第5話

※※


僕は、配られた入部届けに、自分の名前と、卓球部の文字を書いて、先生に提出した。駒沢先生は「頑張れよ!卓球!」と言ってくれた。僕は「はい!」と頷くと、教室を出る。

昨日で、体験入部は終わり、今日から、入部届けを出した部活でやっと本格的な活動ができる。僕は、昨日貼川君に宣言した言葉を思い出していた。

「僕が、貼川君の仇を討つ。」臆病で気弱な自分を変えて、強くなってみせるのだ。

多目的ホールへ着くと、僕は、昨日までの卓球部と少し違うことを雰囲気で察知した。心地よいくらいの緊張感から一変、物凄い威圧感を感じるのだ。まるで猛獣だらけの密林に迷い込んだような、恐ろしい感覚に囚われそうになる。僕より先に、数人一年生らしき生徒が見えるが、その誰もが、少し不安そうな顔をしていた。そして、ある程度人数が集まると、部長である末永先輩がこちらへ走ってくる。

「これで全員か?」僕たち一年が立っているところまで来ると、末永先輩はそう言った。なにか、昨日までと違うオーラのようなものが、先輩を包んでいる気がする。何より、昨日は敬語で僕達と話していたのに、今日の話し方はとても威圧的なのだ。

「では、お前たちにも練習に加わってもらう。メニューはあそこのホワイトボードにあるから、見ておけ。以上だ。」

それだけ言うと、末永先輩は去っていこうとしてしまう。僕は思わず

「すいません、着替える場所とかは……。」と引き止めた。すると、末永先輩は止まってこちらを振り向くと

「昨日までに教えることはすべて教えた。」とだけ言うと、自分の台に戻っていってしまった。一年生達は、末永先輩のその言葉を聞いて、思わず顔を見合わせた。それらの顔のどれもが「昨日までと明らかに違う。」と言っていた。

その中に、堀北さんの顔もある。僕は彼女と目があうと、軽く会釈をした。彼女も入部したのか。僕は、内心で少し喜んでいる自分がいることに気づいた。頭を振ると、着替えのためにロッカールームへ向かう。


空いているロッカーに自分の荷物を押し込んで、準備をすると、僕は再び卓球場へ足を踏み入れた。やはり、雰囲気は恐ろしいままだったが、ここで引き返すわけにもいかない。僕は、先輩達の邪魔にならないようにホワイトボードに近づくと、書いてあるメニューを読んで、組む相手を探した。

ちょうど僕と同じタイミングで来た男子生徒に声をかけられ、二人で打つことになった。よかった。と心の中でホッとする。もし誰も声をかけてくれなかったら、また僕は一人でわたわたと焦ってしまうに違いなかったからだ。

男子生徒とメニューの確認をしあうと「よろしくお願いします。」と言って、練習を始めた。

基礎練習から始めて、フットワーク、サーブ練習、レシーブ練習と、課せられたメニューをこなしていく。

しかし、少し違和感を覚える。末永先輩は「秀樽高校卓球部のモットーは、効率よく」と言っていたのに、これでは、ただの練習だからだ。それとも、このメニューに隠された何かがあるのだろうか。

気になるし、先輩に聞いてみようか、とも思ったが、少し怖くてそれができない。勇気がない自分を呪いながら、練習を続けていく。

最後に課題練習を行って、メニューを全て終える。この後はどうするのだろうか。と思ってタオルで汗を拭いていると

「エレベーターを始める。メニューが終わった者から指定された台につけ。」と、末永先輩の声が聞こえた。

エレベーター。簡単に言えば、試合を行って、勝ったら上の台へ、負けたら下の台へ移動するのを繰り返して、最終的に自分がいる台で順位付けを行ったりする練習のことだ。大体のエレベーターでは、1セット先取のものが多い。

僕たちは、先ほどメニューが書かれていたホワイトボードに行くと、自分の振り分けられた台を確認する。

指定された台につく。相手はどうやら先輩のようだ。僕は少し緊張しながらも「よろしくお願いします。」と挨拶して、サーブ決めのジャンケンを行った。

「よし、全員揃ったな。始め。」末永先輩が号令を出すと、一気に場が大会のような雰囲気に変わった。独特の緊張感。僕は、さっきジャンケンに負けたので、先輩にボールを渡すと、もう一度「よろしくお願いします。」と言った。

