第26話

  フィニットがに掴みかかるのを、ひかりは自分が閉じこめられた場所から、俯瞰するように見ていた。

「返せ! それを返せ!」

 大切な仲間から奪われた青い命石を取り戻そうとして、怒りをはらんだ叫びと共に、フィニットの手がバラトシャーデの首へと伸ばされる。

 狙いは的確だった。ただ、あまりにフィニットらしからぬ、馬鹿正直な、直線的な挙動でありすぎた。

「いけない、止まれ!」

 シンが声をあららげた。常にはない強い切迫が、発した声にもにじんでいる。

 だがはたして、その制止は間に合わなかった。

「もう片方よりはおとなしいと思っていたが、女を返せ石を返せと……存外うるさいな。」

 伸ばされたフィニットの腕を、然し逆に、バラトシャーデが掴んでねじり上げる。

 人と同じ五本指の形状こそ残してはいるものの、その一本だけでも腕肢のような太さと長さがあった。指先には、金裂き刃の如き鋭利な兇爪きょうそうが伸び、ギリギリと食い込んでくる。

 先刻まで確かに「人間の形質」を持っていたはずの蝦名の身体は、いまこのとき、頭部以外の部位のほとんどが変容し、半ば人の気配を微塵に残すだけの、異様の怪物と化していた。

 赤茶けた甲殻類のような、節足動物のような、節くれ立った「怪物」を見下ろしながら、ひかりはもそもそと自分の身体と起こした。

 いきなり見えない何かに掴み上げられたかと思ったら、突然変な空間に放り込まれた。受けた衝撃で、今もまだ身体のあちこち痛い。

 掴み上げられたときに必死に抵抗したのもあって、手足のあちこちに、擦り傷やら切り傷やらこさえてしまった。場所によっては結構な量の血までにじんでいる。

「……痛ったぁ……! 嫁入り前の玉のお肌に何てことしてくれんのよ……!」

 そんな中ですら、ひかりは痛みにおののくより先に、盛大にむかっ腹を立てていた。

 自分が痛い目にあったから、というだけではない。ひかりが何より腹を立てているのは、此処に放り込まれてからも延々と聞こえてくる、「彼等」の過去の因縁話だ。

 聞こえた話を、乱暴ながらもひかりなりにまとめれば、蝦名の身体を乗っ取ったバラトシャーデという名の宇宙人、あのヤシガニのできそこないみたいな「怪物」は、ウスルという宇宙人の種族の出で、滅んでしまった自分たちの星の代わりに地球に移住する計画を立てた際、尖兵として送り込まれたのだという。

 で、それを阻止したのがナマートリュ、というか、シンだった。計画の失敗後、バラトシャーデは何らかの理由から自分の種族にすら切り捨てられ、その恨みから、シンに復讐する機会をずっと窺っていた、らしい。

「はぁ? そんなの逆恨みもいいところでしょ!」

 事の顛末を把握して、思わず大きな声が出た。多少のこまごました事情もあるようだが、バラトシャーデが今此処にいる理由については、逆恨みをこじらせた、自分勝手な理屈をこねているようにしか聞こえない。

 だが、そんな「逆恨み」を向けられても、当の本人シンは、苦しげに口をつぐむばかり。むしろ、罪を責め立てられる咎人のような、ひどく後ろめたいものを抱えているような悄然とした表情は、責める相手にこそ理があるような錯覚すらしてしまいそうだ。

 はっきりしない、煮え切らない、あまりに歯がゆい、その態度の理由がわからない。じれったいを通り越して、腹立たしくさえなってくる。

「シンさんも、そんなやつの言うこと、いちいち聞く必要ないでしょ! 何で言い返さないの!」

「知れたこと。今の奴は、それをできる立場にないからだ。」

「立場……? っていうか何よ、こっちの声もちゃっかり聞いてるんじゃないの!」

 なおも声を張り上げたひかりを、バラトシャーデが、蝦名の目でじろりと振り仰ぎながら言った。

 防音してあるとか言ってはいたが、どうやら、こちらの声は一応、あちらに聞こえているらしい。とはいえ、ひかりをうるさいだの何だの言っていたことを考えれば、付けっぱなしたままのテレビのボリュームを下げた、くらいのものなのだろうが。

