第25話

  彼等の眼前、高い虚空にそよりと立つ、黒の「ニセモノ」。

 何処までも本物シンそのものでありながら、しかし本物とは明らかに違うことに、彼等はすぐに気付くことになる。

 対峙からの先手、取ったのはこちら側。

 初手を仕掛けるアラミツは、ナマートリュの係累のうち、飛行速度と得物の技巧に篤く能う「アレイエ」に属する。

 常なら涼やかな静穏をたたえる火酒色の瞳は、今は燦爛たる煉火となり、刃の切っ先の如く鋭い視線を偽シンへと向けている。

 対峙する真正面、見据えた一瞬から、閃光にも似た速度が一散に奔った。

 接敵するアラミツの手に握られた、白銀に光るじょう。身丈より長いそれを低めに構え、速度を乗せた動きで刺突を繰り出す。

 精度は、微細な針の穴に蜘蛛糸を通すより、なお正確。

 この動きに、相手も即応した。精妙に身をひねるの体さばき。突きを躱し、白銀杖を絡め落とすべくしなりの腕を伸ばす。

 反撃の気配、けれどそれも想定の内。

 間髪入れず、アラミツは突きを振りへと即座に切り替えた。白銀杖を偽シンの胴へと薙ぎ入れ、二の手を次ぐ。

 この動きに重なるように、太郎が動いた。偽シンの背面下方から挟撃する形で、瞬速に垂直蹴りを繰り出す。

 ナマートリュの異なる係累間に生まれるハイブリッド体、「ミシェンテス」。この面々の中では最も年若く、体躯も幾らか小柄であるものの、ミシェンテスである太郎の身体能力は、通常の単一係累に比べて極めて高い。

 後進たちの教官という立場にあって、常に掲げる「基本に忠実であれ」という信条そのまま、正確に狙い澄まして放たれる太郎の蹴りには、刺すような鋭さと、岩をも砕く重さが備わっていた。

 前方からの横軸と、下方からの縦軸。これを逃れようとするならば、は上方のみとなる。

 だが既に、このを塞ぐ場所に、ダンウィッチがいた。

 頑強を謳われるナマートリュの中でも、ことフィジカルにおいて最強といえる係累、「オクルス」。

 加えて、活動員の中でも特に過酷な「観察員」の肩書きを持つダンウィッチの剛堅さは、ひときわ群を抜いている。

 筋張り、力籠もる腕。体内から脈々とあふれ出る、きらぎらしいまでの白光エネルギー。振り上げる拳に、こごり研がれる白光の圧がみちみちと増す。

 動作は全てが短簡にして尖鋭、そして、極めて重厚。逃げの手など打たせないという意思が、そのまま抉り掴む拳となり、凄まじい威圧を以て打ち下ろされる。

 三つの打撃が向かう先は、ニセモノの黒、その一点。

 更に、それらの種々多段に繰り出される攻め手を駄目押しする、ひときわまばゆい光波熱線が重なる。

 くうを貫くように一閃したそれは、彼等の残るひとり、スートエースのもの。

 ナマートリュの持つ特殊な器官、生命鉱石。スートエースの属する「ルクセー」は、係累の中でも特に大きな生命鉱石を持って生まれる特性を持っている。レジェンドと呼ばれる彼等の中ですら、圧倒的な威力を誇るスートエースの光波熱線は、まさにその特性がためであった。

