第02話

 名を呼ばれたからだろう。黒をまとう人――シンが、再びひかりに視線を向ける。

 今この場の状況を考えれば、場違いに思えてきそうなほど、穏やかな表情に、一見地味もいいところな黒縁の眼鏡。そのせいで、造作の割にひどく地味な印象が拭えない。

 それでも、眼鏡のレンズ越しにひかりを見る、細糸のように微笑む目。

 やわらかく、やさしく、穏やかにひかりを見るシンに、あの、と声をかけようとして、しかしそれは叶わなかった。

「それで、現況は?」

「対処済み七体、残存五体ですが、このうち三体もほぼ鎮静化できています。」

 端的に状況を問うゾハールに、シンもまた端的に答える。

 うずくまるひかりの頭上で矢継ぎ早に交わされる会話は、この場が手放しで安心できるものではない、ということを示していた。

 とてもじゃないが、気軽に声をかけられるような雰囲気ではない。

 ひかりは、んぅ、と困惑の声を漏らしながら、会話するふたりを見上げた。少なくとも、まだ言葉を差し挟めるような状況ではなさそうである。

 そのとき、ひかりの視界、シンの背の向こう側で、何かが動いた。

 一瞬、景色そのものが動いているようにも見えたが、すぐに違うとわかる。

 動いているのは、遠景をさえぎる巨大な影――いや、巨大なだ。

「……何あれ……」

 全く予想外のものを前にして、ひかりは目をまんまるに剥く。思わず唖然と呟けば、隣の蝦名もほぼ同時に、「あれは何だ」と、うめくように呟いていた。

 ひかりの通っている高校は、四階建ての校舎である。多分、それよりも更に大きい。其処から考えるに、あれは恐らく、一五メートルから二〇メートルくらいあるのではないだろうか。

 太い錘形状の頭部には、大きく尖った額角がっかく。深く切れ込むように裂けた口腔は不規則に開閉し、サメやシャチのそれを彷彿とさせる牙が上下の顎に無数に覗く。

 眼孔は大きく隆起し、黄色くぬめった目玉が、ギョロギョロと辺りを見回すように、しきりに動いている。

 頭部に繋がる胴は小山のように大きく、それに生える大木のような巨大な四つ足もどっしりと太い。

 そして、それをびっしりと覆う、鋼鉄のような質感の黄褐色のウロコは、まるで、頑丈な鎧のようだ。

 動物にたとえるなら、形自体はサイに近い印象だと思う。

 だが、重く叩くように踏み鳴らす跫音あしおとと、ガアともギャアともつかない、低く割れるような叫び声をあげるそれは、どう見ても、サイのようなおとなしい草食獣っぽくはない。

 呆然とする地球人のふたりを後目しりめに、ナマートリュのふたりの方は、平静な様子でそれを見上げている。

「ひとつ訊くが。」

「何ですか。」

は、報告のどちらの数に入っている?」

「対処済みの方です。」

「まだ動いているが。」

「あなたがもうちょっと働いてくれてたなら、その数になってたでしょう。」

「そうか。ならば誤差の範疇だ。よろしくな。」

「わたしですか。」

「頼りにしているからな。」

 軽い調子のゾハールに対し、何処か非難めいたものをこめた口調で、シンが返す。もっとも、ゾハールはそれすら軽く流してしまったが。

 やれやれ、とでも言いたげな困り顔をひとつ。シンは眉尻を下げて溜息でもつくように肩を落とすと、そのまま、弾みをつけるように軽く身を屈める。

 次の瞬間、シンの身体は空高く舞うように跳んでいた。

 見ていたひかりの首が、シンの動きを追ってつられるように仰のく。

 追った視線の止まった先は、あの巨獣の鼻っ面、その僅か上。

 何もないその中空に、地面へ立つのと何ら変わらないごく自然な態で、シンが

 巨獣の黄色い目玉が、シンを捉える。突如現れたものを確かめるように、寸刻動きを止める。

 凝視の視線は、目の前にあるシンの存在を、自らを害するだけの力を持った脅威だと認識した。それどころか、シンを見据えるようにギロリと剥いた目には、排除すべきものへの明らかな敵意が、ありありと見て取れる。