「奴が、お前の身内を殺したことは知っているのか?」

「知ってるわよ。そのあとに生き返らせてくれたってことも知ってるし! で、それが何?」

「そうか。だが、、ということまでは知らないのだろう? 奴は、極めて単純で安直な方法で、あの地球人を甦らせた。ある意味では冒涜的な、禁忌ともいえる方法でな!」

「生き返ったからって何? そりゃまぁ確かに、そんなの滅多にあることじゃないかもだけど、でも、今はふつうに生きてるし!」

 言葉と勢いに呑まれまいと、ギッと眼下のバラトシャーデを見下ろしながら、ひかりは声を張り上げる。

 僅かに言葉の途切れる間。それを挟んで返ってきたのは。

「ふつう、か。……いいか、考えてもみろ。本来、死とは不可逆だ。その死から蘇った人間が、果たして〝ふつうの人間〟などといえるのか? 或いは、既に人間とは呼べぬ何かに成り果て、長らく人間のふりをしていたのかもしれない、とは思わないか?」

「思うわけないでしょ! だいたい、蝦名さんのふりしてたあんたとは違うし!」

「違わんな、どちらもだ。」

「そもそもあんたなんか、ふりどころか、人を乗っ取るわ操るわ、迷惑かけまくりの悪いやつじゃないの! だいたいね、それでおじいちゃんが地球人じゃなくなってたら、ふつうの人間である私が生まれてくるわけないじゃない! そうでしょシンさん!」

 躍起になって反論しながら、同意を求めてシンに言葉先を向ける。

 そうだ、この会話の最中にあってさえ何も言わないシンからこそ、それが聞きたい。好き勝手言うバラトシャーデに対して一番反論しなければいけないのは、どう考えたってシンのはずだ。

 なのに。

「それ……は、」

 ようよう振り絞るように洩れたシンの言葉は、浮かぶためらいそのまま、揺らいで途切れた。

「……はッ、奴がそれを言えると思うか? 生き返らせた地球人のみならず、その裔孫すえたるお前もまた〝ふつうの人間〟ではない可能性がある、などと? 己が私情で他生命体の生死を放恣し、挙げ句、本来あるべき姿を捻じ曲げた張本人が!」

 言葉に詰まるシンから、バラトシャーデが二の句を奪う。顔に浮かぶのは、狂喜じみたいびつな笑い。

「え……」

 ひかりは絶句した。あまりにも突飛な、予想外な、そして衝撃的な話に対してのそれは、しかし全く当然の反応だった。

 そんな様子を楽しむように、なおもバラトシャーデの言葉が続く。

「あの地球人を自ら殺しておきながら、奴はそれを惜しんで蘇らせた。もっとも、器官や内臓の相当量が失われ、再生しようにもが圧倒的に不足していたのは予想に難くない。ならばどうした? 奴はあろうことか、自分を材料に、自らの身体に近い組成と構造に作り替えてそれを補填した。つまり、奴はあの地球人に同化し、として再生したわけだ。」

 ひかりの「祖父おじいちゃん」であるところの、「早御田剛士郎」という存在が、「地球人」とはいえないものである可能性。

 それは必然、「早御田ひかり」という自分もまた、「地球人」とはいえないのかもしれない、ということに結びつく。

 だが、そんなとんでもない話を聞かされて、困惑するなという方が無理な話だろう。

 生まれてこのかた、「自分は生粋の地球人である」と何の迷いも疑いなく──いや、そもそも疑いなど生じようがない環境で育ち、生きてきた。

 なのに、今のバラトシャーデの言葉は、ひかりのその認識を、それこそ根こそぎ、まるっきりひっくり返しかねないものだった。

 突然そんなことを言われたところで、肯定なんて到底できるはずがない。だが、それを一番証明できるだろう存在が否定しない──というか、できないでいる。

「シンさん!」

 言ってよ、教えてよ、断言してよ。渦巻く言葉は多岐あれど、今ひかりが希求するものはただひとつ。

 なのに、その「ただひとつ」こそが出てこない。

「如何な口巧者くちごうしゃであろうと、歴然たる事実を目の前にしてかこぐさを並べる愚はできまい。地球人を守るだの何だの綺麗事を抜かしながら、奴は結局、地球人を尊重などしていなかった、ということだ!」

