第8話
※
俺は、負け犬だった。虚勢ばかり張って、虚飾の自信で塗り固めた仮面を被って、心の中では、遠吠えするような自分を見て、虚しさを感じていたのだ。
俺は弱い。だからこそ、強い者にはわからない景色を見れたのだ。
今日のために、俺は前を向いて全速力で走ってきた。そして、助走をつけて、跳ぶのだ。おんじに、そのとき見えた景色を見せるために。俺が見たいと切望していた景色を見るために。おんじから受け取ったラケットを固く握りしめると、川内さんに貰ったトーナメント表を見る。俺は、当然小さい山。シード選手とかではない。そして、第8シードに宮島を、第5シードに鮎川を見つける。俺は鮎川の二文字を二度見する。あいつ、そんなに強くなっていたのか。どれほど練習を積んだのだろう。
俺は宮島の山に入っている。ベスト8決めで当たりそうだ。その前に負けてはお話にならない。俺は気合いを入れる代わりに、ラケットをくるくる回した。
しばらくすると、俺の出番がやってくる。心の中で三回いつもの言葉を呟くと、指定された台につく。
ラケットを交換すると、ジャンケンをする。俺の勝ちだ。
「サーブでお願いします。」と言うと、両者共に「よろしくお願いします。」と言って、サーブの構えをとる。
俺は、水を得た魚のように、スポットライトを浴びた踊り子のように舞った。サーブが決まる。ツッツキをドライブがし易い位置に返してきてくれたので、バックの方向にドライブを決める。3球目で、綺麗に決まった。僕は大きくガッツポーズをして、次のサーブを出す。
ほぼ全ての球を、2球目、3球目で決めていく。正直、かなり一方的な試合運びになってしまう。だが、勝負に手加減は無用。適当にプレーしたら、おんじに殴られるだろう。そして
「ありがとうございました。」
緒戦は圧勝で終わった。俺は少し拍子抜けしたが、まだ一回戦だ。油断は絶対にあってはならない。
戻ってくると、川内さんに結果を報告して、自分の席に戻る。
俺は、卓球ノートを読み返していた。おんじとの思い出や、楽しかった頃の自分を思い浮かべる。そして、6ヶ月前の自分を思い出す。宮島に負けて、全てを失ったと思っていた頃を。卓球ノートを、自分の周りに積み上げて、食い入るように見つめていたあの頃を。そして、ノートを見る目を、いつも16冊目で止める。おんじの手紙を読み返すためだ。
そして、俺は俯いて、シューズの消えかかった文字に目を落とす。
お前は天才!
お前は天才!
お前は天才!
何回も挫けそうになってきた。ボロボロになっても、俺の意思が折れなかったのは、このおまじないのおかげかもしれない。
そんなことを考えていると、次の試合のコールで俺が呼ばれる。俺は準備をすると、次に指定された台へ向かう。
台に着くと、相手はもう準備ができているようだった。かなり背が高い選手だ。さっきより手強いかもしれない。俺はラケットをくるくる回す。
「よろしくお願いします。」ラケット交換をしてジャンケンに負けると、相手にボールを渡した。
相手はバックサーブの構えを取った。フォアサーブが主流の今、バックサーブをしてくる人は珍しいなと思ったが、使用者が減った分、慣れられていないサーブということになるのも事実。きっちり対処しなければ。
相手はバックサーブで、横上回転をかけてきた。横下回転に見せかけたフェイントだろう。俺は回転にラケットを合わせて、スマッシュする。低く深く打たれたボールは、相手の長い手に阻まれず、そのまま抜きられた。
最初のサーブを2球目で返されると、気持ちに余裕がなくなるものだ。こういうのを「出鼻を挫く」というのだろう。相手はまたバックサーブの構えをすると、今度は横下回転のサーブを繰り出す。俺は短くフォアの手前にストップして、相手がどう出てくるかを様子見した。しかし、相手は弱気になっているのか、俺の無回転のストップをツッツキした。当然、この球はオーバーしてしまう。
「よし!」俺は大声で自分を鼓舞する。
