壱
時正side
3
―1945年8月5日(終わりの時)―
午後10時過ぎ、僕は中島新町に住む祖母の町内を回り、警告文のビラを配り、ここから今すぐ退避することを必死で訴えたが、誰一人相手にはしてくれなかった。
玄関先で塩を撒かれたり、暴言を浴びせられたり、自分の無力さが情けなくて、意気消沈し祖母の家に戻る。
「時正君……」
「だめじゃ、誰も話を聞いてくれん。非国民じゃと罵られ、疫病神じゃと塩を叩きつけられた」
「そう……」
「じゃけど、『明日の朝空襲警報が解除されても、防空壕から出んで欲しい』と伝えてきた。どんだけの人が僕の話を信じてくれたかわからん。紘一や軍士ならもっとうまいこと説明できるのに、僕は口下手じゃけぇうまく話せんかった……」
自分を責め悔し泣きをする僕の背中を、華奢な掌が優しく擦る。音々ちゃんの温かい掌だ……。
その手の温もりに、母の温もりを思い出す。
「大丈夫。時正君の声は、きっと……みんなの心に届いてるよ……」
「音々ちゃん……」
町内の人達の鋭い眼差し。
人の心を動かすような説得力は、僕にはない。
でも、祖母と音々ちゃんだけは、どんなことをしても助けてみせる。
僕達は一旦防空壕に避難し、深夜、空襲警報が解除される前に、家に戻る。この空襲警報では空爆はないと桃弥君から聞いていたからだ。
――深夜、町内の人がまだ防空壕に避難している頃、家の前でトラックの音がした。
「婆ちゃん、父ちゃんじゃ。父ちゃんが来たんじゃ」
僕は祖母を背中におぶる。
年を取り、軽くなった祖母。しわだらけの手が僕の体にしがみつく。
――車を走らせ、僅か数メートル……。
軍人はみんなの荷物を検査し、僕のポケットから1枚のビラを見つけた。
「貴様、なんでこがあなもんをもっとるんじゃ。貴様が反戦運動の首謀者か!取り押さえろ!」
僕は軍人によりトラックの荷台から引きずり降ろされたが、激しく抵抗しトラックとは反対の方向に走る。僕の大切な家族を、僕の大切な人を、危険な目に合わせるわけにはいかない。
「待てー!」
「父ちゃん、はよう行くんじゃ」
軍人に捕らわれ、地面に組み伏せられ顔を擦りつけられた。それでも僕は大声で叫んだ。砂埃が渇いた口の中に入る。父がトラックのアクセルを踏む。母は荷台で身を乗り出し僕の名を泣き叫ぶ。
「時正――!」
身を切り裂く思い。
音々ちゃんが泣きながら、母の体を支えた。トラックは猛スピードで夜道を走る。
軍人に何度も殴られ気を失いそうになりながらも、薄れゆく意識の中で、小さくなるトラックを見つめながら、こんな僕でも……家族や音々ちゃんを助けることが出来たという安堵感から、涙が溢れて止まらなかった。
――僕は意気地のない男だ……。
日の丸鉄道学校に入学後も、誰とも打ち解けることが出来ず、いつもぽつんと1人でいた。
そんな僕に声を掛けてくれたのは、同じ鉄道学校の守田紘一だった。紘一は僕の大切な親友だ。
そして……
音々ちゃんは……
紘一の未来には欠かせない、大切な人……。
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