 積年に膨れ上がった憎悪の激情を、怒濤のように吐き出すバラトシャーデ。シンの押し隠す罪過を暴く高揚に、赤褐色の節くれだつ身体を大きく揺らして哄笑する。

 揺れる都度、掴みあげたままのフィニットの腕が更に強く締め上げられ、ぎちぎちと耳障りな不快な音が響き渡った。

 フィニットとて抵抗していないわけではない。うめきながらも腕を突き出し、なおもバラシャーデを捕らえようと、これ以上なく力をこめている。

 だが、抵抗はどれも、ひたすらの無為に終わった。軽々と易々と吊り上げられるその姿は、巨腕に捕まれる小枝のような無力さすら漂っている。

「フィニット!」

 シンが叫んだ。フィニットを助けるべく構えた手の先に、白い光が浮かびのる。

 鋭利の輝きを帯び、キュゥンと研ぎ澄まされたそれは、しかし。

「動くな! ……貴様が手を出せば、その時点で、あの地球人を空間ごと潰す!」

 高らかに叫ぶバラトシャーデの言葉に、シンの動きがひたりと止まった。

 鋭利に輝く白い光が、出口を失った渦のように千千ちぢに崩れ、ほどけていく。

 シンの懐中で、数多に複雑にたたねられる、葛藤と苦渋。それを示して映し出すように、繊手の先で鬱然とわだかまり、ただゆらめくばかりの白い光。

「だが……そうだな、もしこいつが俺に勝つようなことがあれば、あの地球人を解放してやってもいいぞ? 勿論、貴様の手出しは一切なしで、な。」

 動きを止めたシンに、バラトシャーデは、粘つくような嘲りを含む視線を投げて言った。

 吊り上げたフィニットの腕を、更にこれ見よがしに、強くねじり上げる。ぎゃりぎゃりと、耳をふさぎたくなるようないやな音が辺りに響く。

 ひかりの耳にも覚えのある、いや、むしろ忘れようがない、ナマートリュの身体が砕けるときの、あの音だ。

「どう考えたって、こっちが圧倒的に不利でしょ! それを加勢もさせないとか卑怯でしょ! あんたね、フィニット放しなさいよ!」

 声を張り上げながら、がたがたと、自分の閉じこめられた場所を揺らす、叩く。

 どうせびくともしないくらいのことははわかっていたが、それでも、こんなことでも、せずにはいられなかった。

 フィニットが、痛みに顔をゆがませながらも、ぎこちなくそっと笑う。叫んだひかりの声が聞こえたに違いない。

 大丈夫、平気だよ。声を発したわけではないのに、その表情が伝えようとしているものは、一目瞭然だった。

「全然大丈夫じゃないでしょうが!」

 やせ我慢なんていらないから! その様子に、怒り半ば、涙目半ばの心地で、地団太を踏むように、身体を壁にぶつけるように、無我夢中で壁を叩き続けた。



「……つまり……僕が勝てばいい……んだよね……」

 苦悶の表情を浮かべて、フィニットはけれど、バラトシャーデの言葉を反芻するように言った。

「そういうことだ。まぁ、万にひとつの可能性もないがな。」

「なくても、やるよ……」

 絞り出すように吐き出すように、自分に言って聞かせる。言いながら、自分の腕を締め上げるバラトシャーデの手へ、光波をまとわせたもう片手を叩きつけた。