その後も、俺は順調に得点を重ねていって、そのまま勝利する。いつも通り「ありがとうございました。」を言うと、また自分の席に戻る。
それを繰り返していって、俺は5回戦の宮島との試合にまで、なんとかこぎつけた。川内さんや、クラブチームの人には、宮島とのことは言っていない。だから、特別に応援してもらえる訳ではなかったが、俺の場合、普通に応援されて、その声援を力に変えるなんて器用なことはできなかった。だから、好都合だ、くらいに考えておこう。と思って台につく。
宮島も、台についたようだった。一応、今日これまでの宮島の試合は見ていたが、やはりかなりの実力者だ。6ヶ月前の俺は、あんな実力の人間に勝負を申し込んでいたのかと思って、自分のことながらに少し恥ずかしくなる。
向こうは俺の事なんてもう覚えていないだろう。だけど俺は、あの敗北から、本当に様々なことを学んだ。絶対に負けられない。
ラケット交換の時間になる。俺は宮島に自分のラケットを渡すと
「三千円分の借りは、きっちり返しますよ。」と言ってやった。宮島は、一瞬なんのことを言っているのかわからない風だったが、やがて思い出したようだった。笑いながら、俺に
「負け犬は、別の飼い主を見つけたようだな。」と言ってジャンケンをした。別の飼い主とは、クラブチームのことだろう。
だが俺は、負け犬だってなんだっていい。負けることは、弱いことは、悪いことではない。強者が弱者を従わせる世界で強くなった人間は、きっと芯まで強くはない。と思った。
俺はジャンケンに負けると、宮島にボールを渡した。さあ、試合開始だ。
宮島はサーブを構えた。俺もレシーブのために準備する。6ヶ月前と同じフォームで、宮島はボールを投げ上げた。そして、強い下回転のボールを出してくる。俺は、できるだけ深い位置にツッツキを返すと、次の球に集中する。
かなり低くて深い位置にボールを出したのに、宮島はなんのためらいもなく回り込んでフォアハンドドライブを決めた。
俺はそのドライブを、さらにバックハンドドライブで打ち返す。フォア側に球が向かっていく。宮島が笑っているのが見えた。
その後、宮島は強烈なスマッシュを俺のコートに叩きつけた。
昔だったら、このまま抜かれて終わっていただろう。だが、俺はそのボールを冷静にブロックする。宮島はボールが返ってくると思っていなかったのか、そのまま俺のブロックに抜かれていく。
まずは1点目。俺はラケットをくるくる回して、宮島の次のサーブに集中する。もう一度、下回転のサーブのようだった。俺は今度は、短くストップをかける。そのボールを、宮島はフリックしてきた。フリックされたボールの上部を擦って、ドライブで返球する。バッククロスの軌道を描いてボールは相手コートに入る。
宮島はまたスマッシュを打ってくる。随分と強引なプレーだな。と思いながら、勢いのあるボールをまたブロックする。
今度は宮島も反応してきて、回り込んでさらにドライブを打ち込んでくる。俺はまたブロックをして、ほぼ完璧なコースにボールを送る。
それを繰り返して、俺は得点を重ねていく。半年前の苦戦が嘘のようだった。俺は、宮島が明らかに焦り始めていることにも気づいていた。半年前、3点しか取らせなかった選手に、今は追い詰められているのだ。
そして、これを取れば、俺の勝ち。というところまで来た。俺は、宮島がどんなに鋭い球を出してきても、それに負けないくらいの鋭い球で返球した。相手からしたら、強いを通り越して、恐怖を感じているかもしれない。いや、さすがにそんなことはないか。と、心の中で苦笑する。
ラスト一本は、俺のサーブからだった。俺はボールを上げると、宮島との昔の試合の時のように、速いサーブを出した。
俺のサーブは、台を駆けていく。宮島はなぜか怯えた表情になっていた。そして彼は微動だにせず、ただボールが過ぎ去るのを待つばかりだった。
「ありがとうございました。」
