02. 客人

 砂の民と水の民。ひとの脚で往来するには些か骨の折れる距離とはいえ、隣接する地域に住む二つの部族。ゆえに、日々の糧もその調理法こそ違えど、同じものがいくつか散見された。そのひとつに、クグルカが挙げられる。水の少ない砂地でもよく成長し、一方で水気の多すぎる泥の中でも育ってくれる万能の種。火を通せばほっくりと焼き上がるそれは、主食として親しまれているものだ。ほぼ毎日のように食するものであるから、クグルカ料理のレパートリーで妻の格が決まるとさえ言われている。一般的に、水の民は潤沢な水を惜しげもなく使いクグルカを丸ごと蒸し上げたり、あるいは細かく刻んで煮込んだりしたものを口に運ぶ。保存のために対策を取る必要がないため香辛料などはあまり使わず、共に饗される魚から出る出汁で薄く味を付けるのが定番となる。水気が多いため、食事の際に使われるのは専ら匙であった。

 しかし。アゼルは砂の民である。同じクグルカ料理でも、水の民のそれとは大きな違いがあった。まず、砂の民は水を惜しむ。夫に合わせ水の部族、そのはずれに嫁してきたアゼルであったが、未だ食材を水で洗い流すという行為に抵抗すら覚えていた。皮を厚く剥けば、それでいい話ではないのか? アゼルには理解が及ばない。小振りのナイフで皮を切り落とし鍋に転がすと、故郷にあっては地熱で焼いていたクグルカを、火にかける。懐にしまい込んだ袋から取り出したのは、こちらでは珍しい香辛料だ。日の高い刻限を漁に出る夫――エレニアのためにと、身体を温める効果のあるものを選んだ。

 「腐ることは、ないんだろうけどな」

 誰もいない部屋の中でひとりごちる。鍋をかき混ぜる手は、多少の考え事ではびくともせず規則正しく滑らかに。仕上げとばかりに、前日から用意をしておいたソースを絡め、夕食の下準備を終えたアゼルの耳は、ひとの足音を聞き取った。太陽は照り付け、空は抜けるように青い。夫の帰るには早すぎる時間だろう。

 「…………誰だ?」

 よもや、予言の夫婦を害する者などあろうはずがないけれど。自然、声は固くなってしまう。身体の大半を布で覆われたアゼルの姿に慣れず、また少年でありながら妻として生活をしていることも手伝って、アゼルには未だ友人と呼べるような存在はいない。家には、アゼルとエレニア、二人だけが常であった。けれど、それなら、今ここにいるのは一体誰なのだろうか。

 「ええっと、その、……エレニアの、奥さん?」

 誰何の声に返ってきたのは、若い女性の声だ。

 「そうだが」

 「ちょっと、訊ねたいことがあって……、料理のことで」

 「!」

 料理のこと。訪問。若い女性。よくわからないが、それは、つまり。

 「……お客様だなっ!?」

 はしたないことだが、半ば走るように入口へと向かい、分厚い布地を性急に押しのけて、室内への道を開く。爛々と目を光らせたアゼルの眼前に立っていたのは、驚いた表情を浮かべた少女だった。




 「布を踏んづけるなんて……これ、本当に座っていいの?」

 「構わない。客人をもてなすためにあるものだから、むしろ座ってもらわなくては」

 上質な織物に腰が所在なさげにしているものの、美しい金属器に高価な茶まで出され手厚くもてなしを受けている突然の客人は、イスファと名乗った。聞けば、一応お隣さんにあたるのだという。これからも何か星の導きがあるかもしれないと甲斐甲斐しく動き回るアゼルとは裏腹に、何の前触れもなしに訪れた彼女は、追い返されることを覚悟で臨んでいたために肩透かしを食らっていた。滅多に外に出てこない、エレニアの妻。遠目からも、その姿が奇異なものであることはすぐにわかる。声を聞いたことのある人間もまだまだ少なく、分厚く巻かれた布の下にいるのは本当に男なのかと疑っている者までいる始末だ。そんなアゼルに声をかけようと思ったのには、イスファなりの理由があった。

 茶菓子の用意を整えたアゼルは、自身もたおやかに腰を下ろす。

「これはお客様が来た時にだけ出すものでな」

 毛足の長い織物の感触を楽しむように長い指先が束の間、床を這った。長い睫毛が触れ合う様は、音が鳴らないのが不思議に見えるようだ。動きのひとつひとつに、不思議な艶がある男だとイスファは思った。