 一気に放出されるエネルギーの奔流は、ただ高出力なだけではない。研ぎ澄まされた青白の輝きには、刃のような鋭さ、狙撃のような正確さも備わっている。

 の全てが、全てにおいて強く、速く、正確に、ニセモノの黒というただひとつを狙って──

 ふ。

 集約の点の、その只中。ニセモノの黒が、不意に、細くあえかに、溜息をつくような仕種をした。

 己に向けて集束されるもの全てに対し、緩やかに力を抜くような、或いは、ともすれば抵抗を諦めて砕かれることを甘受するような、そんな仕種。

 だが直後。

 仕種の内側から、赤く黒い気配がにじむ。それはたちまちのうちにこごり、空の毀裂に覗く、あの無暁の冥闇と同じ禍しい波動を放った。

 ぶつかり合う、明と冥。巨大な爆発、振動。

 周囲に余すところなく響き渡り、空気のみならず地まで揺らすような暴威をはらむその衝撃と共に、偽シンへ向かっていたあらゆる攻撃が、全て撥ね返された。

 そう、。接敵状態にあったアラミツと太郎とダンウィッチ、のみならず、相応に距離のあったスートエースすら、その煽りを食らって弾き飛ばされる。

 力を掛けた方向とは真っ直ぐ逆、まるで一気に反発するように、誰も彼も、身体ごと。

「……おい、おいおいおい……マジかよ……。」

 スートエースが、うめくように呟いた。

 はるか後方に押し下げられこそしたものの、最も遠くに位置していたことが幸いし、見舞われたダメージは他の面々よりは少ない。

 だがそれでも、思わずそんな呟きがこぼれ出るほどの衝圧だった。

 手を抜いたつもりは、自分たちの誰にもない。確かに、相手ニセモノの程度を量るという意図はあったが、「倒さねばならないもの」に手加減してやる道理もない。

 だから、最初からそれぞれが、最も得意とするものを、全力で見舞った。

 結果として、その全てが一分の功もなく防がれた。

 起こったのは、ただそれだけだ。

 けれど、「それだけ」だったからこそ、彼等にとってはきわめて悪い意味で、大きな衝撃と理解をもたらすことになった。

 このニセモノの雛形となったシンの係累は、「フィチア」という。

 フィチアの最大の特性は「凡庸性」、つまり「特出するものを持たない」ことにある。

 格闘の膂力、飛行の速力、光波の出力、どれにおいても他の係累には及ばない。まして、ひときわ抜けたものを持つレジェンドの面々と比較すれば、尚更だ。

 ゆえにこそ、シンは活動員となるにあたり、「持たざるもの」として、「持たないままでも戦える」ようになることを選んだ。

 己が持ち得るものを、ひたすら研ぎ澄ます。ただその一意を以て、シンは自身の「凡庸」という底辺を「非凡」の域へと引き上げ、自身の地力となさしめたのである。

 凡庸ふつう特化とくべつを超えられないならば、特化とくべつでなければ敵わぬ凡庸ふつうになればよい。

 超えられないならば、並ぶまで。勝てないならば、負けぬまで。

 シンの持つ強さとは、突き詰めればだ。

 翻って、このニセモノが、そんなシンの精巧なコピーであるというならば。

 それはつまり、「シン以上の出力で、シンの動きをする」もの、完全な「上位互換」である、ということだ。

「……ちょっと……ぞっとしない話、ですね……」

 げんなりとした声が、空の片端から響く。

 アラミツだ。幾らか遠さはあるものの、声にも視線にも、刺し貫くような鋭さは保たれたままである。

 偽シンの放った衝圧を真正面から受けた瞬間、とっさに身体の軸を変え、直撃だけはなした。

 同時に、往なしきれない力にはあえて逆らわず、すぐに身体を丸めて防壁バリアを張り、弾き飛ばされるに任せることを選択。

 痛打によってもたらされた身体の軋みを免れることはできないが、それでも食らったダメージは最小限にとどめ得た。

「……でもわかったよ……」

 アラミツの声に呼応するように、別の声がした。

 偽シンの直下からまっすぐ蹴り迫り、真反対の地上へと弾き飛ばされた太郎のものである。

 衝迫の瞬間、太郎もまた、とっさに張ったバリアごと叩き墜とされた。深く地を抉り、衝撃で捲き上がった土砂土石が今なお朦々と土煙つちけぶる中、ひとすじの光条が、地中から空に向けて爆ぜるように奔った。