 しばしの静止、その直後。

 巨獣が、突如として自分の頭を胴にめり込ませ始めた。亀が首を縮こめる仕種にも似たその動きは、しかし、決して防御の姿勢などではない。

 分厚いウロコに覆われる体躯の、腹から咽喉へかけての表皮に、何かが逆流するような不規則な波打ちが現れる。同時に、錘形状に尖る口蓋こうがいが裂けるように開いていく。

 真っ赤だった。

 無数の牙の生える口蓋から、咽喉の奥の奥まで、燃え盛る炎が渦巻いて、劫劫ごうごうと真っ赤だった。

 大きく開いた口の中のみならず、巨獣の首周りの空気が陽炎かげろうのようにゆらゆらと揺れ始める。とてつもない温度が其処にあることを、如実に示していた。

 そしてついに、かくたる劫火の炎塊が、中空に立つシンへ向かって放たれる。

「あれってさっきの……!」

 思わず叫んだ。自分たちに向けて打ち込まれていたあの攻撃が、一体どんなもので、どういうふうに作り出されたのか、ひかりはこれを見て瞬時に理解した。

 守られていたとはいえ、あの火の玉の威力はとんでもなかった。なのに、シンは自身の背丈の倍は越えよう大きさのそれを、避ける仕種さえせず正面から真迎える。

「シンさんあぶない!」

 見上げるひかりが声をあげる。隣の蝦名も、驚きと疑問の顔で眉間に皺を寄せて目をこらしている。

 無論、それに対して、シンは無手ではなかった。

 自身の前に両手をまっすぐかざす。両の手のひらに、強く輝く小さな光のかたまりが生まれる。それが、巨獣の吐き出す火の玉へ向けて、まっすぐ放たれる。

 光のかたまりは、先ほどの平らな光の壁とは違い、扁平へんぺいに近い球状に見えた。たとえるならば、凸レンズのような形だろうか。

 キュウンと高い音をたてながら、それは円盾のように拡がった。直後、剛速の勢いで飛来した火の玉が、それにち当たる。辺りが一瞬真っ赤になった。

 爆音を轟かせて弾けた火の玉は、しかし一発にとどまらない。

 巨獣が次々と吐き出す弾丸のような炎熱があふれ返り、シンの周囲を、空気ごと赤く焼き染める。

 はたして、一体どれだけの数になるのか。想像を超えた光景に、唖然茫然の顔でひかりがぽかんと口を開く。

 だが、当事者シンは相変わらず、何処までも落ち着いた様相だった。まるで、数の多寡たかなどさしたる問題ではない、とでもいうように。

 事実、巨獣の口から延々と吐かれていた火の玉が、やがて、徐々に息切れのようにとぎれ始めた。

 シンの手から発される光も当然、その堅牢さを落としてはいない。だがそれ以上に、火の玉の威力そのものが落ちてきているようだった。

 かざしていた手をゆるく引き、シンはそのまま、自身の指先をそっと丸めるように動かす。

 すると、今までどれほどの火の玉を食らっても揺るがなかった光が、明るい輝度の稜線を帯びたまま、風船のように丸くふくらみ始めた。

 ふくらみながら、放物線を描いて落ちるような風情でふんわりと落ちていく。

 落ち行く先は、炎熱を吐く巨獣の頭。

 薄膜のように拡がった光に、頭部をすっぽりと覆われた巨獣は、それを嫌って激しく暴れ始めた。前足で頭を掻きむしり、額角ごと地面にこすりつけ、己の頭にまとわりつくものを引き剥がそうと必死に抵抗している。

「何か……コンビニ袋に頭突っ込んだ猫みたい……」

 何となく頭に浮かんだイメージを呟いたのは、以前にそんな動画を見たのを思い出したからだ。

 勿論、これがそんなかわいい光景でないことは一目瞭然だろう。ただ、人はときとして、見知らぬものや見慣れないものを、自分の知っている何かにたとえることで、安心感を得ることがあるという。

 暴れる巨獣が、やがて、ギュァン、と一声哭いた。光の膜をはがそうと吐いた炎熱で、自らの頭を焼いてしまった苦悶の声。

 どうやら、あんな炎熱を吐くことができても、自分がそれに強いというわけではないらしい。

 やがて、どうっと地響きをたてて、巨獣が倒れる。自分の炎熱を浴びた頭は、額角も含めて半分以上が焼けただれ、その口から吐くものも最早、うめくようにかすれた哭き声のみ。