 「それで、一体?」

 要件を問うアゼルの声は穏やかなもので、もしかしたら怖いひとではないのかもしれない、とイスファは少しだけ、身体の力を解いた。

 「お料理を、教えてほしくて。得意なんでしょう?」

 「不得手とは言わない。けれど、どうして俺に?」

 「エレニアが、『アゼルのごはんがとっても美味しい! 早く家に帰りたい!』って、めちゃくちゃに褒めちぎっていたものだから。ほら、味付けだってきっと違うんでしょう?」

 それに、とイスファは続ける。

 「このお菓子、あなたが作ったもの……よね? そうね? これすごく美味しいじゃない!」

 「それは、良かった」

 イスファの言葉に、嘘はないのだろう。先程から話を続けながら、茶菓子に伸びる手が止まる様子はない。故郷の味が受け入れられたという事実は、さながら自身が認められたようで、アゼルの心を温かく照らすものだった。

 「お願いします。私にできることなら、お礼になんでもするからっ」

 両手を大きく広げて、イスファはアゼルの目を見据えた。この両手で抱えられるものであればなんでも与える、という気持ちを表す動作だ。妻と夫、女と男の立場が砂の民ほど明確に分かたれていない水の民は、頭を垂れて何かを乞うことをしないのだという。視界を閉ざし、隷属を誓うことを良しとしないその姿を滑稽だと笑う砂の民もいたが、アゼルは水の民のこの作法を悪くない、と思っていた。

 「じゃあ、」

 お礼に、なんでも。できることなら、なんでもとイスファは言った。彼女のもたらせるもののうち、アゼルが一番ほしいもの。

 「じゃあ……絶対に、絶対に何があっても、言わないでもらいたいんだが」

 「ええ」

 そこまで念を押すなんて、一体どんなお願い事なのだろうとイスファは身構える。

 「……………………エレニアが、俺の料理を……褒めていたと」

 アゼルの手の中から、きゅう、と布の擦れ合う音が漏れる。尻すぼみに小さくなっていく声をかき消すように、その音は高く響いた。アゼルにとっては、余計にいたたまれない。けれど、どうしても聞きたいことがあった。恥を忍びに忍んで、アゼルは申し出た。

 「もっと、何かあれば。…………あればでいい! あれば、教えてもらえないだろうか」

 「……まあ、エレニアの奥さん、アゼルさん、あなた、とっても可愛いのね!」

 二度も身構えた自分が馬鹿みたい、とイスファは笑い、アゼルの両手を握りしめた。自分たちと何も変わらない、彼は立派な「妻」だった。もう、怖いとは思わない。

 (顔が見えないから、なんだっていうの)

 アゼルはもう、お友達だ。少なくとも、イスファにとっては。

 「いいわ、いくらでも教えてあげる! だから」

 「……ああ、料理なら、任せてくれ」

 アゼルはしっかりと頷いた。幸い、未だ日は高い。これなら夫たちの帰りには十分間に合うだろう。気が急いて、自宅の分は既に用意が整っている。イスファに料理を教えるにあたって、不都合は何もなかった。

 「それじゃあ、始めようか。まずは――――」





 「ただいまー! 今日も大きいの、獲れましたよアゼル!」

 「……、おかえり」

 星が白く空を抜き始める刻限に、エレニアは揚々と帰宅した。腰には大きな魚を吊り下げて、尻尾のように揺れている。身体の小さいエレニアは、大きな獲物を捕まえるにも時間がかかる。時間がかかれば水温は下がり、視界も悪くなってゆく。それを補うように、エレニアは朝の早くから漁に赴く。新婚の二人は、あまり長く時を共にすることが叶ってはいなかった。アゼルはそれを、少し寂しいと感じていた。けれど、それも今日限りだ。

 「わ、今日も美味しそう」

 「足を拭ってから!」

 「はーい」

 並んだ料理に浮かれ濡れた足で室内に入ろうとするエレニアを制止したアゼルは、手早く夕食を温める。布は貴重で高価なものだという感覚が抜けないエレニアはすぐ、自然の風に当たることで身体を乾かそうとする。水こそ希少だと感じてしまうアゼルにとってそれは許容しがたいことだ。何より、体調を崩さないかと不安に思ってしまう。

 「アゼル、今日は何かいいことがありました?」

 「ん…………」

 なんだか雰囲気が柔らかいです、と笑うエレニアをじっと見つめ、アゼルは口元を緩めた。見えずとも、エレニアにはきっと分かるだろう。

 「少しだけ。友人ができた」

 本当は、それだけではないのだけれど――思い出すだけで顔が熱を持ってしまうから。アゼルはそれだけ伝えると、温めた夕食を床に並べた。受け取った魚は明日に回すことに決める。

 「ほら、召し上がれ」

 「はい! 星の恵み、水の糧に感謝致します。日の守りのとこしえの続かんことを」

 「月の祝福に感謝致します。夜の守りが我らを包みますように」

 

――――いただきます。

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