第10話
その日の夕食は、少し味気なかった。
此処しばらく一緒に食事をしていたふたりが、今日はいない。
勿論、それは彼等の「任務」の都合であり、仕方がないことなのだと、ひかりもわかってはいる。いるけれど、それでも、「いないとちょっとさみしい」なんて思ってしまうくらいには、ふたりといることに馴染んでいたのだ。
「……ふたりとも落ち込んでたなぁ……」
日中に遭遇した事件のせいで、予定されていた見学は、結局中止になった。ひかり自身、気分の下降が著しくて、食欲まで下向きである。
それを察してなのだろう、夕食は軽めのものに変更されていた。どうやら、シンが手配したらしい。
呟いて、ちゅるりとすする海老おろしうどん。盛られた大根おろしを箸先で崩しつつ、エビ天の衣にのせて、さくりとかじる。
相変わらず完璧な「地球食」の再現で、こんなときですら、此処が異星だということを忘れそうだ。
「任務に対しての姿勢が、まだまだ甘かったということだ。反省は必要だが、後悔を引きずるような脆弱な精神で務まるような任務でないことくらい、彼等もわかりきっているはずだろう。」
ひかりのつぶやきに返すように、蝦名が言った。無愛想さすら感じる厳しい言葉だが、今はそれに反論できるような材料もないので、ひかりも黙って聞いていた。
蝦名が口に運んでいるのはカツ重。そして肉うどん。なお、どちらも大盛りである。軽いものにしたはずなのに、いつもどおりというか、いつも以上の量を、まるでそれが義務であるかのように、黙々と食べている。
そんな蝦名に、ひかりは何か言おうとして、けれど言える言葉を思いつけなくて、結局また、ちゅるりとうどんをすすった。
あの地割れの原因は、このあいだ遭遇した巨獣より、はるかに大きな生物のしわざだったという。でも、本来はとても臆病でおとなしい性質の生物だという話も、後から聞いた。
たとえ敵性存在であろうとも、殺さないで済むものは殺さない。そんな
だからこそ、「死なせずに済むはずだったもの」を殺されてしまったことは、ふたりにとって相当なショックだったに違いない。
ひかりは直接見てはいないけれど、回収された生物はずいぶん残酷な殺され方をしていたと、シンが悲しげに、言葉少なに言っていたのを思い出す。
受けたケガを治療するため、ふたりとも今日はこちらに来られないらしい。
勿論、彼等を励ましたいとは思う。けれど、蝦名の言葉を振り返るまでもなく、彼等はこの現実を受け止めなければならない。
実際、「敵」がいなくなってようやく合流できたときのふたりの様子は、ぱっと見にもかなりひどいものだった。フィニットの状態は本当に惨憺たるものだったし、比較的軽傷で済んだノーティも、あの消沈ぶりを見る限り、たとえ顔を合わせても、かける言葉がみつからない。
だからせめて、次に顔を合わせたら、いつもどおりにしよう──ひかりはこっそり、そう決めた。
ずず、と、うどんのつゆをすする。蝦名が僅かに眉先を上げてひかりを見る。
いかにも「行儀が悪い」と言いたげな顔だったが、向こうも向こうでカツ丼を口にかき込んだタイミングだったため、それについて何かを言われることはなかった。
「……思っていたより、状況は深刻化しているようだ。」
その代わり、蝦名の無言の咀嚼が止んだあと、何処か疲れた色を帯びた、そんな言葉が吐き出される。