練習とはいえ、これも試合だ。相手が先輩でも、頑張ってぶつかっていかなければ。そう思うと、ラケットを力を抜いて握った。相手の先輩がボールを高く上げる。そしてボールがラケットの辺りにまで落ちると、ボールの下部分を切るようにして、サーブを出してくる。

下回転のサーブは、同じく下回転で返すか、攻めるために早い球で返球するかなど、幾つかの選択肢を選ぶことができる。僕は、昔から慎重になってしまいがちのプレースタイルなので、下回転で返す「ツッツキ」という技が得意だった。思い切り下を切ったツッツキを低く出せれば、相手の次に行える行動が制限できる。

しかし、僕が下回転をかけようとすると、ボールは高く上がって、オーバーしてしまった。どうやら、先輩のサーブは、下回転に見せかけた、ナックルサーブ(回転があまりかかっていないサーブ)だったようだ。自分の考えの裏を書かれた気分になるが、それでも挫けずに、僕は次のサーブに備えてラケットを構える。

しかし、その後は、結局先輩に翻弄されて、僕はすぐに負けてしまった。

「ありがとうございました。」と挨拶をすると僕は下の台に向かう。

そうやって、最終下校時刻までひたすら試合を行った。たくさん負けたが、一年生も試合に参加していたのもあって、最終的に僕は真ん中くらいの位置にまで上がることができた。入部1日目でにしては、上出来ではないだろうか。

「それでは、終わり。ロッカールームで着替え終わったら、いつものように集合。」

末永先輩がそう言うと、先輩達は次々とロッカールームへ戻っていった。それに倣って、僕も着替えをしに行く。

そして、全員がもう一度集まると、顧問の先生らしき人が、多目的ホールに入ってきた。

そういえば、体験入部の時は、顧問の先生は、一度も顔を出さなかった。どういう人なのだろうか。

「顧問の平岡だ。今日から一年も練習に参加することになったということで、秀樽高校卓球部の決まりを話しておこうと思う。」

「我が校の卓球部は、より強い者を求めている。弱い者は強い者に屈服するしかない。そういう場所だと思っておけ。」そう言うと、平岡先生は、一年の方をジロリと品定めする様に眺めた。

屈服?そんな弱肉強食の世界なんて、今時あるものか?頭の上を、疑問符が弾けては消えた。昨日までの「効率の良い卓球」はどうしたのだろう。意味がわからない。

「分かり易く言うと、今日のエレベーターで下にいた者は、上にいた者に何を言われても従わなければならない。」

「もしこの環境が嫌なら今すぐやめてもらって構わない。そんな意志の弱い者は、この卓球部に要らない。そこを肝に銘じておけ。」平岡先生はそれだけ言うと、末永先輩を見た。

「それでは、解散。」末永先輩はそう言うと、呆然としている一年生を一瞥すらせずに、多目的ホールを出て行ってしまった。他の先輩達も、同じ様にその場から立ち去った。

僕達一年生は、驚きと不安で一杯な顔を浮かべていたが、一人、また一人と立って、荷物を背負ってホールを出て行く。ずっとここにいても仕方ない。僕も荷物を持って立ち上がると、堀北さんに声をかけ、一緒に帰ることにした。


「とんでもない部活に入っちゃったね。」堀北さんは学校から駅までの道のりで、そう話した。

「本当だよ。弱肉強食の世界なんて、今時の部活にあるのが不思議なくらいだ。」僕も、すっかり驚いてしまっていた。これからが不安で仕方がない。

僕と堀北さんは、そこから言葉も少なく歩いた。僕は、このままこの卓球部にいて良いのか。そんな場所で貼川君の仇を取れるほど強くなれるのか。と二つの思いが絡み合って、固結びされてしまっていた。

その後は、駅に着いて「また明日。」とそれぞれの路線に歩いていった。見上げると、次の電車が、もう間もなくこの駅に着きそうになっているのが、電光掲示板で確認できた。僕は早歩きになって、自分の路線の方へ歩いていった。



俺は、うるさく鳴り響く目覚まし時計を止めると、上半身を布団から起こした。朝4時半だ。おんじも、恐ろしく早い時間を指定するものである。こんな早い時間から、何をするのだろうか。