俺は、そう挨拶すると宮島と握手をした。と言っても、相手の手は、握るというよりは、軽くタッチするようにしか動かなかったが。
ともかく、俺は勝ったのだ。色んな思いが心の中ではじけて、少し泣きそうになる。だが、涙は俺には似合わない、またおんじに笑われるだろうから。そう思うと、俺は応援席に向かって歩き出した。
※※
宮島先輩から聞いた名前を聞いて、僕は驚愕する。貼川君は、卓球をやめたわけではなかったのか。しかも宮島先輩を倒すほどの実力者になっているとは、裏で、相当な練習を積んだに違いない。僕の脳裏には、宮島先輩に負けて、かつあげを受けて、ボロボロに泣いていた貼川君が浮かんでくる。彼に何があったかはわからないが、一度挫折して、もう一度立ち上がれた人間は、強い。それくらいは、大した挫折をしていない僕でもわかった。
そして、アナウンスが僕の番を告げる。貼川君のことは一旦置いておいて、自分の試合に集中しよう。
次の相手は、どうやらカットマン(カットという打法を用いて、立ち回る戦型)のようだった。カットという打法は、主にドライブやスマッシュなどを下回転で返して、粘れる打ち方である。だから、カットマンが相手だと、試合は長期戦になりやすい。僕は、カットに翻弄されて試合がマンネリ化しないようにしないと、と気を引き締める。
しかし、僕の心配とは裏腹に、相手はかなり攻めてくるタイプのカットマンだった。カットはもちろん使うのだが、それ以上に、僕のボールをドライブやスマッシュで返してくる。カットが守りだとしたら、攻めと守りのバランスが取れたプレイヤーだった。ここまで上がってきた選手なだけあって、かなり強い。僕は少し弱気になりそうになる。
相手は、僕が消極的なプレーを始めたのを察知したのか、さらに攻めの頻度を上げてくる。そして
「くっ……。」
僕は1セット目を相手に取られた。このままではいけない。僕は両頬を手のひらで叩くと、弱気な自分を律する。このまま負けるなんて、僕が絶対に許さない。気持ちを入れ替えるように、僕はタオルで顔を拭いた。
そして始まった2セット目。僕は序盤から積極的に攻めた。だけど、どうも相手のペースが抜けず、得点をなかなか取ることができない。僕は少しずつ焦り始める。そして相手は、冷静にプレーできなくなってきた僕とは裏腹に、落ち着いて試合ができているようだった。
2セット目も、相手に取られてしまう。次のセットを取られてしまったら、僕の負けだ。僕の手は、手汗でびっしょりになっていた。しかしその時
「鮎川君!」
と、堀北さんの声が応援席の方から聞こえる。振り向くと、観覧席の最前列に堀北さんが見えた。女子の大会が終わって、駆けつけてきてくれたのだろう。
堀北さんは、僕の試合状況を知ってか知らずか、何も言わずに親指を立てた。言葉こそ何も言わなかったが、僕にはそれだけで十分だった。冷静さが自分に戻ってくるのがわかる。僕はラケットを握ると、頷いて、台の方へと歩いていく。何に変えてでも勝つ。僕は一人ではないのだ。
相手は、僕が台に戻ってくるのを見ると、よろしくお願いします。と言って構える。僕がサーブを出すと、相手は綺麗なカットを出してくる。先程までの自分なら、緩やかなドライブを打って、相手に合わせた卓球をしていただろう。
だけど、僕が打ったのは、早いドライブだった。
試合で出さなければならないのは、他人が見ていて楽しい卓球でなければ、相手に合わせた卓球でもない。「自分の卓球」なのだ。それを、堀北さんは思い出させてくれた。
早いドライブは、相手コートの深い位置に着弾して、伸びるように弾けた。相手は、攻めようとして次のボールを待っていたのか、驚いた顔をして、もう一度カットをした。
僕はその隙を見逃さず、思い切りスマッシュをする。相手はそのままカットをしようとしてミスをする。
そのまま、僕はどんどん得点を返していった。1セット、また1セットと、相手に追いついていく。そして
カコンッ!
