第2話
廊下では、出席番号についての質疑応答が繰り広げられていた。俺は出席番号29番、後ろの方に並び始めていた近くの女子に番号を尋ねることにした。
「やあ、君は何番だい?」我ながら紳士的な言葉遣いである。
「私は27番。ていうか、あなた私の後ろの席の人でしょ?よろしくね。」ずいぶん馴れ馴れしく言ってくる。この場合はフレンドリーと言うべきなのだろうが、どうも必要以上の会話をするのは苦手である。
「そうか、全然気づかなかったよ、よろしく。」正直に言うと、女子生徒は面白そうに笑った。
しばらくすると、どうやら全員が並んだようだった。駒沢が行くよ。と号令を出して、先頭を歩き始める。廊下を抜け、購買であろう小さなお店の様なつくりの部屋の前を通り、階段を降りて、中庭に出ると、目の前に体育館が見えた。しかし、本当に綺麗な学校である。存在するすべてのものが小綺麗に整えられているように感じた。上履きは持ったまま入れと体育館の入り口に居る先生が大きな声で言う。俺は揃えて靴を脱ぎ、上履きの裏側を合わせて鷲掴みにした。
内部は、ありきたりな体育館そのもの、といったイメージではあったが、俺が卒業した中学校とは比べものにならない程使い勝手がよさそうだった。
もしかして、卓球場ではなく、この体育館で練習をするのかもしれない。すぐにでもこの施設の中を調べて回りたかったが、まず椅子に座っている生徒たち、次に俺に早く先に進めと目で訴える生徒たちが邪魔でゆっくり見られそうではなかった。なんだこいつらは、俺が一通り見学し終わるまで全員外に出ていてほしい。そう思っていると肩を叩かれた。振り向くと
「ちょっと、立ち止まらないで。」と俺の後ろに並んでいたやつが言う。気づくと後ろには長蛇の列ができていた。俺は慌てて前の列に向かって早歩きを始めた。
列はやがて横向きに折れて、奥の人間から用意されていたパイプ椅子に順番に座っていった。俺も席に着いて、全員が着席するのを待ち始めた。
どうやら自分たちが最後のクラスだったらしく、全員が座ったことを合図に
「それでは、秀樽高校の入学式を始めます。気をつけ、礼。」
周りの人間が条件反射で座りながらお辞儀をする。「気をつけ、礼。」という言葉に、日本人は呪いをかけられていると思った、もちろん俺は、卓球においても、人生においても礼儀を忘れない男なので、背を伸ばしてきちんと礼をする。
そのあとは、校長の話があったり、入学生の点呼を行ったり、校歌を歌う合唱団が登場したりと、順調に式が進んでいく。俺はというと、部活動がいつ始まるのかが気になって、禿げた校長の話も、下手くそな生徒の歌も耳に入らなかった。
やがて合唱団が歌い終わると、まばらに拍手が湧いた。俺には歌の良さはわからなかったが、ここは日本を代表する卓球の強豪校。どこかの大会で歌うこともあるかもしれない、いずれ俺も覚えることになるのだろう。
そして合唱団がステージから綺麗な列を作って自分たちの席へ移動して、揃って着席する。すると、入学式の進行をしている教頭が口を開く。
「次に、部活動紹介。生徒はステージに注目して下さい。」そう言うと、教頭は体育館のステージの脇に移動する。体育館内の照明がすべて消え、再び明るくなると、秀樽高校の女学生と思われる集団がステージに、顔を伏せて立っていた。
するとなにやらポップな音楽が流れ始める。ダンス部の発表という事だろう。突然女学生達は顔を上げると、リズムに合わせてダンスを踊り始めた。新入生達が自然と手拍子を始める。
部活動紹介をするなら、タイムスケジュール表みたいなものを配ってくれ。卓球部がいつ始まるのかが気になってしまって、自分の体がそわそわしているのが自覚できる。
曲が終わると、ダンス部はステージの裏に戻っていく。これの次だろうか。まだ出てこないのか。拍手が湧き上がる場内で、俺の心だけが浮足立ってしまっているようだった。もしかしたら俺と似た志を持って部活に入る人間もいるかもしれないが、俺ほど入る部活の登場が気になっている人間はいないに違いなかった。