 爆ぜたと見えたのは、一瞬。濛気もうきのような塵埃じんあいの中、深く穿たれた穴のその上に煌々と浮かぶ光。

 地ならぬ中空を踏みしめ、太郎が、すっくと立っていた。

「やっぱり、あのひとじゃない……!」

 爛々たる憤りをこめた声が、周囲に立ち込めた濛気を払拭する。青艶しい前髪に隠される左の金の眼睛がんせいが、髪の奥から声に同調するように爛々と輝いた。

「当然だ。」

 上からの声。低く重く、ともすれば衝撃を受ける前より更に重圧感をました空気を帯びるそれは、ダンウィッチのもの。

 ニセモノの黒の頭上、近接の間合いこそ外れているものの、他の誰より近い位置から、いっそ傲岸なほどに冷徹な言葉と金の眼が、めつけるように見下ろしている。

 あの黒の衝圧に弾かれてなお、頑として空中にのは、ひとえにダンウィッチの念動の強さ、身体強度がためだ。

 とはいえ当然、無傷というわけにはいかなかった。間近から見舞われた衝撃は、膨大にして甚大である。

 褐色の肌表はだえの其処彼処に、擦れ、裂け、抉られる、数多の瑕疵キズ。もっとも、当のダンウィッチには、そんなものを意に介したような様子は微塵もないが。

 それぞれが、それぞれの場所から敵意の視線を注ぐ中心で、偽シンが、遠く近く、高く低く、彼等ひとりひとりを、ゆるりと確認するように見回す。

 さて困った、とでも言いたげに、糸縒りの細目と眉がきゅっと下げられた。ことんと首をかたげる仕種すら、何処までもがするのと変わらない態である。

 そのまま、「仕方ない」とでも言いたげな表情を浮かべた偽シンは、己の細の繊手を再び、ゆるやかに頭上に挙げた。

 遙か上空に口開く、暗澹たる赤黒い毀裂。其処から、暗澹と色を同じくするものが、その繊手めがけてしたたるように降り注ぎ、じくじくとわだかまるように集まっていく。

 やがて、偽シンの背を超えるほどの大きさにまで膨れ上がった。と思うや否や、今度は一転、急激な速さで縮み始める。

 無論、ただ縮むのではない。

 縮むにつれて圧縮され、濃縮され、ついには暗澹の球体となったそれは、くろくらい輝きを帯びながら、ついには手のひらに載るほどの大きさにまで凝縮された。

 ぐにり。

 凝縮された球体が、一瞬、いびつなゆがみを見せる。そのまま、激しくうねくるような挙動。

 球体の表面が不規則に波立ち、ひっきりなしに尖り立ち、ざんざんと棘を生やしたような球形となり。

「……避けろ!」

 ひときわ大きく響いた警告の声は誰だったか。それを誰何すいかするようなは、当然ない。もっとも、よしんばどの誰が発したものであっても、彼等は同じように動いていただろう。