 シンのかざした手が下ろされると同時、巨獣の頭を覆う光の壁も、また消えた。

 漂うような風情で立っていた中空から、ふわりと舞い降りるような速度で降りてくると、再び倒れ伏す巨獣に近付く。

 焼けただれ、部位によっては焼結してしまっている顎の先。閉じることもできないで、力ない声を上げるその口許に、シンは迷うことなく手を伸ばした。

 何してるんだろう。ひかりの位置からでは、シンが背を向ける位置になるために、それを見ることはできない。ただ、巨獣に触れるシンの手が、ゆるやかに慰撫するように動いているということは、何となくわかる。

「何が、どうなったんだ。あの化け物はもう無力化されたのか?」

 蝦名が、自分を気付けするように何度も首を振った。思考を状況把握のそれに切り替えながら、ゾハールへ問い質すように声を上げる。

「そのようです。」

 それに対して、ゾハールは落ち着いた様子で答えた。

 出た言葉こそ仮定の態だが、を行ったシンの手腕に全幅の信を置いているだろうことが、その落ち着きぶりから窺える。

「何故、完全に仕留めないんです?」

「どのような生物であろうと、殺さずにすむならばそれに越したことはありません。」

「ですが、あれがまた起き上がって攻撃してきたら?」

「あなたの言われる無力化とは、それがないようにすることも含めての言葉であると思っておりますが。」

「対象が完全に沈黙して初めて無力化したと言えるのではないですか? 動き出す可能性が僅かでも残る以上、脅威存在は徹底して無力化し」

「……蝦名さん。そーやってすぐ人に突っかかってくの、やめた方がいいと思います。」

 ゾハールに対し、なおも当たり強く詰問する蝦名の態度を見て、ひかりはまたしてもイラっとした気持ちを我慢できなくなった。

 むぅ、と口を尖らせ、はっきりとした非難の色を顔に出して蝦名を見る。

 一瞬呆気にとられたような顔をした蝦名だったが、すぐにひかりの言葉の意味するところを理解したらしい。不機嫌に口をへし結び、やれやれ、といった様子で肩をすくめて、溜息と共にひかりを睨みつけた。

「君のような分別のない子供にはわからないだろうが、責任ある立場である以上、確実性を求めるのは当然のことだ。」

 蝦名が言っていることは、多分正しい。刺々しい物言いは気に障るが、言っていることはそんなに的外れなものでもない、とは思う。

 けれど、ひかりは蝦名のこの態度こそ腹立たしかった。こんなときでさえ正論ぶって、どうでもいい粗探しをしているようにしか見えなかった。

「子供だからとか関係ないでーす! 責任は確かに大事ですけど、何よりまず、この人たちに守って貰ったんだってこと、蝦名さん忘れてません? それなのに、感謝の言葉のひとつも言わないで文句だけは山盛りとか、それこそ分別や責任のある大人の行動じゃないと思いまーす!」