最後の一点をスマッシュで決めると、僕は試合に勝利する。危ない試合だった。僕は大きく息を吐くと、応援席に戻っていく。
「おい。やばいぞ!」
「何がだよ。」
戻る途中、興奮気味でそう話す選手の声が聞こえた。なんのことだろうと、思わず聞き耳をたてる。なんとなくだが、会場全体が、大きな熱気に包まれているような気がする。
「あの末永が、追い詰められてるんだってよ!」
僕は驚いて振り返る。末永先輩が、負けかけてる?そんなまさか。僕は応援席への階段を駆け上がると、秀樽高校の生徒たちが応援している席のほうへと向かった。
目の前には、坊主頭から滝のような汗を流している末永先輩が見える。得点板を見ると、末永先輩は、既に2セット取られているようだった。僕は、末永先輩が、睨みつけているように見ている相手を見る。
僕の目は、ラケットをくるくる回す貼川君の姿を写した。
※
俺は、かつてないほど身体が軽いのを感じていた。相手は第1シードの末永という選手。秀樽高校の部長をやっている男だ。相手は汗をダラダラかきながら、俺を見る。俺の後ろからは、怒号のような応援が末永を鼓舞していた。とんだアウェー対決である。俺は既に2セットを自分のものにしていた。このセットを取れば、俺の勝ちだ。
身体が軽い理由については、なんとなく理解していた。俺自身が心の底では、宮島との勝負に縛り付けられていたのだろう。自分と自分が結んだ覚悟の鎖は、俺の意思を繋ぎ止めていたのと一緒に、自分の体をも重くしていたのだ。そして、その束縛から解放された俺は、まるで翼が生えたように跳躍したのだ。
末永がサーブを出してくる。かなり鋭く、回転量も低さも、普通の選手と一線を画している。さすが「強さこそ全て」がモットーの部活の元締めである。
しかし、今の俺は、そのようなサーブもものともしない。落ち着いて返すと、末永は、この点の主導権を握ろうと、猛攻を仕掛けてくる。だけど、俺はその鬼神の如き攻めを全て受け止めると、一つずつ対処していく。
そして、末永の体の疲労が生んだ僅かな気の抜けた球をしっかり見極めると、ドライブで得点を決める。
後ろから「ドンマイ!」や「次一本!」などの声援が聞こえる。しかし、その中に、俺の脳に直接響くような声が混じっている。
それは、今までおんじが俺にくれた言葉たちだった。リベンジは果たした。だけど、俺はまだまだ、もっともっと高いところへ行ける。そしてたどり着いた景色を見るのだ。俺はそう思うと、思い切りボールを上へ投げる。そして、落ちてきたボールを、ラケットで卓球台に叩きつけた。
深く台に突き刺さったボールは、末永に襲いかかる。末永は、台から少し距離をとると、ドライブで返球する。ドライブは、伸びるように俺のラケットへと吸い込まれていく。俺も台から距離をとると、ドライブをドライブで返す。
末永は、さらにドライブを打って、ラリーを続けてくる。まだまだ!
俺は、クロス方向に打つように見せかけて、思い切りストレートにスマッシュを叩き込む。末永のラケットを追い越して、ボールははるか彼方へと飛んで行く。
「よし!」俺はガッツポーズを取る。もっと高いところへ、俺は手を伸ばす。
そして、最後の一点。セット数2ー1、点数10ー6。俺がサーブを出すと、
末永はそれに反応してラケットを振る。しかし、ラケットの角に当たって、ボールは高く上がって、台から大きく外れた。
「ありがとうございました。」俺と彼は、そう言って握手をした。そして、俺がタオルで体を拭いていると、末永が
「一つ聞いてもいいか。」と俺に話しかけてくる。
「なんでしょう。」俺は末永の方を向くと、そう言った。なぜかはわからないが、少し緊張してしまう。
「それほどの強さがあって、なぜウチに入らなかった。」彼は本当に疑問といった表情で、俺にそう聞いた。強さがものを言う厳しい世界で勝ち抜いてきた彼からしたら、強い人間が強い学校に入ってきて、その実力をその学校で振るわないのが、不思議で仕方ないのだろう。俺は少し考えると
「部活に入らなかったのは、俺が弱かったからです。だけど、俺は、弱かったから、強くなれたんです。強いと思い込んだままだったら、あなたの部活に入っていたかもしれない。もしかしたら、今より強くなれていたかもしれない。」