どうやら文化部と運動部でわけて発表するようで、次は軽音楽部が演奏を始める。また新入生が手拍子を始めるが、俺はすっかり挙動不審になってしまっていて、彼らの演奏は全く耳に入ってこなかった。
一秒が一分に感じられる。しかし俺は昔から我慢強いのが取り柄だ。これは勝負である。卓球部の紹介が始まるまでの時間との、避けられぬ戦いなのだ。
次々と文化部が紹介をしていく。時間は相変わらず遅歩きだが、俺は勝負に負けるわけにはいかない。耐えてみせる。
それにしても、この高校の部活動の数の多さに、少し驚く。これでは高校から新しいことを始めようとしている人間がいたら、選ぶのにまず一苦労するだろう。俺のような最初から「この部活に入る」と決めている人間はともかく、部活動に入ることを決めていても、まだ入る部活が決まっていない人は、この部活動紹介で、行きたい部活の大まかな狙いを定めるのではないだろうか。
紹介は運動部に差し掛かっていた。先程の嘘八百教師、駒沢が顧問をやっているテニス部や、ハンドボール部、女子部員のみの部活である、ラクロス部まで、実に様々なクラブがあった。しかし、卓球部の発表は、なかなかやってこない。俺の膝は小刻みに震え、指で膝をトントンし始めた。そして俺の我慢が限界を迎える寸前、その時はやってきた。
「最後に、卓球部の紹介です。」と教頭が口を開いた瞬間、卓球のユニフォームに身を包んだ戦士達が、体育館の入り口から現れ、手際よく卓球台をステージに設置した。
俺は思わず立ち上がりそうになったが、ここはぐっとこらえて、全神経を集中させて目を見開いた。これが秀樽高校卓球部と、俺の初めての邂逅だった。
ラケットを持った人間が二人卓球台に付き、かこんかこん。とラリーを始める。その前に、坊主頭の大柄な生徒が一人立って、何かを喋り始めた。
「こんにちは。秀樽高校卓球部です。我が高校の卓球部は、五年連続全国大会出場。そして全国大会優勝を目標として、日々練習に励んでいます。」大柄な男は、ここで少し言葉を切って、台の脇に移動する。そこから先は、まるでスローモーションで再生されるような光景が目の前に広がった。
台で打っている片方の生徒が、球を高く上げて返球する、ロビングを始める。高く上げられた球は、大きく弧を描いて、向こうのコートに着地して、バウンドした。
そして跳ねた球を、一呼吸置いてもう片方の生徒がラケットに擦り付けて、思い切り打ち返す。凄い勢いでボールは相手のコートのミドルの辺りに向かって疾走する。俺は瞬きすらせずに、食い入るようにボールを見つめていた。こんな強くて速い球を打たれたら、相手はボールを捉えられないのではないかと思ったが、スマッシュを打たれた相手は、いとも簡単に球をラケットに当て、そしてまたロビングで返球をした。
場内から、小さなどよめきが上がる。坊主頭の生徒は、それを見るとまた口を開いた。
「卓球部は、経験者、未経験者問わず、歓迎します。活動は、二階の多目的ホールで行っています。この春から卓球を始めようという方も、中学に引き続き卓球をやりたいという方も、まずは体験入部に来て下さい。私達と共に、全国大会を目指しましょう。」
そう言って言葉を締めくくると、スマッシュとロビングの応酬を繰り広げていた二人はラリーを止め、新入生側を向いて、頭を下げた。
「以上で、卓球部の紹介を終わります。ありがとうございました。」坊主頭の生徒は最後にそう締めくくると、台の片付けを手早く行い、鮮やかに体育館を出た。
俺は、感動で、思わず「ブラボー!」と叫んで、立ち上がって拍手をしてしまいそうになった。凄い。俺は一生懸命勉強をしてこの高校に入って、心から良かったと思った。この高校で練習を積めば、俺は確実に上手くなれる。今の坊主頭の台詞を、一字一句逃さずにメモをしておきたい。しかし俺は今日、卓球ノートを持ってきていない。俺はここでも、畜生。と真剣に悔しがるのだった。
入学式を終えた新入生達は、それぞれ列を作って教室に戻ることになった。俺は体験入部がいつなのか気になって仕方がなかったが、ひとまず教室に戻れば、担任が連絡してくれるに違いない。と思って、はやる気持ちを抑えた。