 何度も繰り返せば、腕をねじり上げる節手の端が、砕けるように崩れる。身動みじろぐ隙間ができたことで、腕は幾らかの自由を取り戻す。

 間を置かず、勢いづけて身体を大きく揺らすような動きを、二度三度。砕けた箇所が、更にもう少し崩れて緩んだ。

 期を逃さず、フィニットは強引に自分の腕を引き抜く。同時に、身体を翻すような動きで飛び退すさり、距離をとる。

 逃れ得たことに気を抜くことなく身構えながら、バラトシャーデに掴まれていた腕にちらりと視線を向けた。一目見れば瞭然の、おびただしい毀裂や罅が浮いている。

 ゆっくり慎重に腕を曲げ伸ばしてみた。内部機能を確かめる。軋りと痛みはあるが、幸いにして今のところは、動きそのものに大きな不自由は感じられなかった。

「これ以上はだめだ、君の身体は……!」

「いえ、僕がやります。」

「しかし……」

「あなたは動けない。なら僕がやるよりない。何もしないなんて、できません……!」

 再度かけられた制止の声を、フィニットは、で聞かなかった。

 シンが、煩悶と痛恨を綯い交ぜた表情を浮かべる。

 その表情の意味も、フィニットは理解している。

 上官であるから、だけではない。シンもまた、自分を育てた大人たちのひとりであり、フィニットの「負の特性デメリット」を知るひとりだからだ。

 フィニットは、他のナマートリュに比べ、身体の強度が格段に低く生まれついてしまった。

 様々に手を尽くされ、長じた今は何とか一般的な強度を持つことはできているが、本来ならその時点で、活動員どころか訓練生としても「落ちこぼれ」だったのである。

 そんな身の上でありながらも、特殊な探査能力と緻密な情報分析力が飛び抜けて優秀だったこと、デメリットを抱えてなお、「どうしたら有用に立ち回ることができるのか」を模索し続けたその努力の結果が、活動員という肩書きとして実ったのだ。

 無論、その実りが「いびつな果」であることは、フィニット自身よくわかっている。

 だから、だ。今のようにノーティとコンビを組むようになったのは、どちらも「歪つな果」だったからこそ、欠けて足りない部分を補うに最適な相手だったからだ。

 けれど、今此処に、ノーティはいない。唯一の援け手となり得るシンも、バラトシャーデとの根深い因縁ゆえに動けないでいる。

 自分にとって最悪の状況であることは、フィニットも十分に理解していた。

 それでも。

 フィニットは前を向いた。たとえ虚勢であろうとも、言い張らねばならない場面にそれができなかったら、自分は本当に、何もできない存在になってしまう気がしたのだ。

「……役立たずの先達ですまないな。」

「今はそういうことを言ってる状況じゃないですよ。」

 シンの声が、為すを為せぬ後ろめたさに満ちている。フィニットは、苦笑して僅かに肩をすくめる仕種で、それを受け止めた。

 この場を任せることしかできない、シンの選択。けれど、フィニットとバラトシャーデとの間にある力量差はあまりに明白で、任せきることができない心情も、其処には含まれているのだろう。