 ひたり。暗澹の球体が、寸の間、動きを止めた。だがそれは、停止ではなく、次の挙動へ向かう微塵のインターミッションにすぎなかった。

 聴覚をつんざくような、形容しがたい破裂音。同時に、激しく炸裂して弾け出るのは、おびただしい数の赤黒いいら

 それが、彼等のバリアを砕きかねないほどの圧倒的な量と威力で、禍々しいまでの鋭利さで一気に襲い来る。

 戦闘の手練れの彼等をして、防御に専念せねばならないような状況の中、しかしこの状況でこそ、彼等は確信を得た。

 やはりは、本物シンではない、と。

──は粗方わかってるが、コイツがちぃとめんどくせぇのなー。

──だったらもう、まっすぐ行っちゃえばいいんでしょ。

──おや、君にしては珍しく短気な発言だ。

──こいつですら、其処まで腹を立てているという話だろう。

 思念の会話。言葉になるよりも速く、彼等の行動は決まっていた。

 動いたのは太郎。同時に、視界が真っ白に染まるほどまばゆい閃光が、辺りを染めた。

 身を屈め、跳ぶ、そして飛ぶ。暗澹のいらが降り注ぐ中、金色じみた白い輝きが、へ向かって一散に奔った。

 輝く白金は、意志の強さをのせた盾、そして矛。

 無尽蔵に飛来するいらを、防ぐどころか折り砕く勢いで一直線に目指すのは、何より太郎を腹立たせる、あのニセモノ。

 寸の間をおき、太郎の光跡を、アラミツが、ダンウィッチが追う。その彼等を遠巻いて守るように、スートエースが周囲にバリアを重ねる。

 速度の乗ったアラミツの背に、薄刃が重なり合う如き一双の銀白の翼が現れ、鋭く広がった。

 アラミツの属する係累アレイエは、原義に「数多の翼」という意味を持ち、この係累に属するものは全て、形状の差こそあれ、外見的特徴として身体の何処かに必ず「翼」を有している。

 翼は、手握たにぎり持つ白銀杖と同質の輝きを放っていた。飛行の速度に、翼の推進力が乗る。そしてアラミツの翼は、速度の為の出力のみならず、完璧な制動を引き出すギミックであり、「隠し技」でもあった。

 超速の飛行が、先んじた太郎の軌跡を僅かのラインも外さず追う。そのまま、やがて先を往く太郎にひたりと後付き、並び、追い抜く。すれ違った瞬間に、アラミツは太郎のまとう白金を譲り受けるように、白銀杖にまとわせた。

 先のような同時攻撃ユニゾンではない。

 太郎とアラミツの力のそれぞれを、合算し、累乗し、白銀杖のに収斂し、凝縮し。

 正確に、迅速に。無謬の細心と砕身をこめて、標的とする偽シンの眉間を、針の如く刺し穿つ。

 過たず刺し貫かれる、偽シンの眉間。ホンモノに限りなく似た顔貌を飾る、これもまた忌々しいほどにそっくりな黒細縁の眼鏡が、衝撃で割れ砕け、はじかれるように飛んだ。

 白銀杖が穿たれたままの眉間に、偽シンがぎこちなく眉を寄せる。浮かんでいるのは、色濃い怪訝の表情だった。

 攻撃は、確かに届いた。間違いなく食らった。おそらくは痛みもあるのだろう。

 だが、こめられた手順と力の割に、被ったダメージがあまりにもことに、疑問と戸惑いとを生んでいるようだった。

 つまり。

 これは、己を葬り去るための決定打──ではない?