教室に戻ると、まず担任の駒沢が自己紹介を一人ずつ。入りたい部活と、何か一言を話そうと言い出した。正直俺は馴れ合う気など毛頭ないが、このクラスに卓球部に入ろうと思っている奴が何人いるのかも気になることだし、仕方ない。付き合ってやるかと、話を聞くために姿勢を正した。一番から順に、自己紹介を進めていくことになった。一番の女子が前に出て、照れくさそうに自己紹介を始める。こいつは腕が細すぎる。もし卓球をするならまずは筋トレからだな。などと思いながら、自己紹介を聞いていく。
一番の女子が自己紹介を終えると、今度は二番の男が前に出た。メガネをかけた、冴えないやつだ。
「稲葉中学校から来ました。アユカワユウです。卓球部に入ろうと思っています。一年間、よろしくお願いします。」と、小さな声で言った。アユカワ。なんだかどこかで見た気がする。こんな軟弱野郎も卓球部に入りたいのか、いや、人を見かけで判断してはいけない。もしかしたら、とんでもなく強いやつなのかもしれない。いずれ俺のライバルになるかもしれないアユカワという男に、俺は熱い視線を送った。
そのあとも、次々と8組の生徒達は挨拶をしていく。しかし、俺の番が回ってくるまで、あのアユカワとかいう奴以外に、卓球部に入ろうとしているやつはいないようだった。
「じゃあ次、貼川君。」駒沢はそう言って、俺を見た。ここで高らかに俺のこれからの輝かしい未来を演説してもいいが、クラスの人間もそろそろ自己紹介に飽きてきた頃だろう。簡潔にまとめて話そう。そう思って立ち上がって、前に出る。
「どうも、鶴陵中学校から来ました。貼川駿太郎です。卓球部に入ります。目標は全国制覇で、好きな食べ物はおにぎりです。よろしくお願いします。」
我ながら完璧な自己紹介だ。と鼻を鳴らすと、自分の席に戻る。その後、俺の後ろの番号の人間も挨拶をし終わると、駒沢が口を開く。
「オーケー。同じ部活に入りたいと思っている人がいたり、趣味が合いそうな人がいたら、話しかけてみてもいいかもね。」
そう言うと、連絡事項を黒板に書きながら、明日以降の持ち物や二日後に行われる学習調査テストのことについて話し始めた。ここで部活動の体験入部についてや、入部手続きのことも話すのではないだろうか。
「それでは、体験入部について、基本的には今日から三日にわたって行います。入部をするのはその後になるよ。気になる部活を見に行って、気に入った部があったらぜひ入部してもらいたい。個人的には、僕が顧問をしているテニス部に入ってもらいたいところだけど。」そう言うと、クラスのみんなは面白そうに笑った。なんと、今日から体験入部ができるのか。俺は舞い上がってしまって、駒沢の話がもう耳に入ってこなかった。体験入部1日目から、一体どんな厳しい練習が待っているのだろうか。しかし、いくら厳しいメニューでも、強くなるためなら確実にこなしてみせる。俺は固く胸に誓った。
心の中で宣誓している間に、ホームルームは終わってしまっているようだった。生徒たちはそれぞれ、さっさと帰る準備をしたり、なにか携帯を取り出して連絡先を交換したりしているようだった。しまった。早く卓球場に行かなくては。坊主頭の先輩が言っていた「二階の多目的ホール」へ、重いスポーツバッグを背負って、歩き出した。
しかし、広い校舎である。二階の多目的ホールといっても、そもそも二階が広すぎて、どこにあるのか見当もつかない。困ったぞ。闇雲に歩いていたら、迷子になってしまうだろう。俺は、近くを通りかかった先生に、道を聞くことにした。
「すいません!」声を張り上げて、先生を呼び止める。
「なんだい?」呼び止めた先生は覇気がない口調で返事をした。なんだこいつは。人が困っているというのに、全く気を削ぐ奴である。
「多目的ホールはどこにありますか?」が、そこは礼儀正しい俺である。嫌な顔一つ見せず、きっちり折り目正しく質問する。
「おお、卓球部志望かね。私も丁度行こうと思っていたところだ。ついてくるといい。」そう言って、覇気のない先生は歩き始める。以外と早歩きだ。俺は軽く小走りになりながら、先生についていった。