何が、と反射的に聞きかけて、すぐに、それが自分たちの状況の話だということに思い当たった。
深い亀裂の下で新人組のふたりが苦汁を呑んでいたあのとき、実は、上にいたひかりたちも、また別の「面倒事」に遭遇していたのである。
ガァン、と、唐突に鳴り響いた一音。
妙に耳に障るそれは、テレビドラマなどで聞く、銃の発砲音に似ていた。ただし、もっと大きくて、もっと強烈に響いてくる音だったけれど。
「どうやら、下で予想外の事態が起きたようです。……それと、」
それまで泰然と待機していたシンが、にわかに表情を険しくして、ひかりと蝦名に告げる。続けた言葉が途切れるより先、シンは虚空を見据え、僅かに低く身構えた。
驚いてそちらを見れば、其処には、地球人の初老男性に準じる顔立ちの、黒ずくめの男の姿。
丁寧になでつけられた白髪、丹念に整えられた白い
一分の隙もなく、かっちりと身に着けた黒の礼装と、同色のフロックコート。微塵の汚れもない真白の手袋で
見れば見るほど、映画にでも登場しそうな「完璧な英国紳士」といった態である。
「どうも、お初にお目にかかります。」
その完璧な英国紳士が、歯切れよく丁寧な言葉で挨拶してきた。
「どちらさまでしょうか。見たところ、この星の者ではないようですが。」
「いささか不躾な登場にて、誠に失礼致します。ゆえあって今は名乗るわけには参りませんので、どうぞ御容赦下さい。とはいえ、急かれる必要はありません。いずれ
ひかりと蝦名を背でかばうように立ったシンが、静かに平らかに問いかければ、黒の紳士もまた、生真面目な顔で、静かに平らかにそれに答える。
「ただいま少々込み入っております。できれば、あなたの仰るその先の機に、改めて出直して頂ければありがたいのですが。」
「可能であればそうさせて頂くところですが、残念ながら、当方にも少々の事情がございまして。そちらの御要望に沿えず大変心苦しくはありますが、どうか今しばらく、わたくしとの雑談に御興じ頂ければ幸いです。」
「雑談で済むような御用件でいらしているとも思えませんけれど。」
「それについては御安心下さい。今回に関しましては、危害を加えるつもりなど毛頭ございません。わたくしはただ、僅かばかりの間、貴公のお時間を頂戴できればよいのです。」
「……或いはそうかと思いましたが、やはり、足止めですか。」
「御明察にございます。」
一見穏やかに交わされている会話はしかし、両者の尋常ない緊張の糸の上に行われていた。端から見ているひかりにすら、その張り詰め具合が感じ取れる。
これって、すごくマズい状況なんじゃ。冷や汗が流れるような感覚を覚えながら、シンの背の向こうに見える黒い紳士を観察する。
真面目そうな顔のおじさんというか、おじいさんというか、ともかく、ぱっと見には全然、悪いヤツっぽい要素は感じられない。ただ、あんまり融通は利かなさそう、という印象を受けた。
横の蝦名も、厳しい顔でそのやりとりを凝視している。文官職といえど、地球防衛の組織人である以上、それなりの訓練は受けているはずだ。敵を目の前にして、気を抜くわけがない。
「それで、あなたがたの目的は?」
静穏且つ不穏なやりとりは、なおも続いている。
あなたがた? シンが、黒い紳士に向けて発した呼びかけに、ひかりはふと気付いた。
そういえば、足止めって言ったよね?