「だけど俺は『今の俺』を誇ります。色んなことがあって、俺は気付きました。弱いからこそ、気付けたことがありました。」
それだけ言うと、俺は深く礼をして、その場を去った。しかし、アナウンスで
「まだ勝ち残っている選手は下に降りてきてください。」と言われ、俺はさっき末永と話した場所に戻ってくる。あんなに偉そうに演説してその場を去ったのに、これでは格好がつかないな。と、一人で少し笑った。
※※
アナウンスに呼ばれ、僕は下に降りていこうとする。まさか、末永先輩がベスト8で負けるなんて思ってもいなかった。しかも相手が、半年前には宮島先輩に完敗して、てっきり卓球をやめたと思っていた貼川君だなんて。
僕は予想どころか、考えにも及ばなかった。そう思いながら、階段を下っていると、末永先輩と階段で行き違った。
「先輩。貼川君はどうでしたか?」我ながら、ぶしつけな質問である。しかし、僕は貼川君の実力が気になって仕方なくなってしまっていた。
「非常に強い。気を付けろ。奴は絶対決勝まで上がってくるだろう。」末永先輩が、他人をそう評価するのは、とても珍しいと思った。今まで僕が末永先輩と話してきた中で、一回もなかったかもしれない。
「はい。絶対負けません。」僕はそう言うと、しずかに闘志を燃やす。ここまできたからには、絶対に負けられない。勝つことが、僕の存在証明だ。
下に降りると、勝ち残った三人が既に集まっていた。僕が最後のようだ。僕が来たことを確認すると、進行を務めている他校の先生が口を開いた。
「それでは、準決勝を始めます。15番コートに、鮎川君と望月君。17番コートに、貼川君と斉藤君が入ってください。」
「はい。」四人は、そう言うと、それぞれの台へついていく。僕も、ラケットを握りしめると、指定された15番コートについた。相手の望月さんは、いつも県大会で上位に食い込んでいる実力者だ。確か二年生だった気がする。一年生は、僕と貼川君だけのようだ。いや、二人もいることのほうがすごいのだろうか。
ラケット交換をする。どうやら望月さんは、バック側が表(ツブタカより低い凹凸の付いたラバー)を使っているようだった。表ラバーは、ボールに当たる面積が少ない分、回転の影響を受けにくい。だから下回転のボールがきても、普通のラバーの選手よりネットに引っかかりにくく、安定して攻めることができる。その分回転がかけにくいという欠点もあるのだが。
「よろしくお願いします。」僕と望月さんは、そう挨拶するとジャンケンをした。僕の勝ちだ。
僕がサーブの構えをとって、声を張り上げると、後ろから物凄い一体感のある応援が聞こえてくる。そういえば、うちの学校で残っている選手は僕しかいないのか、それに気づくと、変な高揚感が僕の体を襲う。
いや、これから勝負だというのに、僕は何を考えているのだ。そう思って頭を振る。
僕は、思い切り回転をかけてサーブを出す。しかし望月さんは、僕がこのコースへサーブを出すと、まるで予知していたように、綺麗にバックスマッシュを打ってくる。
僕は、一旦守りに徹する。スマッシュをブロックして、相手の出方をうかがう。望月さんは、もう一度スマッシュを打ってくる。かなり強気のプレーだ。対する僕も、スマッシュを少し下がってドライブで迎え打つ。
そのまま、激しいラリーが繰り広げられる。シンと静まったアリーナに、カコンカコンというボールが跳ねる音だけが響き渡る。そして、僕が打ったドライブをスマッシュしようとした望月さんが、ネットミスをする。
「ナイスボール!」後ろで応援してくれている仲間たちが一斉にそう叫ぶ。ラリーに勝った僕は、大きく声を張り上げる。絶対に負けない。何に変えてでも、僕は勝ってみせる。
もう一度僕のサーブだ。ボールを高く舞わせると、落ちてきたボールを掬うように下回転のサーブを出す。
今度は、フォア手前にボールを落とす。望月さんは、ラケットをまるで自分の体の一部のように操ると、フリックをしてきた。僕はカウンターでそのボールを跳ね返すように打ち返す。ボールはまっすぐクロス側を通って、相手コートで弾ける。