昔、よく卓球場に足を運んでいた。小学校から帰ってきたらまっすぐ練習をしに行って、日が暮れるまでそこで過ごした。小学生での思い出なんて、卓球でほぼ埋まってしまうほどだ。
そこの卓球場は「おんじ」と呼ばれる老人が管理をしていた。いつもタバコをふかしながら、片手にラケットを握って、笑った目を練習する子供達に向けていた。おんじは、簡単に説明すると「根性」だとか「気合」とかいう言葉が好きな熱血系の指導者だった。
試合で負けて泣いている卓球場の生徒に、よく「気合で乗り切れ」と、昔からよくある根性論を聞かせていた。
今思えば、おんじは卓球を教えるというよりは、「生き方」の指導をしていたのかもしれない。不器用ながらに身振り手振りで説明する老人を思い出すと、胸が痛くなるのを感じる。
昔に戻りたくなってしまうからかもしれない。
※※
僕は、臆病者だ。なんといっても、気が弱い。大好きな卓球でさえ、いつも気弱なプレーしかできず、大会で、いい成績を残すことなど、一回もできなかった。
臆病は、自分の自信のなさから出てくるものだと思う。そして、臆病な自分がいる。という事実が、僕の心にしみを作る。そのしみは、小さい頃おねしょをして、しみが出来てしまった布団を、庭に干されて、恥ずかしい思いをした時のような、そんな微妙な気持ちと、よく似ていた。要するに「気弱な自分」が、恥ずかしいのだ。
そんな自分を変えたくて、僕はこの県立秀樽高校に入学した。部活、行事、恋愛。いろんなものが盛んなこの高校に入れば、僕もきっと、変われると思ったのだ。
部活は、卓球部に入ると決めていた。自分の唯一の趣味で、大好きな卓球は、こんな臆病な自分にもラケットを握らせてくれる。だから、強豪と言われているこの高校の卓球部に入れば、もしかしたら、気弱な自分にも少しは根性がつくのではないか。と、思っていたのだ。
いつも僕は、思うだけで、何も実現することができなかった。だけど今回は違う。今度こそ、僕は変わってみせる。そんな意気込みで、クラスのホームルームを終えた僕は、体験入部で卓球部に行くために、教室から出た。
二階の多目的ホールで、卓球部は活動しているらしい。しかし、校内が広すぎる。地図を渡してくれたらよかったのに。などと思いながら、辺りをキョロキョロする。
すると突然「すいません!」と、大きな声で何か言っているのが聞こえる。声のした方を見ると、さっき、クラスのホームルームで印象的だったハリカワ君が、重そうなスポーツバッグを抱えながら、先生と話している。そういえば、彼も卓球部に入りたいと言っていたっけ。では、彼についていけば、多目的ホールに辿り着けるはずだ。歩き始めた二人を追って、僕は忍者のように気配を消して追跡を始めた。
二分ほど歩くと、キュッキュッと、耳に慣れた音が聞こえてくる。さらに歩くと、かこんかこんとボールを打つ音が聞こえる。僕の大好きな卓球の、大好きな音達だ。
そして、狭い視界の廊下から出ると、視界が開けて、眩しい光景が広がる。まず目に入るのは、大量に設置された卓球台。こんなにたくさんあって、人が逆に足らないのではないか、と思うほどだった。次に目を奪うのは、一人一人の部員の、卓球のうまさだった。全員フォアハンドでラリーを行っていたが、誰一人、ミスをしていない。うまい人間は、打つフォームから既に、強いオーラを発散する。その場にいる人間全ての動きが、洗練されているようだった。
目の前の光景に圧倒されていると、坊主頭の人間が一人、こちらへ走ってくる。周りを見渡すと、多目的ホールの入り口に、たくさん人がたまっている。体験入部の希望者だろうか。坊主頭の人は、ホールの入り口までくると
「体験入部希望者は、こちらへ。」と言って、ホールの脇まで、入り口にいた希望者達を連れてきた。
「こんにちは。私は部長の末永です。今回は、体験入部に来てくださって、ありがとうございます。」並んだ生徒達に、末永先輩はそう挨拶した。
「今日は、ここで練習をしている部員と、少し打ってもらおうと思います。奥の台を使ってください。ああ、着替えは、男女それぞれ向こうにロッカールームがありますので、そこの空いている場所を使ってください。」そう言って、ホールの脇の扉を指差した。体験入部希望者達は、各々ロッカールームへ向かう。ロッカールームまであるのか。少し驚きながら、自分の荷物を持って、こそこそと歩き出す。