「……往事ことの当人が言うのも何だが、奴に関する過去の情報は、もう当てにならないと思っていい。今現在の威力に関しては、明らかに以前より上だ。」

 実際、今目の前にいるバラトシャーデは、過去の情報として知るものとは、最早まるきり様相が違っていた。

 形質や能力の傾向はともかく、どう変容しているのか、どう強くなっているのか、全く予測がつかないものになっている。

 それを何とかしろ、と丸投げしなければならないのだから、ひどい無茶振りだという自覚は、シンにも重々あるのだろう。

「……でも、予測ができない相手なんて、むしろそれ、ふつうですよね。」

 それでも、フィニットは言った。あえて軽口っぽく、ふふ、と笑い声すら混じらせて。

 言いながらも前を見据え、隙なく構えをとる。抱える思いは全く軽くはない。

 どう考えても至難の状況に、不安をぬぐうこともできはしない。でも、此処は自分がやらなければ。

 決意を、そのまま視線に、身体の形にする。

 先詰めの知識は当てにならない。その上で、経験不足もいいところの自分が、はたしてどう対峙すればいいのか。

 考える。この状況で、何を以てすれば勝ちといえるのか。何を以て勝ちとするのか。

 答えは、言うまでもない。バラトシャーデをすること、それさえできれば、こちらのだ。

 だがそれは、同時に蝦名の命を危うくする可能性、もっとはっきり言ってしまえば、場合によっては「殺さねばならない」かもしれない、ということをも示している。

 それは、かつての過去にシンが味わった懊悩と苦艱くかんを、今度はフィニットが味わうことにもなりかねない、ということだった。

 フィニットの視界が、何かの挙動を捉える。おぼろな影の動く如きそれを、詳しく捕捉しようと身構えたフィニットの身体が、突然吹っ飛んだ。

 勢いまま、二、三〇メートルは優に飛んだろうか。

 それでもとっさに受け身をとる。身体に波及する衝撃は何とか軽減できたが、勢いまではさすがに削ぎきれない。

 相当な距離を、地滑るように転がって、ようやく止まった。

 予想外の攻撃。巻き上がった白塵が視覚を遮る中、体勢を立て直すのもそこそこにサーチをかける。

 対象を捕捉しきるその前に、次の攻撃がフィニットを襲った。

 だが、今度はフィニットの方が速い。寸の間ながら拡げた感覚の中に、明確な攻め手の気配を、フィニットはしっかりと捉える。

 おぼろげながらの、だが今は、全体を捉える必要はない。そのカタチのをしっかり覚え、身構える。

 相手の気配を少しでも感知できれば、さっきのような不意打ちはもう通用しないはず──

 まっすぐ自分に向かっていた攻め手の気配が、そのとき、不意に

 捉えていた気配が、寸分たがわぬもののまま、フィニットの目の前でぬるりと二手に分かれる。

「……そう、か……!」

 フィニットの思考が、自分の記憶の、とある部分をすくい上げた。

 活動員になるにあたって、長い時間をかけて学んだ膨大な「敵性存在」の情報。それは当然「バラトシャーデ」という存在の、その能力についても含まれている。

 あてにならない情報、それは確かにそうだろう。だが、あてにならないものが全てではない。

 むしろこれは、きちんと覚えていたからこその、照合と合致。適切な行動を、つまり、「今何をすべきか」の答えを、即座に導き出す。

 ぐっと低く上身を落とし、直後、矢の如くまっすぐ前へと駆け飛ぶ。二手にわかれた気配には目もくれず、むしろ、二手の中央を突っ切るように、まっすぐに。

 このフィニットの反応に、バラトシャーデがたじろぐ様子が見えた。動きや態度にこそ出なかったものの、まさか馬鹿正直にまっすぐ飛んで来るなどと、思ってもいなかったのだろう。

 フィニットが迷いなく飛んだ理由。それは、あのふたつのが、バラトシャーデの「分身」だとわかったからだ。

 この場所に近付いたひかりを、誰にも気取られずに捕らえることができた理由。あれがバラトシャーデの分身の仕業であることに、フィニットは気付いた。

 おそらくは攪乱、あるいは、こちらが気付かなければそのまま攻撃するつもりだったに違いない。

 だが、フィニットは動いた。分身の気配には目もくれず、ただまっすぐバラトシャーデを標的に飛んだ。

 駆け飛ぶ寸瞬に、フィニットは自分がとれるあらゆる方法と、その成功率を計った。バラトシャーデを無力化するために、自分の力の、どんな方法ならば、それが可能になるのかを。

 バラトシャーデが身構える。

 防御か、反撃か。いずれにせよ、フィニットが最大に警戒すべきは、あの異様の長腕だ。

 ほんのついさっき、自分の身体を砕かれかけたことを、フィニットは忘れていない。

 たじろぐような素振りはあったものの、「向かってくるならば迎撃するまで」というバラトシャーデの反応は、驚異的な膂力あればこその、まごうことなき正答だ。

 だから、それがぎりぎり届かず、しかし自分が最大に近付きうる位置を、正確に計算する。そして、まさにその位置に到達した瞬間、フィニットは素早くかがみ込み、己が手を地面へと叩きつけた。