カコッ
相手は、強烈な僕のボールをバックハンドでブロックする。そのブロックされた球を、さらにフォアで切り返してスマッシュを入れる。望月さんは、そのまま動けず、得点は僕のものになる。
「よおおしっ!」僕はまたガッツポーズをして気持ちを爆発させる。
そのまま僕はセットを取った。自分の水筒があるところに戻ると、平岡先生がセット間のアドバイスを熱心にしてくれる。僕はそれを聞いて、また台へ戻る。相手もアドバイスを聞き終えたようで、台に戻っていく。さあ、気張っていこう。
相手からのサーブで二セット目は始まる。望月さんのサーブは、シンプルなように見えて、とにかく低い。このサーブを起点に攻めるのは難しそうだ。僕はフォア側の手前にストップをかけて、相手のバックスマッシュを封じる。あの表ラバーから繰り出されるスマッシュは脅威だ。返せなさそうな球は、できるだけ受けないように対策していこう。フォアに落ちた球を、望月さんはさらにストップしてくる。ネット際ギリギリに落ちる球を、バックフリックで返す。しかし、ボールはネットを越えずに引っかかってしまった。
「ソオオオッ!」望月さんは、独特な高い声をあげて自分を鼓舞する。彼の学校の部員たちも、一斉に応援の声で湧く。
そして、2セット目は望月さんに取られてしまう。僕は、自分の軽くラケットを握る手が震えていることに気づく。ここまできて、緊張しているのだろうか。僕は強くラケットを握って、自分のベンチに戻る。
試合は、どんどん熱を帯びていく。両者が点数を重ねるごとに、応援の声でアリーナはいっぱいになる。3セット目を僕の点で決めると、平岡先生は「あと1セットだ!さっきのサーブから……。」と、僕にアドバイスをする。僕は水筒を傾けながら、先生の激励を聞く。そして台に戻る際、隣の隣の台で試合をしている貼川君をちらりと見る。
彼には、ベンチコーチはついているものの、応援している人はいないようだった。それを見て、僕は素直に貼川君を凄いと思った。
僕は多分、応援の力がなければ、ここまでたどり着けなかったと思う。さっきも、堀北さんの声援に励まされて勝つことができたし、今も、あと1セットまで相手を追い詰めていることができるのは、仲間の応援があってこそだと思う。
貼川君は、半年前に宮島先輩に負けてから、この準決勝まで、たった一人で闘ってきたのだろうか。敗北を通して自分と闘い、何度も挫折しそうになりながら、それでも折れずにここまでやってきたのであれば、彼が宮島先輩や末永先輩に、たった半年の練習で勝てたことも、簡単ではないにしろ、納得できた。
僕は貼川君を視界から外すと、両頬を一回両手で叩いて、自分のコートに入っていく。さあ、あと1セットだ。しまっていこう。
試合が再開される。望月さんは高い声を出すと、ボールを一直線に見てサーブを出してくる。僕は相変わらず低いサーブを、チキータ(短いサーブに対し、バックハンドで横回転を加えるレシーブ)で返した。ここまで、ずっと温存してきた僕の必殺技だ。ここにきて新しい技を出された望月さんは、少しだけ驚いた表情をする。しかしすぐ元の無表情に戻ると、バックハンドスマッシュで対応しようとする。しかし僕がかけた回転が強すぎて、ボールをネットに引っ掛けてしまう。
「よしっ!」僕はそう叫ぶ。勝負をかける覚悟をして、今の技を出した。セット数では有利でも、試合は何が起こるかわからない。マッチポイントから逆転されてしまうこともあるし、まだ攻略しきれていない今のサーブを起点に、負けてしまうこともあるかもしれない。だから、僕は今の点を、勝負の一点だと思った。サーブを安定して返せるようになれば、勝てると確信していたからだ。
そのまま、僕は得点の階段を駆け上がっていく。望月さんも、僕に追いつこうと必死に上ろうとするが、今の僕に追いつけるものなど、おそらくいない。いや、追いつかせてなるものか。そして僕は決勝を決める最後の一本を、ドライブで決めた。
……。
一拍置いて、後ろから歓声が上がる。勝った。僕は決勝に進んだ。僕は、思わず後ろを振り返る。後ろでは、堀北さんが涙目になりながら僕のほうを何度も頷いているのが見えた。僕は望月さんと