練習着に着替え終わると、僕はラケットを手に握りしめ、再び多目的ホールに足を踏み出した。すると、なんだかいきなり、ひしひしと緊張感が体を覆う。
さっき並んだ場所に戻ってくると、末永先輩は、新入生を一人一人台へ案内していた。ハリカワ君も、既に案内されているようだった。
「君はここで打ってください。」先輩に案内された台につくと、僕はコキコキと関節を鳴らした。どれぐらい上手い人と打てるのだろう。そう思うと、わくわくしてくる。
やがて、新入生それぞれの台に先輩がつく。僕は「よろしくお願いします!」と言って、基礎打ちとして、フォアハンドのラリーを始めた。やはり、中学生が打つような、軽い球は一切飛んでこない。僕は、正直相手に合わせるので精一杯だった。
しばらく基礎打ちをしていると、大きな声で「お願いします!」と、声が聞こえる。なんだろう。と隣の台を見ると、ハリカワ君と打っていたであろう先輩が、困ったように首を振っていた。
「どうしても、この秀樽高校の先輩と試合がしてみたいんです!」そう言って、ハリカワ君は、また頭を下げた。
「でも、今日は基礎打ちと軽いオールだけだって言われてるしなあ。部長!」ハリカワ君と打っていた先輩は、困り顔で部長を呼ぶ。
「どうした宮島。なにか問題か?」末永先輩が駆けつけてきた。宮島と呼ばれた先輩は
「この子が、俺と試合したいって言っているんですよ。やっていいですか?」宮島先輩の口調から、明らかな余裕が伝わってくる。体験入部初日に、部に入ってくるかもしれない生徒の自信が折れるようなことをしていいのか?と、問いかけているようでもあった。
「……。仕方ない。やるからにはきっちり5セットマッチで、スリースターも使えよ。」末永先輩はそう言って自分の練習に戻っていった。
「わかりました。」宮島先輩は部長にそう返すと、試合球であるスリースターを取り出して「5セットマッチ。普通の試合と同じルールで、じゃあ、よろしくお願いします。」と言った。
「はい!ありがとうございます!」ハリカワ君は目を輝かせて、先にどちらがサーブをするかを決めるために、宮島先輩とジャンケンをした。
「おーい!続きやるぞ!」僕と一緒に打っていた先輩は、待ちくたびれたようにそう言った。僕は慌てて目の前のボールに集中する。
※
「やった!おんじに勝った!」俺は、大きな声で勝利を喜んだ。
「利き腕と逆でやって、だけどな。」おんじは、悔しいのが嬉しいのかわからないような微妙な表情をした。
「ともかく、勝ちは勝ちだもんねー!」俺はそう言うと、卓球場の床を膝滑りした。
「何やってんだ。」おんじは呆れた声を出す。
「サッカー選手は、得点決めると、こうやってやるんだぞ!」俺はもう一度、膝滑りをして見せた。
「やめとけ、ズボン汚れるぞ。」おんじはそう言いつつも笑顔になっていた。
なぜだろう、昔の記憶ばかり思い出される。おんじは、元気にしているだろうか。俺はその思い出を振り払うように頭を振った。
ついに、ついに俺の高校生活初めての試合だ。ここから「貼川劇場」の幕開けである。まずこの宮島先輩に勝って、そこからどんどん上へ行ってやる。この試合は、言うなれば前哨戦のようなものだ。ジャンケンに勝つと、宮島先輩は俺にスリースターを放る。かこん。一度ボールをバウンドさせ、手のひらにボールを載せてサーブの構えを取る。
卓球の試合は、5セットマッチの、3セット先取。11点先に取った方が、1セットをものにできる。ルールは、2点ごとにサーブ交代。両者の合計得点が6の倍数の時、タオルを使えるといったものなど、細かいものをあげだしたらキリがない。
「よろしくお願いします。」そう言って、ボールを空中に上げた瞬間だった。
いままで味わったことのないような圧迫感が、俺を包み込む。それは、宮島先輩から発せられるものだった。まるで餌を見つけた猛獣のような、恐ろしい眼をしている。しかし、気力で負けるわけにはいかない。まずは早い上回転のサーブで不意を突く!