起きて、パジャマから練習着に着替える。そういえば、ラケットやシューズは捨ててしまっていた。今更ながら、自分の軽率な行動を恨む。

正直に話すしかないか。そう思って、靴を履いて外に出る、外はまだうっすらと暗く、知らない鳥が、聞き覚えのある声で鳴いていた。

春とはいえ、ここまで早い時間だと、やはり寒いものだ。俺は手をポケットに入れると、風を受ける範囲を減らそうと体を小さく丸めながら歩いた。

俺は、実力だけが全てだと思っていた。勝つことが、自分の存在証明だと思ったからだ。でも、そんなことはなかった。卓球で大事なことは、強さだけではない。ラケットのゴムの匂い、ボールが鳴らす音、シューズが地面と擦れる音。それら全てが「卓球」なのだ。決して、試合の点数や、勝った数が、その人の卓球を物語るわけではない。

俺は、一回の敗北で「卓球」の全てを悲観し、投げ出してしまいそうになった。宮島が言った「強い者は弱い者に従うしかない」という考え方は、あくまで一つの意見である。

三千円は、貸しにしといてやる。

おんじが言った言葉をなぞる様にそう思うと、俺は卓球場に向かって走って行った。


「おう、来たな。」おんじはそう言うと座っていた椅子から立ち上がった。

「実はラケット、捨てちゃったんだ。」俺はおんじから目をそらして、そう打ち明けた。

「あん?バカかてめえは。卓球の練習しようって時にラケット無しでどうするつもりだったんだよ。」おんじはそう言って首の関節を鳴らした。

「だが、これからの練習にしばらくラケットを使うつもりはなかったからな。別にいい。」

ラケット無しで、何をするというのだろう。

「これからお前は、一ヶ月間みっちり体力作りをする。ラケットは握らせない。」おんじはニヤリと笑うと、卓球台の上に置いてあったタイムウォッチを持って、足早にそとにでていってしまう。一ヶ月間ラケット無し?そんなことで強くなれるのだろうか。と疑問に思いながらも、俺はおんじの後ろをついて外に出た。

「よし、ここから10キロ走るぞ。」おんじは自転車に乗ると、さっさと出発してしまう。俺は、おんじを追いかけるように走り出した。老人とは思えないほどの速さで自転車をこいでいるスピードについていく。このスピードで10キロは、かなり足にきそうだ。

そのまま、自転車に乗ったおんじと俺は、河川敷に出た。ここは、小学校に行く時に使っていた道だ。と思い返しながら走る。

景色は、俺が地面を蹴るたびに変わっていく。そういえば、俺はこのように体力作りのためにランニングをするのは、久しぶりだった。体力より技術が大事だと思っていたからだ。

「あと9キロ!ペース上げるぞ。」おんじはそう言うと、自転車のスピードをさらに早めた。これより速くなるのか。俺は自分の体より、おんじの体の方が気になった。こんなペースで自転車をこぐのは、かなりキツイはずだ。

そのあとは、川沿いをずっと走り続けた。ふくらはぎは重くなって、体には疲労感がまとわりついた。だけど、それが嫌だ。とは思わなかった。なぜかはわからないが、自分の心は充実感でいっぱいだった。

風が吹き抜ける。舞うようにすずめが飛んでいるのが見える。今なら空だって飛べる……。


わけがない。


俺はおんじに「卓球」を教わりに来たのだ。決して老人の自転車散歩に付き合いに来たわけではない。俺は内心不満タラタラだった。

しかし、ランニングを止めるわけにもいかない。俺はなんとか10キロ走って卓球場に戻ってくると、おんじに詰め寄った。

「おんじ、俺は卓球がしたいんだよ。おんじの早朝の散歩についていくなんて一言も言ってないんだけど?」俺は息を切らしながらそう言った。

「何言ってんだ。これも立派な卓球なんだよ。」おんじはそう言うと、タイムウォッチを見た。

「45分か。まあ初日にしては及第点だな。」と言う。次こそは卓球ができるだろう。借り物でもいいからはやくボールを打ちたい。と思っていると、おんじは卓球台を片付け始めた。

「な、なにやってるんだよ!打つんじゃないの?」俺は驚いて、おんじのしわしわの手を止めようとする。が

「言ったろ。一ヶ月ラケットは握らせないってよ。」冗談ではない。一ヶ月も卓球をしなかったら、相当腕が鈍ってしまうに違いない。いくら卓球の本懐が上手さや強さでなくても、俺の目標は宮島を見返すことだ。前より下手になってしまったら、試合をするどころではない。と俺はおんじにまくしたてた。しかし、おんじは全く動じない。

「せっかちなお前のことだから、そう言うと思っていたよ。だがな。」おんじはここで一回言葉を切った。そして

「お前のもやしみたいな体じゃ、卓球のために鍛えてる人間には敵わねえ。今お前に必要なのは技術力じゃない。体力と根性と、気合なんだよ。」と、俺の倍速くらいのスピードで言い切った。そして、ポッケからタバコを取り出すと、咥えて、ライターで火をつけ