 本物シンの思考をトレースしているならば、偽シンは、この一撃の意味をそう結論したに違いない。そして、だからこそ気付いたはずだ。

 このが、決してただの脆弱な攻め手などではないことに。

 風切音がした。強く重く、うなるような音だった。

 太郎とアラミツの力が収斂されたに遅れること僅か。もう一段の時間差で到達した、密度ある金色の光。

 ダンウィッチの金眼に輝く、硬質の金色。その金色と限りなく同質の光をまとった、超硬帯びる拳。

 渾身に振るう拳頭が、白銀杖の突き刺さる偽シンの眉間を捉えた。継ぎ矢の如き正確さで以て、まっすぐに叩きつけ、抉り込む。

 同じ瞬間、常には閉じる瞼によって隠される、ダンウィッチの額の三眼が、目覚めるようにかっと開いた。

 超高温の燃焼に輝く恒星のような、碧碧へきへきたる光。渦巻くようにあふれ出るそれは、「異眼たるものオクルス」の名にし負う、ダンウィッチの生命鉱石の、その力。

 金に輝く拳を通し、偽シンへとち当てられる。

 偽シンの鼻梁から上、眉間を中心にする頭蓋部が、過たず砕けた。赤黒い破片が辺りに微塵に飛び散り、砕けたその場にはぽっかりと、拳大の虚ろな欠け穴が空いている。

 くらり。

 欠けた頭のまま、偽シンの身体が揺れた。頭上に掲げていた手が、ゆらん、と力が抜けたように下がり落ちる。

 太郎の白金の怒りに始まるあの切っ先は、このための導線であり、だった。

 如何に精巧なコピーであろうと、ナマートリュのまでは写し取れない。なればこそ、「ニセモノ」は、無尽蔵な異次元の力を何処かに受け取って、その代わりとしているはず。

 それが如何に無尽蔵であれ、「受け取り」を阻害できさえすれば、ただの木偶となる道理。

「あいつは、弱いから強い。」

「弱さを持たないマガイモノが、強いわけないでしょ。」

 太郎とダンウィッチ、金の眼をしたふたたりが、ふらふらと揺れるニセモノへ向け、吐き捨てるような呟きをこぼした。

 にわかに空が明るくなる。無尽とも思えた赤黒いいらの終息によって、空は色彩と明度を取り戻し始めた。

「……よっしゃ! 残るはだけだぜ!」

 ダンウィッチの二打目の拳が、偽シンの頭を砕ききったところで、攻撃に回る彼等を援護すべく、離れた場所で延々とバリアを張り続けていたスートエースが、意気揚々と宣言する。

 その場でぐっと胸を反らしたスートエースは、バリアを瞬時に消し去った。かわり、今度は身体からあかあかと青輝する光が噴き出すように現れる。

 バリアを張るかたわら、のため、体内でひたすら練り上げ続けたエネルギーが、一気にスートエースの全身を覆いつくす。

 続けざま、両腕を抱え込むような仕種。青白の光輝が、今度は両の腕に凝縮するように集まっていく。

 スートエースは、ぐんっ、と大きく降り仰いで上空を見上げた。

 空の只中、未だ大きく口を開く、横様よこざまな赤黒い裂け目。

 散らされてなおありあまるエネルギーが、未だ稲妻の放電のように、ビリビリと飛沫しぶいて零れ落ちてくる。

 ねじくれるようにうごめく毀裂を見据え、スートエースは一気に両腕を広げ、そして、放った。

 開く腕の動きが描いた、青白い弧。それがそっくりそのまま、同じ形の光波を作り上げる。強く大きな弧を描く光の刃が、斬り上げるような軌跡で、赤黒い裂け目を目指して空を奔る。

 青白の光刃が、毀裂を裂く──その、直前。

 光刃のの真正面に、ゆがんだ黒い影が、その進みを遮るように躍り出た。

 ダンウイッチの拳に砕かれながらもただ淡々と動き、おぞましくも未だひとなりの姿を残す、ニセモノの黒。

 砕かれてなお、本物の如く、そのためだけに振る舞う様は、いっそ。

 だが。

 特化とくべつは、それゆえに凡庸ふつうを凌ぐ。

 まして、それがニセモノの凡庸ふつう相手ならば、なおさらに。

 いびつな黒は、いびつなまま、ふたつの断片になった。

 増えたのではない。ただ。袈裟懸けにも似た様相で、身体を斜めに、上と下とに、まっぷたつに。

 切れ口が、緩やかな速度でずれ落ちるようにスライドした。ずれ落ちる断面から、赤黒いものがしゅぅしゅぅと立ち昇る。

 同時に、ニセモノの黒の輪郭が、ちりちりとこぼれるように崩れ始めた。

 いびつに不規則に欠け落ちて、見る間に無数の隙間が生じていく。

 この隙間こそが、彼等の狙った乾坤一擲。

 上空のアラミツが、再び超速の飛行で、その隙間へ向けて一気に突進した。

 白銀杖を刺突に構え、崩れる黒の隙間の向こう側、強く確固と押し込むように突き入れる。

 ギィン、と音がした。

 硬いものが擦れ合う。砕けた気配に、赤黒い毀裂がぐにぐにと歪み始める。辺りに、恐慌の叫び声のような不快な音が響き渡る。

「……当たり、でしょう?」

「えぇ、実に見事なお手前です。」

 確信の笑みで呟くアラミツの言葉に、それまで何処にもなかった、全く消えていた気配が、唐突に声となって現れた。

 ニセモノの黒の向こう側に現れた、これもまた、黒の影。

 これこそ、今この場におけるである。

 アラミツの渾身の刺突を、スピンガスは手握たにぎり持った黒杖で受け止めきった。この状況においてなお、毅然とした姿勢を、悠然とした態度を保ち続ける心胆は、ある意味、賞賛に値するだろう。