ここでの俺の判断は、正しいはずだった。試合の最初は、相手の出方を窺ったり、慎重に行こうとして、下回転で短い球を出すのが、試合のよくあるパターンなはずだ。だから、その逆をついた早い球を出せば、普通なら相手の意表をつける。
そう、相手が「普通」なら。
ここは全国大会常連の強豪校だということを、俺は忘れてしまっていた。
宮島先輩は、コートの白線ギリギリにバウンドした俺の鋭いサーブに臆することなく、フォアハンドドライブで反応した。しかも、かなり低く、回転量も中学生とは比べ物にならないほどのものだった。俺はバックハンドのブロック(スマッシュやドライブを止めるように返球する技)で応戦しようとするが、回転に負けて、オーバーしてしまう。ボールは俺の後ろのフェンスにぶつかって、シュルシュルと音を立てて、やがて止まった。
相手に思い切り合わせられた。まるで最初からこのサーブを出す。と見切られていたような先輩の動きに、俺は動揺する。しかし、まだまだ1点目、勝負が決まったわけではない。そう自分に言い聞かせると、またサーブをするために構える。今度は、短い下回転のサーブを出そう。ボールを高く上げると、さっきのサーブと同じフォームでネット際ギリギリの球を出す。先ほどと同じサーブを出すように見せかけて、全く違う回転の球を放つ。これも試合の上での常套手段だった。
しかし、宮島先輩は、体ごと台に近づき、今度はフリック(短い下回転に対して、角度を合わせて攻撃する技)を仕掛けてくる。しかも、かなり早い。俺はなんとかバックで合わせて返球する。
僅かな綻びも、逃さない。
宮島先輩の声が聞こえた気がした。俺のなんとか返した球には、若干の油断が含まれていた。それを見逃さず、宮島先輩は思い切りスマッシュを放つ。ギュン。俺の横を、プラスチックの球が剛速球で通り過ぎる。
これで2ー0。予想はしていたが、簡単には点は取らせてもらえないみたいだ。サーブは2ポイント交代。次のサーブは宮島先輩の番。俺は、声を張り上げてラケットを構える。
先輩は、ボールをかなり高く上げた。投げ上げサーブと呼ばれるものだ。ボールは高く上がるほど、ラケットに擦れた時の回転量と、スピードが上がる。下に切ってきた。下回転だ!そう思ってツッツキ(下回転をした回転で返す技)をする。恐ろしいほど切れている。半端なツッツキでは、ネットの餌食になっていただろう。相手のコートの深い位置にボールは着弾する。しかし、宮島先輩は、すべてを見切っているように回り込んでドライブを打ってくる。さっきと同じ展開で、点を取られるわけにはいかない。俺は、ものすごい速度で襲いかかってくる球を、ギリギリまで引きつけて、ドライブで狙い打った。今度はフォア側。相手の打てる球の選択肢を少なくしていってやる。と思った矢先だった。
宮島先輩は、姿勢を低くして、俺の渾身のドライブを、スマッシュで打ち抜いた。ボールは自分コートのミドルに向かってやってくる。ブロックも間に合わず、俺は打たれたボールを、呆然と見ていた。
俺は、自分の持っている全ての武器を、この試合で出していった。サーブ、レシーブ、ドライブ、スマッシュ、ロビング、フリック、チキータ・・・。持てるものは、すべて出した。
だけど、宮島先輩は、俺の全ての球種を大きく上回る圧倒的な実力をもって、俺をねじ伏せた。
くそ……。
俺がいくら攻めても、全て守られてしまった。
くそ……。
俺がいくら粘っても、全て打ち抜かれてしまった。
くそ!
