雨、甘味と苦味

三角海域

 雨が降っていた。

 風は強くない。窓を叩くほどの強い雨でもない。軽いノイズのようなささやきじみた音がする。そんな雨だ。

 そんな雨が、今日は降っている。深夜二時半の静寂の中に静かに雨音を溶け込ませている。

 窓に頭をもたせ、目を閉じる。窓越しに雨の匂いを感じるように思える。

 少しずつ意識が雨音に溶け込んでいく。

 こんな雨の日は、昔を思いだす。

 あの日も、雨が降っていた。


 僕はよく本を読んでいた。心の隙間を埋めるように、毎日毎日ページを捲っていた。

 とにかく、何かをしたいという気持ちが強かった。若い頃特有の思い込みから湧いてくる感情だったのだろう。そんな強い感情を抱きながら、なにをすればいいのか分からなかったし、どうすれば何かができるのかというやり方も知らずにいた。僕は物語に入り込むことで、登場人物とリンクし、その欲求を満たしていた。それが僕の心の隙間を埋めてくれた。

 小学生のころも、中学生のころも、僕の思いではすべて本と共にあった。

 高校に入学してからも、最初の一年と最後の一年はすべて物語と結びついている。どんなクラスメイトがいたかとか、どんなことを学んだとか、そういうことは何も思い出せないけれど、どの本をどの時期に読んだかという事だけは鮮明に思い出せる。どの出版社から出ていた本かということさえも正確に記憶している。すべてを確かめたわけではないけれど、本屋で確認した限りでは記憶は正しかった。

 そんな僕の記憶が、本以外のものと結びついている時期がある。それが高校二年の一年間だ。

 濃密な時間なんてものは存在しないと思っていた。だけど、あの瞬間感じていた鼓動だとか、チョコレートのような甘ったるい時間はとても濃いものであったのは間違いない。

 出来事の始まりは、一月十八日のことだ。

 普段僕は図書室を利用しない。本は自分で買うか、休日に図書館で読むことにしている。だから、その日は特別だった。

 今すぐ読みたいけれど買うにはそこそこの値段の本があった。それはいわゆる学術的な本で、もしかすると図書室にあるんじゃないかと考えた。

 図書室にはほとんど人がいなかった。席に座っているものはみな机にノートを広げており、読書ではなく勉強をしていた。

 僕は目的の本を探し、図書室の奥へと向かった。哲学やらなんやらの分厚かったり難解な本は最も奥の棚にある。

 入口周辺から死角になったその場所はほとんど人がこないのだろう。埃のにおいが濃かった。

 そんな埃と薄暗さの中に、彼女はいた。

 床に座り、ぼんやりと薄目で本を読んでいる。ちゃんと読んでいるのかすら疑わしい。

 無視しようとしたが、しきれなかった。ばれないように横目で見ていたら、ばっちり目が合ってしまった。

「何?」

 か細い声だった。金属音のような冷たさがある。それでいて不思議とよく通る声でもあった。

「いや、別に」

「そう?」

「ええ」

「そう」

「はい」

「名前は?」

「は?」

「名前。あなたの」

「沢木です。沢木耕平」

「渡会美樹。あなたより一年先輩」

 そういって、渡会さんは自分のタイを指さした。

「沢木君、ここにはよく来るの?」

「いえ、今日はたまたまで」

「そう。私はだいたいここにいるから、もし暇な時があったらまた話しましょう」

 渡会さんは立ち上がり、本を棚に戻すと、一度にこりと微笑んで去った。

 単純なものだと思う。その次の日から、僕は毎日図書室に通うようになった。



「沢木君は本が好きなんだね」

 渡会さんと出会ってから四日目。渡会さんは口数が多くない。それでも不思議と会話は弾んだ。金属の反響のような不思議な声のトーンと、なにも考えていないだけなのか、思慮深さゆえの達観なのか分からない空気感。彼女は僕の話を聞きながら、時々質問したり相槌をうつだけなのに、気持ちのいい会話ができた。

「渡会さんも本が好きなんじゃないんですか?」

「私は文章が好きなだけ」

「同じじゃないんですか?」

「沢木君みたいに物語が好きなわけじゃないから。哲学とかそういうことにも興味がない。でも、文章は好き」

 渡会さんは先を続けなかった。ただ薄い笑みを浮かべた。

 背中に冷たいものが流れた気がした。それと同時に、鼓動の高まりも感じていた。渡会さんに惹かれているからこその鼓動だと思うし、深入りしすぎてはいけないということも感じ取っていたのかもしれない。それだけ彼女の微笑みは魅力的で、魅惑的で、蠱惑的だった。