「今から腹筋、背筋、腕立てを100回3セットだ。それが終わったら学校に行ってこい。」と言って、椅子に座ってしまった。

悔しいが、反論はできなかった。確かに今の俺には体力も気力もない。まずはそこから鍛えないと、それこそ試合をするどころではないだろう。だから俺は「わかったよ。」とため息ひとつついて、その場に寝転んで、腹筋から始めた。

おんじは、俺のその姿を見て、満足そうに微笑んだ。


※※


僕が秀樽高校に入って、一ヶ月余りが過ぎた。部活動の雰囲気には、まだいまひとつ慣れないままだったが、総合的な学校生活については、やっと落ち着いてきたという感じだった。

そして、今日は体育祭。中学校の頃より緩いと聞いていた通りに、開会式もなんだかやる気のない感じだった。しかし、それでも祭りは祭り。生徒たちは、髪をいろんな色に変えて登校してきていた。僕はというと、いつも通りの真っ黒髪だったが、気持ちは周りのみんなと同じで、浮き足立っていた。

「目標は優勝!」駒沢先生はそう言って腕を高く掲げた。クラスメイト達も、それに合わせて鬨の声を上げた。僕も腕を上げつつ、貼川君の方をチラリと見る。最近は登校してきているようだが、卓球部には入ってはくれなかった。前に宣言した言葉が、自分でも少し恥ずかしくて、どうしても彼に話しかけづらくて、一ヶ月が経ってしまった。

だけど貼川君は、元気を取り戻したみたいで、今日のリレー選手にも選ばれていた。前に比べて、随分と筋肉がついたように見える。何か始めたのだろうか。

僕も、ここ一ヶ月でかなり体力がついた。だけど、どうにも短距離走より長距離走の方が得意なようで、リレーの選手には選ばれなかった。その代わり、1500メートル走という、クラスで一人選出する種目に選ばれていた。今から少しドキドキするが、やるからには勝つ。少しは自分にも闘争心というものが身についてきたのだろうか。

体育祭は順調に進んでいく。騎馬戦、応援合戦、徒競走と、いろんな種目が行われた。どんどん生徒達のボルテージは上がっていって、もう少しで僕の1500メートル走がやってくる頃になった。すると、それまで女子の輪の中にいた堀北さんがそっと抜け出してきて、僕に

「頑張ってね。応援してる!」と言いに来た。はちまきをしていて、普段とは違った印象を受ける。

堀北さんとは、毎日一緒に帰っていくうちに、少しずつ仲良くなり始めることができた。中学の頃は、僕には女っ気の一つもなかったので、これは嬉しい変化だと思った。

すると、次の種目の召集が放送で流れた。僕の番だ。

「うん。行ってくるね。」僕はそう言うと、勇んで召集場所に歩き始めた。僕の他の選手はほとんど陸上部員だそうだ。手強い相手になりそうだと思いながら、指定された場所に着く。

「それでは、選手の入場です。」放送が流れると、種目の選手達が、生徒手作りの入場門をくぐって入場した。応援している生徒達は、より一層大きな声で声援を送り始めた。

選手達は並ぶと、スタートの合図と共に一斉に走り出した。普段部活動で走っている距離が5キロだから、普段よりスピードを出しても大丈夫なはず。と思いながら僕も走る。周りの選手も結構なスピードで走っている。ここはなんとか上位に食い込んで、堀北さんに良いところを……いけないいけない。競技に集中しなければ。

しかし、結果は10位だった。正直もっと上に行けると思っていた分、かなり残念だ。僕は少し落ち込みながら、応援席に戻った。だが、クラスメイト達は

「すげえな鮎川!陸上部員いるのに10位なんてさ!」

「さすがは卓球部のホープだな!」などと冗談と労いの言葉をかけてくれた。そう言われると、なんだか頑張ってよかった。という気分になる。

堀北さんも走ってこちらまで来てくれて、僕の成績を褒めてくれた。少しはかっこいいところを見せられただろうか。と思って、すぐ消しゴムで自分の心の中の感情をゴシゴシやる。

やがて、時間は過ぎて最後の競技、リレーの種目になった。各組の代表選手が集まっていく、応援席から少し離れたところにいた貼川君も、そこにはいた。どうやら並んでいる順番で見ると3番目くらいのようだ。