俺が段々冷静ではなくなっていくのを、まるで嘲るように、宮島先輩は淡々と試合を進めていく。そして
「ありがとうございました。」
試合は、あまりにもあっけなく、終わってしまった。結果は、セット数3ー0。俺が取った点数は、合計3点。それらの点は、俺が実力で取ったものではなく、全て宮島先輩の簡単なミスからくるものだった。
まるで歯が立たなかった。俺の、今までの努力はなんだったのだろう。そう思わせるほど、宮島先輩との試合の結果は絶望的なものだった。俺は決して弱くはなかったはずだ。だが、俺以上の実力の人間は、ごまんといる。それを痛感させられた。
敗北にうちひしがれていると、末永先輩が再びやってきた。
「そろそろ時間です。一年生の皆さんは、打つのをやめてください。」先輩らと打っていた一年生は、全員先輩に「ありがとうございました。」と言って、台を離れて、さっき集まった多目的ホールの脇に集合した。
「今日は、片付けは無しです。部の雰囲気を見て、入ってみたい。と思ってくれたら嬉しいです。では、各々着替えて解散してください。ありがとうございました。」そう言って頭を下げて末永先輩は練習に戻っていく。俺はというと、すっかり放心状態になってしまっていて、しばらく、練習をしている先輩たちを眺めて、ぼーっとしてしまっていた。
その時、背中を誰かがちょんちょんと叩いた。
※※
練習は、およそ40分程しかできなかったが、受験で中学からしばらくできていなかった分、とても楽しかった。
だけど、正直、自分の実力で、今後やっていけるかどうか不安になるくらい、先輩たちは上手かった。僕は、こんなところでも、臆病になってしまっていた。首を振ると、末永先輩に言われた通り、着替えるために、ロッカールームへ向かおうとして、バッグを取り出そうとした時だった。目に入ったのは、ハリカワ君の姿だった。ハリカワ君は、なんだか、魂が抜けたような、茫然自失としているような雰囲気だった。そういえば、さっきの試合の結果はどうなったのだろう。気になって、勇気を出して声をかけることにした。ちょんちょんと背中を叩いて、控えめに「ハリカワ君?」と尋ねる。
「ん……?」ハリカワ君は、やっぱり気が抜けたように、返事をする。
「同じクラスの、鮎川佑だよ。よかったら、一緒に帰らない?」僕にしては、上出来ではないだろうか。詰まることなく、流れるように言葉が出てきた。話し相手が、同じく高校でも卓球を続けるつもりの人間だったからかもしれない
「アユ……カワ?」ハリカワ君は、抜け殻のように返答をする。
「そう。鮎川。魚の鮎に、流れる川の川。君と同じクラスの2番だよ。」
「ああ、君か。」ハリカワ君は、淡白な返事をする。まるで、僕に興味がないようだった。ちょっと傷つくが、それでもへこたれずに、僕は彼に話しかけ続けた。
なんとか、彼の名前の漢字と、試合の結果を聞くことができた。貼川 駿太郎君。さっきの試合は、けちょんけちょんに負けたらしい。まあ、当然と言えば当然。貼川君の実力はわからないものの、あそこにいた先輩たちは、全員かなりの手練れだった。その先輩たちに普通の中学生が敵うとは、到底思えなかったのだ。
僕と貼川君は、一緒にロッカールームで着替えて、一緒に学校を出た。彼はかなり落ち込んでいるようで、僕は話題を出すのにかなり苦労した。中学のこと、この高校に入った理由、今日の部活のこと。貼川君は、全部答えることこそしてはくれたが、それ以上の言葉は出してはくれなかった。
駅に着いて、意外と家が近い事が、話していてわかった。彼が通っていたのは鶴陵中学校。そういえば、聞いた事がある名前だ。
電車の中でも、彼は無口だった。僕は、なんだか気まずくて、電車内の広告を読んだり、携帯をいじったりして電車が最寄り駅につくのを待った。
やがて、車掌の声が、僕と貼川君の最寄駅の名前を告げる。僕は貼川君に「着いたよ!」と声をかけ、二人で電車を降りた。そして、途中まで一緒の道を通って、商店街の先の分かれ道で別れる前に連絡先を聞いて、ガラケーだという彼のメールアドレスを教えてもらった。そして「じゃあ、また明日。」そう声をかけて、僕は自分の帰路についた。振り返ると、貼川君は不器用な足取りで、よろよろと歩いていった。あれでちゃんと家に帰れるのだろうか。と少し心配になる。
およそ一ヶ月前のこの時間帯は少し肌寒いくらいだったが、今は春。夕方になっても、随分暖かい。風が吹いて、練習後の軽く汗をかいたワイシャツを撫でるのが心地良い。僕は、これから始まる学校生活に希望を膨らませ、春の暖かい陽気と気分が合わさって、思わずスキップしそうになった。
家に着くと、靴を脱いで玄関に上がる。「ただいま。」と、台所でフライパンを熱している母に言う。母さんも「おかえり!どうだった?」と元気に返してくる。僕は荷物を降ろしながら