 二月に入ってから、僕らは図書室以外でも会うようになった。

 土日に図書館以外の場所に出かけるのは久しぶりだった。

 渡会さんは思いがけず派手な格好で待ち合わせ場所にやってきた。意外だったといえばそうなのだけど、納得している自分もいた。

「お待たせ」

 そう言って、渡会さんは僕の手を握り、歩き出した。

 冷たい手だった。冬の寒さよりもより鋭い、痛いような冷たさのように感じられた。

 まず映画館に出かけ、その後に喫茶店でお茶をした。渡会さんは映画のことをよく知っていた。机に手を置き、じっと僕の目を見て渡会さんは映画のことを話し続けた。不思議な時間だった。語りがうまいというのもあるし、独特の声もそう働きかけたのかもしれない。渡会さんの話を聞き続けている内に、僕の意識はどんどん現実から乖離していくように感じた。

「沢木君」

 意識が現実に引き戻される。おしぼりに伸ばした僕の手を、渡会さんの手が包み込む。暖房が効いているはずなのに、やはりその手は冷たい。

「まだ時間ある?」

 僕はなんと答えたのだろう。今でもそれは思い出せない。

 分かっているのは、僕は渡会さんについていき、夢心地のまま大人になったということだけだ。行為自体もそこまで記憶にない。

 フラッシュバックのように渡会さんの身体を思い出すことはできるが、そこどまりだ。

 そんな夢心地のまま休日を終え、僕は学校へ向かった。もちろん、放課後には図書室へ向かった。でも、渡会さんはいなかった。

 次の日も、その次の日も、渡会さんは図書室に現れなかった。

 三年の教室に探しに行こうかと考えたこともあったが、勇気がなく、そのまま一週間を終えた。

 もう会うことはないと思っていた。

「こんにちは、沢木君」

 だから、そう声を掛けられた時、僕はそれが夢なんじゃないかと疑いすらした。彼女は僕が女々しく図書室に通い続けていることを知っていたのだろうと思う。彼女の笑みには、そんな悪戯心のようなものがにじみ出ていた。

「一緒に帰らない?」

 どうして急に図書室に来なくなったのかと訊こうと思った。だが、彼女の手が伸びると、僕は逆らうことができなくて、その手を握り、図書室を出た。

 その日は雨が降っていた。冬の雨はじめじめとした夏の雨とは違い、乾いている。ほぼ無風で、雨はまっすぐ地面に落ち、路面を湿らせる。埃っぽさが初めて渡会さんを見かけた図書室の最奥を思い出させた。

 僕らは無言で駅まで歩いた。改札をくぐり、ホームにおりる。このまま無言で終わるかと思った時だった。

「沢木君、これ」

 そう言って渡会さんが差し出したのは、きれいにラッピングされたチョコレートだった。

「今日はバレンタインデーだからね」

 なんてことないように渡会さんは言った。僕はチョコを受け取り、礼を言った。

 アナウンスが響き、電車が滑り込んでくる。

 渡会さんは動かない。電車が停車し、ドアがひらいても動こうとしない。さよならと渡会さんは言った。ここでさよならなのだろう。そう、ここで終わりなのだ。

 僕は電車に乗り込む。ドアが閉まり、目の前の渡会さんのすがたが歪む。

 そうして、電車は走り出した。冬の雨の中を、静かに。

 しだいに電車はスピードをあげる。僕らのつながりは、そうして途絶えた。



 目をあける。まだ雨は降り続いている。

 忘れられない過去の思い出。数か月しかない彼女との繋がり。

 ささやきじみた、軽いノイズのような雨音は、彼女の声を思い出させる。

 僕は半分だけ残っていた板チョコを冷蔵庫から取り出し、かじった。あの日もらったチョコは、甘いミルクチョコレートだったと記憶している。でも、家に帰り齧った時に感じたのは、苦味だった。

 口の中でとけていくチョコの甘みを感じながら、今あのチョコを食べたらどんな味に感じるのだろうかというのを考えつつ、僕は窓越しに雨をながめた。

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