「いちについて、よーい。どん!」昔ながらの掛け声に合わせて、ピストルが空気を割った。その瞬間、声援が大砲のように響き渡る。選手達がしのぎを削って走っている。うちの組は最下位になってしまっていたが、それでも応援している人達は楽しそうだ。

応援というよりは、みんなで団結して何かやっている。という事実が楽しいのかもしれない。そう思いながら、僕は水筒を傾けた。

やがて、貼川君の出番が来た。うちのクラスの生徒達の声は、ますます大きくなる。貼川君は、少しずつ加速していって、綺麗にバトンをつないで走り始めた。

速い!入学したての4月当初は、少し細いくらいだと思っていたが、かなり筋肉もついてきていたようだ。やはり何か新しいスポーツを始めたのだろうか。貼川君は、どんどんスピードを上げていって、他の組の選手をごぼう抜きにしていった。女子が歓声を上げている。男子も興奮して、声援を貼川君にかけ続けている。

最終的に、うちの組は貼川君の活躍もあってリレーで一位になった。戻ってきた彼を讃えるように、クラスメイト達は貼川君の背中を次々に叩いた。僕も声をかけたかったが、何も言葉が出てこなくて、臆病な自分を責めた。

そのあとは、閉会式をやって、自分のクラスに戻った。結果は8組中6位だったが、クラスでは打ち上げの計画を立てている。

「鮎川!打ち上げ来るか?」と学級委員長の上田君が話しかけてくる。だけど、僕は体育祭の日でもちゃんと部活がある。

「ごめん。部活あるからまた今度!」と断って準備をして多目的ホールに向かう。すると、後ろから堀北さんが追いかけてきた。

「鮎川君!お疲れ!」彼女も、最初に会った時と比べてとても元気になったと思う。先輩に言い寄られた時みたいなネガティブな感じではなくて、どこかきらきらと輝いている。

「お疲れ。堀北さんも部活くる?」僕は隣を歩く堀北さんと話しながら、卓球場に歩いていく。堀北さんは頷くと、今日のことについて話し始めた。

「それにしても、貼川君、カッコよかったよね。」堀北さんは体育祭での貼川君をそう褒めた。僕は、普段はクラスに馴染もうとしない貼川君が、こうして褒められているのを嬉しく感じた。だけど、なぜかその反面微妙に悔しい気持ちにもなってしまっている自分がいることに気づいて、少し自己嫌悪をする。しかし

「でも、ね。」堀北さんはそう言って言葉を切って

「頑張ってる鮎川君の方が、カッコよかったよ。」と付け足した。

全身の血が顔に集まってくるような感覚だった。少しずつ耳が赤くなっていくのを感じる。なぜか歩いていた体が止まってしまって、堀北さんをまじまじと見てしまった。堀北さんの顔も、うっすらピンクになっている。僕は、心臓はこんなに激しく動いているのに、なぜ体が動かないのか不思議だった。この瞬間が永遠に続けばいいのに……。

しかし、その瞬間

「おい、そろそろ部活が始まる。急いで支度しに行け。」と僕と堀北さんの間に、末永先輩が割って入った。

「は、は、はい!」僕は真っ赤な顔でそう言うと、堀北さんと末永先輩を置いて逃げるように多目的ホールに走った。走りながら、少しガックリする。せっかくいい雰囲気だったのに。

いや、今はそんなことより練習だ。強くならないといけないんだから、今の努力ではまだまだ足りないくらいなのだ。僕は頬を両手で叩いて気付けをした。



体育祭は、まずまずの出来だった。なぜかいろんな人に褒められたが、体力がついてきていることが証明できた。これでおんじにもいい報告ができる。そう思うと、俺はまっすぐ帰宅する。今日も朝4時半に起きて、おんじと体力作りの特訓をした。正直寝不足だが、そんな弱音を吐いてもいられない。おんじの指導は厳しいものだったが、だんだん慣れて自信もすこしずつ取り戻せている実感があった。放課後も、おんじと特訓がある。そろそろ体力作りも終わって、台で打てるのではないだろうか、卓球場に着くと、おんじはいつもの場所の椅子に座ってたばこをふかしていた。