 ノーティのような戦闘力や強度を持たない自分が、どうすればこの状況を打開できるのか。

 力で敵うはずもない相手、しかも、ただ倒せばいいという話でもない。

 目の前の対象が間違いなくバラトシャーデであることは、疑いようがないだろう。

 けれど、過去のから、この中にまだ蝦名という存在が残っている可能性は否定できないのだ。なら、どうしたって、殺すわけにはいかない。

 フィニットの選択は、だからこそだった。

 地面に叩きつけた手には、青白く練られた強い光。それを、バラトシャーデの立つ直下まで一気に奔らせ、展開する。

 地中から現れるのは、光の花の生え咲く如き無数の光条。ざんざんと地中から伸びた光は、バラトシャーデの身体を絡めて捕らえ、みちみちと拘束する。

 これが、フィニットのはじき出した「答え」だった。思念のでバラトシャーデを捕らえ、動きを封じる、これによって、対象を「生かしたまま無力化」する。

 それが、ただ殺すよりもずっと難しいことなど、百も承知だ。しくじる可能性だって、当然ある。

 それでも、「やらない」という選択肢は、今のフィニットにはないのだ。

 果敢の断は、そして──図に乗る。

 フィニットの手に集まる感覚が、対象を捕らえたことを伝えてきた。対象の挙動と抵抗の様子をつぶさに感じ取りながら、絶対に逃すものかと、なおも網の目を強く縒り続ける。

「小賢しい真似を……!」

 身動きできない苛立ちにバラトシャーデが洩らした唸り声を、光の網が克明に伝えてきた。

 一重ひとえ二重ふたえに、十重とえ二十重はたえに。輝く網を密密と、掛けて重ねて、じわじわと。

 フィニットは、根気よく網を縒り、掛け続ける。押さえ込む密度を高くすることで、抵抗も徐々に鈍ってきたようだ。

 なおも油断なく、絡める密度を緩めないよう引き絞り、重ねながら、バラトシャーデとの距離を慎重に詰める。

 捕縛の成功に確信を抱いたそのとき、それまでなかった微塵の違和感を覚えた。今まであった抵抗とは違う、明らかに別の挙動だった。

 何かが、内側からぐいぐいと押し出ようとしている。それにつれ、バラトシャーデを覆っている光の網が引きれていく、そんな感覚だった。

 このままではまずい。だが、網を重ねて封じ込めるか、あるいは網を解いて退くべきか、フィニットはその瞬間、判断に迷った。

 須臾の躊躇。それはしかし、裏目に出る。

 無音の音がした。密密と重ねた思念の網の破れる、否、破られる音だった。

 ぶつりと空いたれ穴は、フィニットの真正面。ぎょっとする間もなく、その穴から何かが放たれる。

 地に手をつく格好から、咄嗟に後ろへ飛び退いた。

 遠のく視界。自分に向けて放たれたものを把握する。バラトシャーデの長腕だった。

 あれに捕まるわけにはいかない。

 死にものぐるいで距離をとる。かろうじて長腕の到達可能距離を離脱──と思った、そのとき。

 それは、届かぬ距離のはずだった。だが眼前、紙一重の隙間を保持していたはずの距離で、覆われた太枝のように節くれる腕節が、やにわに、ぐにりとうごめく。

 そして次の瞬間、太く鋭い鉤爪の附節が、一気に伸びる。

 今度こそ、身を引く間もなかった。

 あれほど硬く強固な外殻でありながら、まさか軟体動物の挙動のような変容をするなど、いったいどう予想できようか。

 離れ仰せたはずの場所に、それは易々と到達する。更にあろうことか、鉤爪の指節が放射状に裂けるように拡がり、フィニットの顔をがっちりと鷲掴みにした。

 多脚の節足動物が張り付いたような様相。しかも、頭を鷲掴む指節は、どれも強烈な力がこもっている。

「俺を拘束しようというのは、案外悪くない案だったぞ。成程、確かにもう片方より頭は回るようだ。もっともそれも、今となっては徒労に終わったわけだがな。」

 頭を掴む腕節の根元に、せせら笑う声がした。ほんの今の今まで、確かに光の網にからめ取られていたはずのバラトシャーデが、悠々と立っている。

 是非もない。思念の網を張り続けるには、相応の集中力が必要だ。それが途切れれば当然、相手を拘束するものも消えてしまう。

「うぐ……っ……!」

 フィニットの顔を掴む長碗が、ぐ、と勢いよく引き上がった。宙吊りの状態で、乱暴に振り回される。

 張り付く指節に手を掛け、それを引きはがそうと必死に抵抗する。だが、こんな不安定な状態でできることなど、頭を掴む幾つかをがりがりと掻きむしるのがせいぜいだ。

「よせ……!」

「あぁ、動くな? こいつが自力でどうにかする分には構わんが、貴様が動けばどうなるか……わかっているだろう?」

 思わず制止の声を上げたシンに対し、フィニットを掴む手になおも力をこめながら、牽制するように念を押すバラトシャーデ。昂ぶる喜悦を露わにしながら、甲走った声で、何らの手も打てないシンを、いっそうなぶるよう嗤った。

「貴様もよくよく酷薄なことだ。あの娘も、俺に乗っ取られた地球人も、そしてこのガキも、貴様の因果に巻き込まれた被害者だぞ? それを目の前にして何もできず見ているだけとは……全く、全く以て酷情な奴輩やつばらだとも、貴様は!」

