間を過ごしてきた。しかし、「まだ一年しか経っていないのか」という、驚きにも似た不思議な感情を抱いていた。


事実、当初の目標通りに現在の平良は、紙に書かれた通りの全国を飛び回るボイストレーナーになっている。北海道から沖縄、大阪、山口、挙げていけばきりがない。一人の無名な男が、ひとつの決意をきっかけに、まるで奇跡の様な1年を駆け抜けてきたのだ。


そんな話だけを聞けば、きっと素晴らしい結果だと言ってもらえるだろう。素晴らしい人間だと思ってもらえるかもしれない。しかし、平良の抱えている現実は、決してそんなに輝かしいものではなかった。


高い志と、そして熱い情熱を武器に、声に悩む人々に全力で向き合ってきたその姿勢は認めて貰えるだろう。だがしかし、二面性というものが人には必ずあるものだ。平良が持ち合わせるもう片側の一面は、夜な夜な酒に明け暮れるという、だらしない性格であった。その一面によって、平良はいつも金に困らされていたのだ。


自業自得なのは十分に理解はしているつもりなのだが、不治の病にでも掛かってしまったかの様に、平良はいつも落ち込んでいた。沖縄で頂いたレッスン費用も、電気代やガス代、インターネットの通信費を支払えば、すぐに消えて無くなる。


努力を惜しまない“平良一徳”の足を、いつだって、だらしない“平良一徳”が引っ張っていた。理想の姿になる事を自分自身で邪魔をするなんて、なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。平良だって、このままでは駄目だと解っている。しかし、抜け出すどころかどんどん深みにはまっていってしまう。これは泥沼だ。


平良は溜め息をつきながら煙草に火を着けた。その時、デスクの上でスマートホンが騒がしく暴れだしたのだ。画面を覗くと友人の大木武志(オオキ タケシ)からの着信だ。平良はすぐに応答した。


「おー平良!お疲れ様!今さ、仕事で丁度柏に来てるんだけど少し会えないかな?時間が空いちゃって暇なんだよ。どうせ平良も暇なんだろ?」なんて嫌味な事を言うのだろうか。しかし、大木の読みは大正解。平良は仮眠をしようと企んでいた。それ程に暇をしていたのである。だが、認めてたまるかと、小さなプライドに火がついた。


「それが暇じゃないんだよー。今沖縄から戻ってレッスン内容をまとめている所でさ。まぁ、あと30分もあれば纏まるんじゃないかな」本当は、飛行機の中で既に纏め終わっているのだ。「了解!それじゃー駅前のいつものカフェで待ってるから適当に来てよ!頼むねー!」そう言い残して大木は電話を切った。


大木の声はいつも明るく、頑張っているのが伝わるイキイキとした声だ。ファイナンシャルプランナーの資格を武器に、個人事業主という立場から多くの人の人生設計を手伝う仕事をしている。平良の親友で、過去には一緒にバンドを組み、その活動に青春を捧げた相棒でもあるのだ。


そして、30分後に終わる予定の架空の仕事を、平良はなんと1分も経たたずに終わらせた。誰かに会ってないと、思考回路が悪い方向へと落ち込んでしまう。それが目に見えていたので、本音を言うと、大木からの誘いは有り難かった。


脱ぎ捨てられて間もないジャケットを羽織り、平良は小走りで約束のカフェへと向かった。到着し、待ち人の姿を探していると、それに気づいた大木が手を振ってくれた。


「急いで来てやったぞ」精一杯の強がりを吐き捨てながら、平良は対面の席に腰をおろした。「ところで、最近はどうなんだ?」大木は職業柄か相手の近況を聞いては何かしらのアドバイスをすぐにしたがる。それをあまり面白くないと考えていた平良は「ボチボチだよ」と答え、そのすぐ後に少しだけ自慢の意味を込めて話した。


「今回も沖縄からの依頼があってさ、今朝方、成田空港に到着したところだ。徐々にではあるけど順調に進んでいるよ」良い側面だけを見れば確かに順調だ。嘘ではない。実際に、全国から依頼が寄せられる自分に対して誇りを感じているのだ。


「すごいじゃん!それなら稼ぎも増えてきたでしょ!」大木は話を続けた。「一年間でよくもまあそこまでやったよね!素直に尊敬するよ!ところで、確か一年前に掲げた目標は日本全国を飛び交うボイストレーナーになる事だったよね?すごいじゃん!叶っちゃった!」


高いテンションでこちらのテンションを引き上げるのは大木の得意技だ。それがわかっている平良は易々と乗っかってたまるかと、あえてローテンションを貫き通した。「うーん。ま、そうだね。でもまだまだこれからだよ」謙虚な返しをする事で、まるく収まる事を平良は願った。調子に乗れば、きっと粗を探して改善策を提案されてしまう。


