03. 金糸

 アゼルはよく働く。家から一歩も出ない日もある、というエレニアには考えられない生活を送りながらも、決して暇なひと時というものを持たないのが常であった。炊事、洗濯、冬籠りに向けた支度――そのどれもが大切な仕事であり、十全にこなすことが妻としてのアゼルが果たすべき役目ではあったけれど、それにしても些か気を入れすぎているのではないかと、エレニアは不安になってしまうほどだ。そう零せば、漁に出る仲間たちは口を揃えてこう笑うのだ。「エレニアよ、それは贅沢な悩みってもんだ」と。良い妻を持って幸せ者だと、その言葉についてはその通りだと思う。全てが予言によって定められた婚姻であるがゆえ、エレニアも、そしてアゼルにも、相手を選ぶという自由は認められていなかった。どんな相手が来ても、と悲壮な決意をしていなかったとは、言うことができなかった。だからこそ、この善き巡りあわせに感謝をとエレニアは星に祈るのだ。

 「……でも」

 それにしたって、やっぱりアゼルは働きすぎているような気がしてならなかった。エレニアの母は、家事の合間に陽の光を浴びながら昼寝をすることを日課にしていた記憶がある。それでも滞りなく、エレニアと家族は暮らしていたはずだ。ましてや、兄妹のいたエレニアの実家とは違いこの新婚夫婦は二人きりで暮らしている。なれば、やはり、アゼルにそこまでの負担を強いる余地などないはずだった。自分エレニアが未熟な夫だからと最初の内は気を揉んでいたエレニアも、どうやらそればかりが理由ではないらしいと感づいた。



 つまるところ、アゼルは不安なのだった。

 年増、と言い切るには少し早いきらいもあるが、アゼルとて決して若いわけではない。砂の民は元来、十と二の歳には婚儀を終えていてもおかしくないほど、所帯を持つのが早い一族だ。予言のためにと特別に遇されていたアゼルのことを、表立って悪し様に罵るような者はいなかったに違いないけれど、本人が少なからず気にしていたことは想像に難くない。ましてや、エレニアは未だ成人もしていない幼い少女だ。年齢を理由に離縁を言い渡すわけにはいかない関係であるということは、アゼルの心を慰めはしないのだった。本当に自分でいいのだろうか。満足してくれて、いるのだろうか。アゼルとて分かっていた。そんなことを考えても詮無いことで、やがて時間が解決してくれるはずの焦りなのだということは。それでも、考えることを止めることが出来ずにいるアゼルは、せめて手を動かし続けることで気持ちを紛らわせていたのだった。

 その日も、よく晴れた日だった。熱砂が強く照り返しひとの目を焼く故郷とは違い、薄く茂った草に露は輝き、柔らかく穏やかに陽光が降り注いでいた。ぴっちりと窓を覆いたがるアゼルにエレニアが根気よく言い聞かせ、二人の家では日中はごく僅か、光を取り入れるために重たい布地を端に寄せるようになっていた。神経質に磨かれた食器が煌めき、空中の塵が光の道を形作る。温かく静かな、それこそ誰だって眠ってしまいそうな、素晴らしく平和な一日で――珍しいことにアゼルもその例に漏れず、長い睫毛を下ろして昼から寝息を立てていた。前日の夜までかけて趣味であるところの刺繍で大作を仕上げており、寝不足であったことも災いしたのだろう。彼らしくもなく、掃除の途中でありながら気持ちよく惰眠を貪ってしまった。まさかエレニアが戻ってくるなどと思ってもみなかったアゼルは、この日を境に一切の夜更かしを自らに禁じ、昼寝という言葉をひどく嫌うようになる。


 そう、エレニアは果たして、帰宅したのであった。


 「ただいま戻り、……あれ寝てる?」

 初夜に閨を別にすると決めた以上、エレニアは一度として妻の寝顔を見る機会がなかった。無論、頑なに装束を着込み続けるアゼルだから、寝顔と言っても目元くらいしか見えるところはないが、珍しいものを見てしまったとエレニアの心は弾んでしまう。今日はいつもより早く魚を獲り終えることに成功し、師と仰ぐ隣人の夫にも腕を上げたと褒めてもらえた。天気もいいし、なんていい日なのだろう。

 「夫として、成長したかもっ」

 寝床の外で眠ってくれたということは、それだけ油断をしてくれたということで。それだけ、エレニアとの生活に馴染んでくれたということ。エレニアより幾つも年上の妻が、子供と呼ぶよりほかない夫に不安を抱かないはずがないと、エレニアはそう思っていた。まさか歳の差を逆の意味合いでもって悩んでいるなど、思ってもいなかった。「妻は年増がいい」というのが水の民の共通した意見であって、つまり、エレニアにとってアゼルはまさしく理想の妻であったのだが、アゼルはそのことを知らなかった。「娶るなら年下に限る」「若ければ若いほどいい」のが当然と育ったアゼルの気持ちなどついぞ知らず、破顔したエレニアは静かに室内を歩き回った。見慣れた景色が、眠っているアゼルの存在ひとつで違うもののように思えて不思議だった。いつもアゼルに任せきりにしてしまっているし、ここは久しぶりに自分も掃除なんてしてみようかな、そう思ったエレニアの目にふと留まるものがあった。細く開いた窓の隙間、零れ落ちる光を反射して煌めく、それは一本の細い細い金糸であった。