 だが、その黒杖の、握りの部分にあった赤黒く輝く多面体の結晶は、ほぼ半ばまで砕けていた。

 頭上の赤黒い毀裂が、苦悶するように歪み、悲鳴をあげるように吠え出す。

「さて。で、あなたもこれにて降参して頂けませんか。」

 アラミツが、表情にいつも以上の深い笑みを乗せ、しかし気を抜く様子もなく手短な言問いで以て、を降りるよう勧告した。

 かつての過去に対峙したスートエースの情報から、スピンガスという存在がどんな敵なのか、彼等は既に知っている。

 異次元から来た勢力に属し、あの裂け目から取り出したエネルギーを、で行動する仲間に渡すのが、「媒介者」たるスピンガスの役目だ。

 いちどきに媒介できる量には上限があるようだが、「媒介者が存在する限り、ほぼ永続的に供給が可能」というのは、脅威以外のなにものでもない。

 だが、力の程度はともかく、この状況そのものは、彼等にとって未知ではなかった。

 あの毀裂は、異次元につながる力の供給孔であり、異次元勢にとっては文字どおりの生命線。そして、その重要な役目を担うからこそ、スピンガスの行動が大きく変わることはない、と彼等は読んだ。

 ならば、あらかじめ対応を練ることも、十分に可能。

 スピンガスの戦闘能力は、決して高くない。エネルギーの供給に集中しなければならないというウィークポイントも存在している。

 もっとも、「戦闘力が高くない」ことが、必ずしも「弱い」ということにはならない。現に、先ほどのアラミツのひと刺しを、紙一重に防ぎうる程度の力は持っているのだから。

 そも、スピンガスは戦闘を他の者に任せ、自身は姿をくらますことで己が身の絶対の安全を確保する。

 であれば、付け入るべきは其処であろう。此処以外でも動かねばならぬ異次元勢がいる以上、エネルギーの媒介者を失うことは、何より痛手になる。

 直接戦闘を避けるため、姿を消して毀裂近くにひそんでいることはわかっていた。無論、おいそれと簡単に姿を現すとは思っていない。だから彼等は、まず偽シンへの攻撃に集中した。

 一旦ニセモノにかかりきりになることで、スピンガスの存在を失念していると思わせ、こちらの最初の狙いが毀裂であることを気取らせないように振る舞う。

 とはいえ、全体の命令遂行を何より重視するスピンガスならば当然、最後まで自身と毀裂を守る方策にも、万全を期しているに違いない。仕留めきることができない可能性も、勿論ある。

 だからこそ、スートエースは光波を発する直前、わざわざ声を上げたのだ。ニセモノを相手取りながら、「実は最初から供給孔の破壊を狙っていた」と、スピンガスに、次に取る行動を決定づけさせるために。

 知略長けたるスピンガスなら、必ず彼等の意図を「読む」──そう予測できたからこその、あえての演出。彼等の一連の「連携」も、それを見越してのものである。

 そしてそれは、見事に図に当たった。

 迫りくる強大な光波を前に、毀裂が受けるダメージと、己の身の安全を即座に天秤に掛けたスピンガスは、彼等の予想に過たず、媒介を保持するために自身を守る方を優先させた。

 ニセモノを自身の前に引き戻すという行為。それはつまり、ニセモノを盾にする向こう側にスピンガスがいるという、何よりの証となる。

 狙うべき的さえわかれば、あとは流れるように事を運ぶのみ。誰より速く飛べるアラミツがまっすぐに標的スピンガスを目指し、そして、砕いたのである。

「全くお見事というよりございません。貴公たちの相手取るための人形は、既にその役目を終えてあえなくガラクタと成り果てました。わたくし自身もまた、今の的確な一撃によってほぼ丸腰。これでは貴公たちを相手取っての立ち回りどころか、我が身の保全すら危ういと言わざるをえません。」