「そっかそっか。でも本当にすごいよね!これからはどんな動き方をしていこうとか考えているの?もし良かったら聞かせてよ」出た出た。やはりそうなるよねと平良は思った。「うーん、そうだな。今の自分の能力に限界を感じている所も正直あるんだ。だから本当は海外にでも歌や発声を学びに行きたいと思っているんだけどね。なかなか時間がなくて行動に移せずにいるんだよ」今思い付いた事を、あたかも以前から考えていた事かの様に話す能力を平良は持ち併せていた。


平良の予想ではこれもまた、まるく収まると思っていた。そうか、大変なんだなーとか、その程度の返事を期待していたのだ。しかし、平良のその予想は大きく外れた。突然真面目な顔に変わった大木の口からは、先程までとは明らかに違う、トーンを落とした強い声が放たれた。


「平良、それ嘘だろ?いや、嘘じゃないかもしれないけど、そこまで本気じゃないだろ?」バレている。さすがは14歳から寝食を多く共にしている相棒だ。さらに大木は続けた。「昔から平良は“やりたい”事を言うだけ言って、それから“出来ない”理由を作り出し、周りを納得させながら、そして行動しないという結論を導きだす癖がある」図星だった。そして、少しだけテンション高めの口調に戻して大木は言った。


「もしかして本当は能力がないからビってんじゃないの?それはダサいでしょー!俺は平良は能力のある人間だと思ってるよ!ほら、せっかくだから海外に勉強しに行っちゃえよ!」ビッてるという言葉は、「ビビっている」という意味だ。元々、平良と大木は隣町同士の子ヤンキーだった。ビってるという台詞は平良の小さなプライドを傷つける。


「いやいや、ビってなんかいねーよ。いいか、アメリカに勉強しにいくって事は少なくとも一週間は日本から離れる事になる。そうしたら生徒さんのレッスンはどうする?」ほらまた言い訳を始めたぞと言わんばかりの呆れた表情で、大木は話を割って入ってきた。


「先生が勉強しに行く事を止める生徒さんなんかいるの?平良と生徒さんの絆ってそんな薄っぺらいの?今まで以上に質の高い、良いレッスンをする為に、先生が海外に勉強しに行くとなれば俺なら嬉しくて応援しちゃうけどね」平良は何も言い返せなかった。


大木は意地悪な笑みを浮かべながらこう言った。「どうするの?海外行きたいんでしょ?ほら、“いつ行くか!今でしょ!”」大木は笑っている。平良の心は屈辱的な思いでいっぱいになった。しかし、「このままではいけない」と思っていた気持ちも確かにここにある。これは何かしらの良い機会かもしれない。


「そうなんだよね。ブログで日本から離れる事を伝えたり、生徒さんには電話でレッスンが出来なくなる事を伝えておけば海外にも行けるかもしれないなとは考えていたんだ。武志から言われて改めてそうだと思ったよ。やはり、当初の考え通り海外に勉強しに行くか」あたかも元から考えていた事であり、お前の話が理由で決断した訳ではないぞ、というせめてもの強がりを言ってみせた。どこまでも小さな男だ。


「ははっ、いいねいいね!それならいつ行くか決めないとな!日にちを決めたらそれに向けた計画を立てる!そうすれば確実に実行に移せるぞ!さぁ、いつにする?三ヶ月後か?二カ月後にしちゃうか??」


ほら出た。大木はやはり介入をしたがるのだ。素直にプランニングを頼むなど、平良には出来ない。小さなプライドが許さない。こうなったら大木を驚かせてやろうと、少々興奮ぎみに平良は言った。「いやいや、一ヶ月もあれば余裕だろ」


「え?まじかよ!やっぱり平良は違うね!それが実現できたら本当にすごいよ!これから海外レッスンのアポを取ったり航空券やホテルの手配、その他諸々をこなすとなると忙しくなるぞ!それを覚悟の上で言ってるんだよな?」


平良は海外に行った事がない。その様な手順は完全に頭から抜けていた。まるで、隣の県にレッスンしに行くくらいの軽い気持ちで、一ヶ月後と言ってしまったのだ。


カッとなった一時の気分で決断などするものじゃない。しかし、この流れで平良が折れるのは負けを認める様なものだ。「大丈夫だ。余裕と言っただろ」そして、一ヶ月後には海外に歌と発声の勉強をしに行くと平良は改めて宣言をした。この時、平良の通帳には560円しか入っていない。財布の中にある四万円が全財産だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る