 糸、というものも布地同様この土地ではとても高価なものだ。ましてや金色に光るなど、どれほどの価値があるものか。見たこともない、どころか存在すら想像できなかったほどの、掛け値なしに宝物としか思えない、それは美しいものだった。花嫁の道具としてアゼルが布地や糸を大量に持参していることは知っていたエレニアだったけれど、こんなすごいものを持ってきているとは思ってもみなかった。エレニアも予言の子として慈しまれ、何の不自由もなく、貧富の差があまりない水の民にあってもそうとわかるほどに裕福な暮らしをさせてもらっていたと自負しているが――それにしても、金の糸とは。

 「アゼル、お姫様か何かだったんですか?」

 眠っているアゼルと掌中の糸を見比べながら、そっと囁いた。お姫様、というものをエレニアはよく知らないが、身分に厳密な区別がある砂の民にはそう呼ばれる大金持ちがいるのだとばば様は言っていた。であれば、アゼルはきっとそうだったに違いない。

 「んー…………?」

 「あ」

 「あ? え、」

 ひとの気配にようやく意識を浮上させたアゼルは、信じられないものを見た人間の顔をしていた。自分はもしかして、夢の続きを見ているのではないか? 祈りのような願いだったが、エレニアは駄目押しのように微笑みながらこう言った。

 「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」

 悲鳴のような呼吸と共に、アゼルは瞬間飛び起きた。自分が寝ていた、という事実を信じたくなかったし、何より、それをよりによってエレニアに見られたことに打ちのめされた。そして――――

 「そうだ、こんなものを拾ったんですけど」

 見せられた輝きに、言葉を失った。なんで、お前が、持っている? なんとか口は開いたが上手く声が出てはくれず、再び口を閉じる。このままでは、今度こそ本当に悲鳴を上げてしまいかねなかった。

 「…………」

 「アゼルの持ってきたものですよね?」

 エレニアは与り知らぬところであったけれど、それはアゼルの持ち物に間違いはないが、持ち物というにはあまりにも身近なもので。だったのである。どうして、せめて、眠る前に掃除を完璧に終えておかなかったのかとアゼルは自分を罵った。有り得ない、と小さく呟くと、情けなくて、恥ずかしくて、アゼルは涙が出てきたのを感じた。せめて悟られまいと俯いたアゼルに気付いてか、あるいは気付かずにか、エレニアは常と変わらぬ明朗さで声を掛けた。

 「すごく、すっごく綺麗で見惚れちゃいました! こんなすごいものを持ってるなんて、アゼルはきっとお姫様なんだ、って」

 「何、言ってるんだ……」

 未だ失態から立ち直れないアゼルは、語尾を揺らしながらのろのろと言い返す。僅か残った矜持で、冷静な自分と振る舞おうとして、

 「だって、これ、宝物じゃないんですか?」

 エレニアの何気ない一言に、死んでしまうかと思った。涙なんて、引っ込んでしまった。

 「それは」

 それは、お前はこれを宝物だと思ったと、そう思っていいのか。返答がどうあれ悶死してしまうと分かっているからこそ絶対に言えない問いだったけれど、アゼルはその答えを知っているような気がした。それこそ恥ずかしいと思ってよさそうなものであった。夫から愛されている自信がなければ想定出来ないであろう答えを、しかしアゼルは貰えると思った。そこに疑念の差し挟まる余地はなかったし、それは真実でもあった。

 大切だが、些細なものだ。エレニアはそれがどういったものかも知らず、褒めただけ。アゼルが受けた衝撃など、エレニアには生涯分かるまい。いずれ忘れてしまうのだろうと、アゼルは知っていた。だから、自分の宝にしようとアゼルは決めた。年月を経ても忘れることのないように、日記を書くことを決めた。

 黙ってしまったアゼルを見て落ち着かなさげに身体を揺らしていたエレニアを見遣る。アゼルと目が合うと、表情が明るくなるのがすぐに分かった。気恥ずかしいけれど、それが嬉しい。

 「本当は、こんなこと俺から言うのはすごく、ものすごく嫌なんだが」

 恥を忍んで、アゼルは今度こそ言い切った。はしたないことをしているという自覚があった。貞淑な妻を自負する自分にここまでさせるとは、つくづく恐ろしい夫だとアゼルは苦笑してしまう。

 「それでものを作ったら……お前は、喜ぶか」

 「喜びます!」

 「そうか」

 じゃあ、と。アゼルは常になく優しい声で、エレニアと約束してくれたのだ。

 「お前のために、……何か、仕立ててやる」


 もう二度と居眠りをするような不覚は取りたくないからと、アゼルはその日から日中に針を取るようになった。元来、刺繍はアゼルの数少ない趣味のひとつでもあり、気晴らしにはもってこいだった。何より、針仕事をしているときのアゼルの表情は柔らかいもので、それはエレニアを安心させてくれた。やるからには最高のものをと凝り出したアゼルが、実際にエレニアへと見事な羽織りものを贈るのは三月みつきほど先のことになる。






 砂の民には、独自に発達した文化が数多くある。

 その多くは既に廃れて、古びてしまってはいるけれど――未だ古老たちによって伝承されていたし、幾つかは若者たちの間で掘り起こされ、密かに再流行の兆しを見ていた。その一つに、頭髪を用いたものもあった。かつて、恋人の間で自己の頭髪を糸の代わりに用いて縫物を仕上げて贈る風習があったのだという。男たちは姿を現さないものだとする文化は既に盤石のものになっていて、だから、こと男性から贈られるそれには熱烈な求愛、という意味合いがあった。……らしいと、伝わっている。伴侶となる相手にしか見せない自分の一部を晒すのだから、自然それは求婚の意味合いすら帯びていて。

 「もう、結婚はしてる、が――――せめて、俺の気持ちを」

 定められたそれだったからこそ、自分で選んだと胸を張れるように。

 「言うつもりはないけどな」


 


 二人の『初夜』まで、未だ日は遠い。

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