 ひかりを盾に取り、手出しできないようにした上で、シンを責め立て、難詰する。

 その興奮からか、フィニットの頭を掴む指節が、びきりと強く筋張った。

 更なる加圧、更なる呵責。これ見よがしにいたぶるように、ギヂギヂと不吉に軋る音が、刺さるように辺りに響く。

 フィニットとて、抵抗をしていないわけではない。最後の最後まで諦める気はない。

 けれど、今この瞬間、「全ての抵抗が徒労にしかなっていない」という現実は、あまりにも惨めだった。

「……仕上げだ。」

 最後の宣告をするように、高らかに、バラトシャーデが言う。尖り立つ鉤爪が、フィニットの頭といわず顔といわず、がっちりと固定するように突き立てられる。

「やめろ!」

 苦りすだった、懇願にすら似る声をあげたシンに、バラトシャーデは満足げな様子で身体を笑い揺らす。

 これから何が起こるのか、シンは既に察していた。

 知らないわけがない。シン自身もまた、かつてにこれと同じものを喰らっている。

 つまり、これはシンを苦しめるためだけに行われる顕示みせつけであり、示威みせしめなのだ。

「こいつはこれから、無為に殺される末路を辿ることになる。貴様の所為で、全く哀れなことだ。だが安心しろ、これが終われば今度は貴様だ。これ以上に惨めに、無為無力を思い知らせながらにじり殺してやる。無論、其処の娘の死屍も添えてやろう。己が身の因循と無様を、あの世でこいつらに詫びてやるがいい!」

 笑い揺れているのは、バラトシャーデの身体だけではなかった。

 揺れる──否、震える。フィニットの頭が、手足が、身体が、さながら痙攣ひきつれるように、がくがくと小刻みに。

 同時に、聴覚を裂くような、不快を通り越して怖気おぞけ立つような、厭悪すら覚えるが、フィニットを中心に一気に周囲の空間に拡がる。

「ひア……が……ぁあアアァ!」

 フィニットの口から洩れたのは、悲鳴などという生ぬるいものではなかった。

 感じたのは、さながら無数の棘針が押し当てられるような異常な感触。直接の打撃とは全く違う、然しそれ以上に密度の高い衝撃。そして、構造物をすり潰すような勢いで身体を砕く、苛辣からつの痛み。

 これに似たものを、つい最近、くらった覚えが──

 痛みに散りそうになる思考の中、フィニットの脳裏をよぎった既視感は、それでもすぐに思い出せた。

 超音波だ。しかも、ミディアルベで喰らったあれなど比べものにならないほど強い波形。それが、フィニットを掴み上げるバラトシャーデの手から、流し込まれるように直接ち当てられている。

 先にいびつに欠けた顔の稜線から、首へ、肩へ、腕へ胴へ奔る無数の罅。ビキビキと音を立てながら、爆ぜるように崩れ、こぼれ、欠け落ち、見る間にぼろぼろと形を失くしていく。

 フィニットの意識は今なお、はっきりとある。あるからこそ、今この瞬間にもたらされている激痛と、生きながらに我が身が崩れていく恐怖を、はっきりと感じている。

 やがて。

 パ、キ   ン

 ひときわ甲高い音がした。身体の中で何かが砕けるような、そんな音だった。

「今のはさて……中のに罅でもいったか?」

 悦に入るように、バラトシャーデが言った。フィニットを掴む手に、更なる力が加わる。

 指節に握られる内側では、既に顔の質量の半分が失われていた。もろりと崩れるかけらが、赤褐色の指節の隙間からまき散らされるように落ちていく。

 砕けかかった頭部が、首にかけて更にぐしゃりと崩れた。バラトシャーデの指節の隙間から、質量を減らした頭が、引っかかりの摩擦をなくして、ずるりとすっぽ抜ける。

 そのまま、ぶら下がる身体の自重に引っ張られた形で、身体ごと地に落ちた。

 砕け散らなかったのが奇跡に思えるほど、フィニットの身体はびっしりと罅割れていた。

 動いてよ。動かないんだ。

 動けってば。動かないんだよ。

 崩壊の激痛の中、フィニットはそれでも動こうと必死に念じ続ける。

 砕けた無数のかけらは、身体を動かしたいという意思には反応するものの、何処をどうやっても、無秩序にざわめきながら、ただちりぢりと軋り鳴るばかり。

 それは、もはや今のフィニットでは身体を動かすことすら叶わないという事実を、否応にも自覚させる音でしかなかった。

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