「ありがとうございました。」と言い合って、握手した。丁度、隣の隣で試合をしていた貼川君が大きな声をあげて、彼の試合相手である斉藤さんと握手しているのが見えた。どうやら、貼川君も決勝へ進んだらしい。
「決勝は、18時30分から行います。」と、アナウンスが聞こえる。30分ほど休憩時間があるようだ。僕は、水筒の中のスポーツドリンクを飲みながら、体育館と同じ階にあるベンチがある空間に移動して、そのまま座る。すると、堀北さんがこちらに歩いてくる。僕はベンチの真ん中から端に寄って、堀北さんが座れるスペースを作った。
「いいの。少し話したいだけだから。」堀北さんがそう言ったので、僕も立ち上がった。
「鮎川君。」堀北さんは、僕の名前を呼んだ。
「うん?」僕は、そう返事をする。
「ちょっと、耳貸して。」と言う。不思議に思いながら、僕は堀北さんのほうに、右耳を向けた。
すると堀北さんの柔らかい唇が、僕のほっぺたにくっついた。
「えっ?」
僕は、驚きで何回も瞬きする。堀北さんが、僕にキスをした。
「それだけ、またあとでね。」堀北さんはそう言うと、ベンチのある空間から去って行ってしまった。僕は、何度も堀北さんがキスをした場所をさする。熱でもあるのかというくらい、その場所は熱くなっていた。
そして、僕は軽い視線を感じた。振り向くと、貼川君がいる。今のシーン、見られただろうか。
「わ、悪い。見なかったことにする。」と貼川君まで赤くなった顔でそう言う。そして
「少し話したいんだ。いいか?」と、僕が座っていたベンチに腰掛ける。僕は頷くと、貼川君の隣に座った。
※
俺は、斉藤という選手と戦うことになった。ここまで来て、負けるわけにはいかない。俺はいままでのようにラケットをくるくる回すと、指定された17番台につく。
ラケット交換をする。ラバーの種類から見て、カットマンとみて間違いないだろう。俺はラケットを相手に返すと、そのままジャンケンをした。負けたので相手のサーブだ。
俺は、レシーブのために構えた。相手が声を出すと、後ろの同じ学校の仲間であろう人の群れが、大挙をなして応援しはじめる。俺には、川内さんがベンチコーチをしている以外には、応援している人はいなかった。だが、俺は一人ではない。下を向けば、いつでもおんじが応援してくれている。お前は天才。そう声援を送ってくれているのだ。
試合が始まる。俺はすべての音をシャットアウトして、相手のサーブに集中する。
相手は、早いサーブを出してきた。相手のコートの台を跳ねて、ネットを追い越して、俺のコートに着地する。俺はそのボールを、ドライブで返球する。相手は、カットの構えをとると、一切の無駄がない綺麗なフォームのカットを打った。そのボールを、俺はもう一度ドライブする。ダンベルをあげるかのようなボールの重さに、少し驚く。
そういえば、おんじは若いころカットマンをやっていたことを思い出す。だからかはわからないが、彼の下回転のサーブは、恐ろしいほどよく切れていた。
それから、長いラリーが始まった。しかし、俺は、ひたすら緩急をつけたボールを、相手に返し続けた。カットマンとの勝負は我慢比べ、どちらが先に力尽きるかの体力勝負だ。
俺は、およそ半年前の一か月にわたる徹底的な体力づくりを思い出す。俺は、ひたすら走って、筋トレをして、体幹トレーニングをし続けた。おんじが、文字通り生命を削って付き合ってくれたあの時間を、決して無駄にはしない。
俺は、相手が浮かしてしまった中途半端なボールを、台に叩きつける。相手は、ロビングで粘ろうとするが、それすら叶わず、ラケットを俺のボールが抜き去る。
「よし!」俺はラケットをくるくる回しながら、雄たけびを上げた。相手の応援席から「ドンマイ!」や「次一本!」などといった励ましが聞こえる。こんなたくさんの人に応援されて、プレッシャーで押しつぶされそうにはならないのだろうか。そんなことを思いながら、相手の次のサーブを待つ。相手は、もう一度早いサーブを出してきた。俺は、バックハンドで、軽く手前に落とすように、小さくカットした。狙い通り、ネット際にボールが落ちる。ドライブしてくると相手は思っていたのか、一瞬反応が遅れてしまう。卓球は、一瞬、刹那のスポーツだ。少し対応が遅れれば、そのあとにまで波紋は広がって行ってしまう。俺は、斉藤が戻るのを待たずに、深い位置にフリックをした。相手は詰まったようにミスをして、また俺の得点になる。次は俺のサーブだ。