 大仰に煽るように言うひかりを、蝦名が睨みつける。怯むことなく、ひかりもキッと睨み返す。

 蝦名が言うのは理の正論、ひかりが言い返したのは情の正論。どちらも正論には違いなく、優先すべき部分の判断が違うにすぎない。

 だからこそ、会話は平行線になる。

 結局、睨み合いの沈黙は、蝦名の舌打ちのような溜息で終わった。

「……我々の安全を最優先に図って頂いたことは、感謝します。」

 いかにも不本意そうな様子ではあったが、それでも蝦名が自ら折れる形で、ゾハールに謝意を述べた。

 個人的な感情はともかく、今この場に自分たちがいるのは何のためか、という目的を見失っているわけではないということ。

 そして何より、己よりも年下であるひかりに諭されるという状況を恥じてのことだろう。

 まぁ、ひかりとしても「ちょっと言い過ぎたかな」と思わなくもない。だからといって、前言撤回する気はさらさらないけれど。

 それでも、蝦名が態度を改めたので、それ以上睨み返すのはやめた。

 肩から力が抜ける。はあぁ、と気抜けた声の息が漏れる。今の今になってようやく人心地がつき、ひかりは改めて、きょろきょろと辺りを見回した。

 周囲にもうもうと立ちこめていた土煙も収まり、徐々に遠いところまで見えるようになると、遠くに別の巨獣の姿が見えた。

 思わずぎくりとしたが、そちらも既に対処済みらしく、自分たちの方に影響が及ぶことはなさそうだ。

 蝦名ともどもその光景を眺めて、自分たちがどんな状況にあったのか、今更ながら改めて想像したひかりは、思わずぶるりと肩を震わせた。

「大丈夫ですよ。」

 不意にかけられた声と共に、あたたかなものが、ひかりの肩に触れる。

 驚きに振り向けば、はたしていつの間にいたのか、ひかりの横に、シンがそっと立っていた。

 最初の印象とまるで変わらない、やさしくやわらかい目で。

 それを見た瞬間、安心感から、ほんのり涙目になってしまったひかりの頭を、ぽんぽんとシンがなでる。

 それはまるで、怖がる子供をあやすようなやさしい仕種だった。だからひかりも、ほっと息つく心地で、大丈夫です、と笑って答えた。

 やさしくいたわるようなこの手の感触を、ひかりは記憶の何処かで、知っている気がする。

 ただ、今のところ、懐かしさにも似たそれが何なのか、はっきり思い出すことはできなかったけれど。

 蝦名の方はといえば、いつの間にか近くにいたシンに、ぎょっと目を剥いていた。怪訝と剣呑を帯びた顔で、不満げに何か物申したそうな様子ではあったが、結局、何かを言ってくるようなことはなかった。

「向こうも派手にやったようだな。」

「あちらには、っています。」

「これが就任後初の実戦となるが、さて。」

「彼等なら大丈夫でしょう。むしろ、後から物足りないと文句でも言い出すかもしれませんが。」

 すました口調でしれりと付け足されたシンの言葉は、ゾハールの口許に笑みを浮かべさせる程度の効果はあったらしい。

 彼等の間に交わされる言葉には、ずいぶんと余裕があった。其処から考えるに、差し当たりの危機は全て回避されたと考えていいのだろう。

 そんな彼等を、ひかりは、ただただ眺めていた。眺めながら、やっぱりイケメンは何しててもイケメンよね、と、すっかりそれまでの調子を取り戻していた。

 つまるところ、年頃の少女というのは、意外とタフで現金だ、ということなのだ。



「あーあ、数は少しばかり多めに用意したけど、やっぱりザコじゃ話にならないか。」

 軽薄な、おどけるような声が響いた。

出入口ゲートの媒介が不完全である以上、多くは望めません。威力偵察程度ならば、これで十分です。」

 低音の、如何にも生真面目な声がそれに返した。

 赤く黒く明るく暗い、何処ともしれない空間。その空間の只中で、雲を集めたような不定形状壁面に映し出される映像は、巨獣がリテラを襲撃しているそれである。

 映し出される映像の前に、男がふたり、立っていた。

「あっちはホームで、こっちはビジター。わざわざ不利な場所にボクたちが出ていく必要はないワケで。……とはいえ、やっぱりボク自身の手でりたいところだけど。」

 白のスーツに同色のボルサリーノハットをかぶった若い男。顔立ちは彫刻された男神像のように精悍で端正だが、其処に浮かべるにやけ笑いは、端正とは程遠い奸悪かんあくさを露呈している。

「我々の当座の目的は、あくまでも、が動き出せるまで彼等の目を逸らすこと。適当に陽動を繰り返し、彼等の警備をこちらに引きつけておくためです。出るのは準備が整ってからで十分。主の命は絶対です。自重なさい。」

 もうひとりは、黒のフロックコートを羽織って赤黒い石のはめ込まれたステッキを持った、初老の男。厳格な物言い、ぴしりと伸ばされた背、丹念に整えられた顎鬚ビアード。こちらは全てが完璧な紳士といった様相で、にやけ笑いの男とは全く正反対の印象を醸している。

「ま、にはせいぜい派手に頑張ってもらって、できれば最終的には共倒れでもしてくれるとありがたいね。」

「こちらとしては、労せず漁夫の利を得ることが最も合理的。効率的に戦力を削ぎながら、我々の目的を達するよう動くことです。故にこそ、お前も余計な手出しはせぬように。」

「わかってるって。相変わらずおカタイね、アンタは。」

 映し出されていた巨獣の、最後の一頭が対処されたところで映像がぼやけ、もやが風に吹き消えるように、そのまま消えた。

 それに何等の意を払うこともなく、ふたりの男もまた、ごく当然のように消えた。彼等のいた空間は、そして誰も知らぬ場所となった。

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