「素敵な毎日の予感。」と言った。
「なにそれ。」と母は笑うと、手洗いうがいしてきなさい。と僕に言う。僕は、洗面所に向かうと、手を洗って、うがいをした。汗もかいたし、ついでに風呂にも入ってしまおう と、軽く汗ばんだワイシャツを脱いで、シャワーを浴びる。
汗を流し終えると、ジャージを着てリビングに戻る。ご飯ができている頃合いだ。母さんが「今日は回鍋肉だよ。」と言いながらリビングに料理を並べていた。
僕は箸を持って、いただきます。と言って料理を口に運ぶ。そして、今日学校であったことを、母さんに話し始めた。
「そうそう、今日は体験入部があったんだ。」僕は母さんにそう言いながら、回鍋肉を口に運ぶ。うん、美味い。
「へえ、卓球部?」
「うん。先輩たちみんな上手くて驚いた。」それと、友達もできたんだ。と続けて言う。僕の頭の中には、貼川君の浮かない顔が浮かんでいた。
「そうなの、あんたの割には頑張ったね。」なぜか母さんは、上から目線で言う。僕はその言葉に笑うと、ご飯を一気に平らげた。
僕の家は、母さんと僕の二人暮らしだ。父さんは、単身赴任で熊本県に行っている。僕が中二の時に行ったから、もう三年目になる。最初こそ寂しかったが、今は母さんとの二人暮らしにも慣れて、楽しく毎日を過ごしている。今の高校生や中学生は、親とあまりしゃべらない人が多いらしい。僕の友達も、親がうざったくて、早くひとり暮らしをしたい。と愚痴る人がいる。
だけど、僕は、父さんも、母さんも大好きだ。今の時代、僕の家ほど家族の会話が絶えない家はないんじゃないかと思うくらい、仲良く過ごせている。だから、僕は幸せ者だ。家族に囲まれて、普通の高校に行けて、おいしいご飯が食べられる。そういう普通の生活が、幸せだとかみしめることができる。それも含めて、僕は幸せなんだと思った。
今日は疲れたし、早めに寝てしまおう。そう思って、自分の部屋に向かう。明日からは、通常授業が始まる。明後日は、学習調査テストがあったはずだ。一日一日、楽しく過ごそう。高校生活は、あっという間だとよく言われるしなあ。そう思いながら、布団に入って、眠りについた。
※
人生最悪の目覚めは、突然やってきた。目覚まし時計は、けたたましい音を立てて、朝を告げる。俺は時計の頭を思い切り叩くと、寝ていた布団から起き上がって、不機嫌に頭をガシガシやった。
あの後、鮎川と別れた後、家に帰って倒れるように布団に潜り込んだところまでは覚えている。人生最大の敗北から、およそ15時間が経過。気分は依然最悪なままだった。
なにが悪かったのか、今までの練習メニューが悪かったのか、全くわからない。もう、ラケットを見たくない。なぜ俺は負けたのだ。そんな疑問が、ずっと頭の中をぐるぐるしていた。悔しいとか、それ以前に、もう無気力になってしまって、今までの努力が全て俺をあざけって笑っているイメージだった。
とりあえず、学校には行かなくては。そのあと、体験入部に行けるかは、もう自信がなかった。俺はそそくさと朝食を食べると、制服に着替え始める。髪のセットとか、そういうのはもうどうでもいい。色んなものが、急に色をなくして、白黒の世界になってしまったようだった。
俺は、期待しすぎていたのかもしれない。自分の実力、いや、自分のすべてを。なぜ、こんなゴミみたいなものに、期待などしてしまっていたのだろう。本当に恥ずかしくて仕方がない。仕上げに、バッグに入っていたラケットやシューズを部屋の隅に押し込むと、俺は外に飛び出た。
道行く散歩をしている爺さんも、そこら辺を歩いている猫も、はたまた道端の石さえも俺を笑っている気がする。そして何もかもが怖くなって、俺は全速力で走り始めた。しかし、駅に近づいていくにつれて、人や物は増えていく。思い込みとは恐ろしいもので、俺はすっかり怯えてしまっていた。そして逃げるように家に帰ると、自室の布団の中に潜り込んでしまった。
「負けたくらいで泣いてんじゃねえよ。」おんじは、いつかの試合で負けた俺に、そう言った。
「でも、でも!」俺は涙をユニフォームで拭うと、まだぐじぐじやっている。おんじは、そんな俺の頭をポンポンと叩くと、ポッケから飴を取り出して、俺に差し出した。
「ほら、これやるから元気出せ。」しかし、俺はそれを見て、ますます臍を曲げる。
「オレ、そんなので喜ぶほどタンジュンじゃねえから!」
「何言ってんだ。お前は単純だよ。」そう言うと、俺はさらにキーキー言い出したので、おんじは
「わかったわかった。ジュース買ってやるから。」と言った。
「えっ。ほんと?」俺はその一言で、元気を取り戻す。
「お前なあ……。」おんじは困ったように頭を掻いた。
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