「よう。今日は体育祭だったんだよな。どうだった?」タバコを灰皿に押し付けて、おんじは俺にそう聞いた。

「リレーで俺の敵はいなかった。」と、自信満々に報告する。その言葉を聞いたおんじは、笑顔で頷くと、前のめりに倒れた。

時が止まったような感覚だった。何が起こったのかわからなかった。ふと、心の中には俺が小学5年生だった時のおんじの年齢が思い浮かんだ。確か75くらいだった。ということは、今年で80になるおんじの体に、たくさんのタバコ。そして、俺との特訓の時に使う体力。なぜ、気付けなかったのだ。

「きゅ、救急車呼ばないと。」俺の他にこの寂れた卓球場には人がいない。俺は急いで自分の携帯で救急車を呼んだ。俺が死ぬわけでもないのに、なぜかおんじとの記憶が走馬灯のように駆け巡る。始めて会った時のこと、身振り手振りで卓球を教えてもらったこと、大会で優勝した時のおんじの笑顔。いろんな出来事が、俺の頭をかすめる。目の前は、すでに涙のようなもので波打っていた。俺は、ただ倒れたおんじに声をかけることしかできなかった。


気づくと、俺は、うちの町の病院の椅子に座っていた。ここまでのことは、よく覚えていない。ドラマみたいだ。急に人が倒れて、救急車に乗って、病院の手術室の前で座っているなんて。ドラマだったらいいのに。何度そう思っても、鈍く光る手術中の文字が俺の前から消えることはなかった。

おんじにはすごい昔に妻がいたらしい。しかし、その奥さんも、おんじが若い頃に死んでしまったそうだ。おんじが、一度だけその話を俺にしてくれたのを覚えている。だから、この後おんじがどうなるかは、俺にはわからなかった。

それから、何時間経ったかわからない。手術中のランプが暗くなって、医師が出てきた時には、俺は疲れ切ってしまっていた。医師は

「手は尽くしたのですが、残念です。」と呟くように言った。

おんじは、俺の親友だった。いくら歳が離れていても、俺の大事な親友だったのだ。俺に卓球を教えてくれた。いや、もっと大切なものを教わったのだ。なのに俺は、おんじに何もできなかった。勝利の一つも、おんじに返すことができなかった。俺は、悔しくて、寂しくて、その場に崩れ落ちた。

俺は、帰路についていた。これからどうすればいいのか、おんじがあの後どうなってしまうのか、何もかも、わからなくなってしまっていた。

気づくと、俺の足は卓球場に向かっていた。おんじは死んだのに、この卓球場はまだ主人の帰りを待っている。ような気がした。

卓球場に入ると、そこはいつも通りの場所だった。おんじがいない事以外は。

そして、俺はおんじがいつも座っていた椅子に腰掛けた。が、何かを踏んでいる事に気づいて、俺は椅子腰掛けの部分に目をやった。そこには、何かの紙と、箱が一つ、置いてあった。俺は紙に目を落とす。おんじの字だ。

「手紙はこれで二回目だな。俺はどうやら言葉にするより字にしたほうが気持ちを表せるらしい。まあ、卓球場の電気を点けて読んでくれ。」

と、冒頭の部分に書いてある。俺は、近くにあった蛍光灯のスイッチを点けて、続きを読んだ。

「お前には自分を責めてる時間はないぞ。俺は自分の体の事を知っててお前に付き合ったんだ。だからお前はお前の事をしろ。自分の道を行け。お前は絶対に強くなれる。俺のお墨付きだ。強くなって、いろんな奴を追い越して、そこから見える景色を見ろ。どんな景色だったかは、今度教えてくれ。」

「今度って、もう教えられないじゃないか。」俺はそう呟いた。

「人は、その気になればどこだって行ける。お前はまだ未熟者だが、誰より卓球が好きだ。強さなんて目じゃないくらい、卓球が好きだろ。なら、お前はどこだって行けるはずだ。

俺がお前に飛ぶための翼をやる。だからお前は、空高く飛んでいけ。心の中で3回叫べ!」

手紙はここで終わっている。俺は腰掛けの手紙の隣にあった箱を開ける。そこには、シューズとラケットが入っていた。新品のものだ。そして、シューズには

お前は天才!

お前は天才!

お前は天才!とマジックで書かれていた。

「ははっ。こんな恥ずかしいシューズ、履けるかよ。」

俺はそう言って子供のように泣いた。今が夜なのもおかまいなしに、泣き続けた。悲しくて、哀しくて、寂しくて、淋しくて。


やがて、俺は立ち上がった。俺はやれる。ラケットを手の中でクルクルと回すと、泣き笑いのような顔になりながら、両の足を地面につけて。

「俺は天才。俺は天才。俺は天才。」

3回そう言った。

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