この状況でシンが足止めされる理由など、ひとつしかない。つまり、この下にいるふたりのところにも敵が現れていて、それを邪魔させないようにしているということだ。
ふたりは大丈夫なんだろうか。さっきの銃声を思い出して、落ち着かない気持ちでいっぱいになる。
かといって、非力な自分に何ができるわけでもない。実際、今こうして、シンの後ろに守られているだけのことが、ひかりのせいぜいの現実だ。
「目的については、これも重ね重ね申し訳ありませんが、わたくしからお答えすることはできないのです。ただ、既にお察し頂いておられるかとは存じますが、襲撃についてはこれが最後でもありません。」
「……この先もまだある、と?」
「はい。まだ少々、続けさせて頂く予定にございます。」
シンの問いに、黒い紳士が、生真面目な態度で答える。もっとも、其処に示された内容は、聞く側には何の安心ももたらさないものだったが。
「それは困ります。荒事は好きではありませんが、そちらがこれ以上の害意を示すならば、此処であなたを捕らえることも、或いはやぶさかでなくなります。」
宣戦布告にも等しい言葉を告げた黒い紳士に、ひやりと薄寒い色をまとう声で、シンが告げる。
告げて、身体を半身にひねり、腕を弓引くような形で、肩の後ろに伸ばした。その手の先には、白い光が薄く揺らめいている。
「貴公の実力のほどはよく存じております。当然、わたくし如きが渡り合える相手ではないことも重々に。ですが、」
シンの動きに応じるように、黒い紳士は黒杖を自身の前にかざした。真っ黒に見えていた杖の握りが、ぼわりと赤黒く輝き出す。
「彼等を守りつつ、わたくしを捕らえるというのは、いささか難しいのではないでしょうか。」
黒い紳士の言葉に、そうだった! と、ひかりは思わず足許を見た。
すっかり忘れていたが、自分たちが今立っているのは、正真正銘の空中である。黒い紳士の言うとおり、シンのバリアが床板のように張られているからこそ、何事もなく立っていられるのだ。
守られているどころか、これではむしろ、足手まといになっているようなものだろう。
「確かに簡単ではありません。ですが、たとえどんなに難しくとも、ものごとには、為さねばならないときがあります。」
言いざま、シンが手を横薙ぎに振った。手から離れた白光は、数多の矢のように散開し、黒い紳士の身体を
「これは先手を打たれました。さすが、活動員の中でも屈指の手練れと称されるだけのことはありますな。機を見るという点において、誠に長けていらっしゃる。」
自身を絡め取る
そのまま、僅かに自由に動く手で握り持つ黒杖を、ゆらりと揺らすように振り動かす。
ごく小さな動作だった。だが、変化は歴然だった。
杖の先に
次の瞬間。
ガラスが割れるような、高く硬質な音。それと共に、黒い紳士を縛っていた白い光の輪は、砕けるように散り消えた。
「……お言葉の割に、随分とやさしい御対応をなさいますな。」
「あなたにおとなしく捕まって下さる意思があれば、この程度でも十分事足りたのですけどね。」
衣類に付いた塵を
シンは、心底困ったように肩をすくめ、溜息めいた口調でそれに返ずる。
「まさか
「我々としては、誰とも争うことなく友好的でありたいと思っているのですが。」
「そういうわけにもいかないのは、十分に御承知のはず。今此処に敵として在る我々は、これまで貴公たちが地球と地球人を守ってきたことに対する、その代償ともいえる存在なのですから。」
「……それでも、わたしたちはそれを選んだのです。」
黒い紳士に、シンが
シンの手にもう一度、白い光が揺れた。先刻奔らせたものよりもはるかに強く、燃え立つ焔のような輝きを帯びている。
再び、弓引くように矯められた腕が振り抜かれようとした、まさにその
「……なるほど。だからこそ貴公は、非情であることも辞さなかったわけですか。たとえひとつの命を摘むことになろうと、それで守るべきものを守れるならば、と。」
顎髭をなでしごきながら、黒い紳士はしげしげと頷き、納得したように告げた。言って、シンに向けていた視線を、僅かに外す。
その視線が改めて向いた先は、シンの背後の――
シンが、ひたりと動きを止めた。ひかりの位置から顔は見えないが、その肩に、背に、何処か動揺しているような気配が窺える。
命を摘む。それが何を意味する言葉なのかは、ひかりにも理解できる。だからこそ、シンの様子に、これ以上なく思い当たるものがあった。
それって、もしかして。
「あぁ、下での用も済んだようです。そろそろ良い頃合いでしょう。では、わたくしもお
そんなひかりの思考が、黒い紳士の唐突な言葉で中断させられる。はっと我に返れば、まるで、此処では何事も起こらなかった、といった態で平々坦々と一礼する黒い紳士の姿。
呆気にとられるひかりの視界の中、シンの手が、
それはいったい、どんな道理によるものなのか。今の今まで、確かに其処にあった黒の紳士の姿は、まばたく間すらないうちに、
「……正しく、足止めされてしまいました。」
ややの間をおいて、シンが重く
そのときのひかりは、其処にかけるべき言葉など、勿論持ってはいなかった。
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