俺は、ボールを巻き込むようにサーブして、逆横上回転をかける。相手はカットしようとするが、下回転なのか上回転なのか、わからなかったのか、ボールはあらぬ方向へ高く上がってしまう。
「よし!」左手でガッツポーズを作る。
得点は、俺がリードしたまま進んでいく。そして、俺は1セット目を取った。タオルを取って、体を拭きながらベンチコーチである川内さんから、アドバイスをもらう。
二セット目は、俺からのサーブだ。俺は、一言呟く。相手の少し左あたりに、空き缶があると想像して。
「ドラゴンサーブ。」
「は?」斉藤が間の抜けた声を上げた。俺はお構いなしにサーブを出す。
サーブは、強烈な下回転を携えて、空き缶に、斉藤の左の脇腹あたりに向かって、ドラゴンのように、相手に襲いかかった。ミドルに着弾した球は、相手コートで全く伸びずに、
ツッツキのタイミングをずらさせる。そして、わずかに生じたほころびを逃さずに、俺は3球目を決める。
そのまま俺はラリーを続けたり、一気に3球目で得点を決めたりと、相手を翻弄する。絶対に負けない。俺のその気持ちが、ラケットに乗り移ったような「思い」球が、相手を少しずつ削っていく。そして、俺はマッチポイントの最後のボールを、スマッシュで決めた。
「よおおしっ!」俺は、すっかり枯れ果てた声でそう叫んだ。
俺は、決勝へと駒を進めた。言葉にしてしまえば簡単だが、それは俺にとって大きな意味をなしていた。必死でボールを追い続けた俺の日々は、間違ってはいなかった。結果が俺にそう告げてくれている気がして、俺は、タオルで顔をゴシゴシこすった。
隣で、大きな歓声が上がった。鮎川が勝利を決めたようだ。俺は斉藤と握手をして、川内さんのもとに歩いていく。
「君がまさか、って言っては失礼だけど、ここまで来るとは、正直思ってもなかったよ。」川内さんは、感慨深そうにそう言う。俺も今この瞬間まで、ここまで勝ち進むとは、いや、それ以前に宮島に勝てるなんて信じられなかった。
俺はそのあと川内さんと少し話して、鮎川が向かったほうへ歩いていく。少し彼と話したかったのだ。しかし、ベンチがある空間へ足を運ぶと、俺は驚いて立ち止まった。
鮎川のガールフレンド、いや、この言い方は少し古臭い。この場合「彼女」と呼ぶべきだろう―らしき人物が、鮎川の頬にキスしている瞬間を目撃してしまったのだ。俺は偶然とはいえ、少し申し訳ない気分になる。
しかし、鮎川に彼女がいたとは、初耳である。しかも相手は、同じ卓球部。卓球のウェアを着ていたから、多分間違いないはずだ。俺には彼女ができたことなど当然ないので、その彼女が去るまで、息を殺すことしかできなかった。女の子が去っていくと、俺は鮎川に近づく。視線を感じたのか、鮎川も俺のほうを向いた。
……。少々気まずい沈黙が流れる。俺は
「わ、悪い。見なかったことにする。」としか言えなかった。そして
「少し話したいんだ。いいか?」と言って、近くにあったベンチに腰掛ける。鮎川も、俺の言葉に頷くと、俺の隣に座った。
「同じクラスなのに、話すのは久しぶりだな。」俺は、そう切り出した。
「うん。ごめん。」鮎川はなぜか俺に謝る。もう俺に関わるつもりはなかった、とでも言いたげだ。
「俺、お前に格好悪いところしか見せられてなかったから、それを謝りたかった。それと。」俺はそこで一旦言葉を切る。
「俺の仇を討って、強くなる。って約束してくれた時、素直に嬉しかったんだ。お前はもう忘れてしまっているかもしれないが、ありがとうな。」俺は、言いたいことだけ言うと、逃げるように去ろうとする。しかし、俺の背中を、鮎川の声が引き止める。
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