 心底からの感嘆と賞賛を彼等に向けながら、スピンガスは、砕かれた赤黒い石のついた杖を、繰り返ししげしげと眺めていた。

「なら、どうするって言うんですか!」

 そんなスピンガスを斜めに見上げる位置から、怒りと、怒りを抑える理性をないまぜた太郎の声と視線が、鋭く突き刺さる。

 琥珀と金の瞳が、爛爛とスピンガスを見つめていた、他の面々も既に、取り囲むように間合いを詰めている。

「どうするつもりもございません。とはいえ、先ほどの御質問に対しては、やはり御無理な相談であると返すよりございませんが。」

 この期に及んですら、スピンガスの態度はなおも、心底からの丁寧丁重を崩さない。けれど、アラミツが告げた降参の勧告には、あくまでも強く拒否の意を示していた。

 空の毀裂が、不快な響きを発しながら、ときに歪みときに吠え、ひたすら不気味に荒れ騒ぐ。

 剣呑の空気だけが尖り立つ、長考というほどの時間ではない空隙。だがこれが、彼等とスピンガスの断絶をより深めるものとなった。

「繰り返しになりますが、最初に申しましたとおり、脇役というものは出番が終われば言われずとも舞台袖に退く、それが正しいあり方でしょう。よって、わたくしは速やかにこの舞台から撤退致します。この場はあなた方に勝ちを譲る、という台本は変わりません。こちらとしては少々不測の事態となりましたが、ひとまずこれで手打ちとし、双方よい落としどころと致しましょう。」

「おいおい、ちょいと待てよスピンガス。そいつはお前等にとっての話だろ? こっちとしては訊きたいことが山盛りだ。それを〝予定外があったんでさっさと消えます〟とか言われても、ハイどーぞってわけにはいかねーのよ。」

 この期に及んですら淡々と紡がれるスピンガスの言葉に、怒りも呆れも隠さない顔で、スートエースが返した。

 既に相手は万策尽きたはず。しかし未だ相手の手の内の、更に内側が見えない以上、警戒と不信を解くことなどできるわけもない。

「……特に、あんなものを作ってまで、俺達を足止めした理由だとかな。」

 声こそ低く抑えられて静かだが、ダンウィッチの発する殺気じみた威圧が、更に重く、強くなっている。実のところ、に対して誰より我慢ならなかったのは、他ならぬこのダンウィッチだ。

「足止めの理由をお尋ねになるならば、それこそ今以て悠長に構えていてはよろしくないのではありませんか? わたくしが貴公たちを足止めした理由はただひとつ。が立つ舞台を、無粋な乱入によって邪魔されないようにするためです。ですので、今度はわたくしが貴公たちにお尋ねしましょう。わたくしが抵抗をやめ、こうしているのは何故なのか、と。」

 彼等の視線の中央で、スピンガスの態度は、けれど何処までも落ち着いていた。手握り持った黒杖の、その先にあったはずの赤黒い石の欠け落ちを残念そうに眺めてから、ゆっくりと自分を取り囲む面々を見回す。

 舞台の「邪魔」になりそうなものたちを、引き留めなくてもよくなった理由。その答えは。

 考えるまでもない。つまり、その舞台は既に。

「では、わたくしもそろそろ暇乞いを致します。アンコールはございませんが、いずれまた、遠からぬ舞台にてお目にかかりましょう。」

「待て……!」

 誰の言葉も無視する形で、スピンガスが慇懃にこうべを垂れた。深い礼を落とすその頭上から、断末魔のような叫びの音を上げ続ける赤黒い毀裂が、覆い被さるようにぐんにゃりと、溶けるように垂れ落ちてくる。

 毀裂の予期せぬ挙動に、とっさに身構えた彼等の中心で、スピンガスの姿はそのまま一息に飲み込まれた。

 遊びはそれまでです、帰還なさい。消失のきわ、誰かを呼びつける淡然とした声を最後に、慇懃たる黒の影は、完全に消失した。

 何かがぐるりとになるような、いびつの気配だけを残して。

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