第35話 -奇病12-


 第35話 -奇病12-


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「お母さま?」


 電話を終えた僕に上田恭子が話し掛けてきた。


「ええ、そうです」

「こちらに来られるの?」

「そう言ってました」

「じゃあ、あなたの実印を持ってきていただいたら?」

「確かにそうですね……後でそう伝えておきます」

「雄一君、今日はもう帰ってもいいわよ」

「え? でも、まだ2時過ぎですよ?」


 部屋の奥の壁に掛かっている丸いアナログ時計を見ると針は2時10分あたりを指している。

 つまり、午後2時過ぎだ。定時である午後5時まで、あと3時間近くあった。


「課長には、あたしから言っておくわ。このところ、ずっと働きづめだったのだから、今日くらいは早めに帰っても問題ないわよ」

「でも、まだゾンビも発生しているのに……」

「何かあったら、携帯に連絡を入れるわ。雄一君が何処に居ても貴方の使い魔に指示をすることはできるのよね?」

「はい、それは大丈夫です」

「じゃあ、帰って休んで頂戴」

「分かりました」


 僕は、そう言って帰り仕度を始めた――。


 ◇ ◇ ◇


 それから僕は、葛飾区にある自分のアパートへ戻った。


 まずは、秀雄の携帯にアパートに帰宅したという内容のメールを送る。

 すぐに返信が来た。

 秀雄からのメールには、午後4時過ぎにここへ来るという内容が書かれていた。

 秀雄の業務は朝が早いので、定時前に退庁することが多いようだ。

 それでも、この一週間は、遅くまで残業していたという話だ。

 普通の人間には、かなりの激務だったのではないだろうか?

 秀雄は、人間だった頃の僕よりも遥かに体力がありそうに見えるが……。


『今の僕なら、どんな激務にも耐えられるだろうな……』


 僕は、刻印体――【大刻印】を刻んでアバター化した体――の利点を改めて認識した。


 秀雄が来るまで、まだ1時間以上ある。

 僕は、電源タップのスイッチを入れた後、パソコンのコンソールがある机の椅子に座り、机の下に置いてあるデスクトップパソコンの電源スイッチを押した。

 一週間ぶりに電源を入れたデスクトップパソコンは、ウォーンと一瞬CPUファンが最大回転速度で回った後、静かになりモニタにOSの起動画面が表示された。


 すぐにデスクトップが表示されたので、メールクライアントを起動してメールのチェックを行う。

 ネット通販ショップからのお知らせに混じって、美少女フィギュアのオークションを再開して欲しいという要望メールが届いていた。

 世間は、ゾンビで大変なことになっているというのに気楽なものだと反感を抱いてしまうが、それは、僕がこの一週間、内調でゾンビ問題に対応していたからだろう。


 この国の大半の人から見れば、無関係なニュースに見えるのだと思う。日本のどこかで震災があったような扱いだろうか。

 僕だって、異世界に飛ばされていなければ、同じ東京で起きている事件でも他人事だったかもしれない。

 それどころか、今頃はゾンビ化して街を彷徨っていた可能性すらある。

 僕たちが食い止めていなければ、被害が拡大していただろうからだ。


 それから僕は、ウェブ小説などを読みながら時間を潰した――。


 ◇ ◇ ◇


 ――チャラン♪ ユーガッメール


 メールが着信した。

 背広の内ポケットからスマホを取り出してみると、秀雄からのメールだった。

 内閣府の庁舎から出て、こちらに向かっているという内容だ。


 僕は、「了解」と短い返信を送った――。


 ◇ ◇ ◇


 ――ピンポーン♪ ピンポーン♪


 秀雄のメールから30分くらいが経過した頃、玄関のチャイムが鳴った。


「はーい!」


 パソコンの置いてある机の椅子に座っていた僕は、立ち上がって玄関に移動する。

 解錠して玄関のドアを開けた。


「こんばんは、ユウちゃん」


 外は、まだ明るいが、秀雄はそう挨拶をした。


「いらっしゃい。とりあえず上がって」

「お邪魔します」


 秀雄が靴を脱いで部屋の中へ入っていく。

 僕は、玄関のドアに鍵を掛けてから戻った。


 背広の上にコートを着た秀雄は、革製の鞄の他にコンビニのレジ袋を下げていた。

 見たところ缶コーヒーが4本入っているようだ。


 またしてもエアコンを点けるのを忘れていた。

 普通の人間である秀雄には、この部屋は寒いだろう。


『ロッジ』


 携帯が圏外になるので、『ロッジ』の中に入るのは不味いかと思ったが、短時間なら大丈夫だろうと思い、『ロッジ』の扉を召喚する。


「ここは寒いから、中に入って」

「分かった」


 ――ガチャ


 秀雄が扉を開けた。


「涼子!?」


 秀雄が『ロッジ』の扉を開いたままの姿勢でそう言った。

『ロッジ』の中に居る水谷を見て驚いたようだ。

 そして、『ロッジ』の中にフラフラと入っていく。


 僕は、パソコンをシャットダウンしてから『ロッジ』の中へ入った。


 扉を閉めてから『アイテムストレージ』へと戻す。

 見ると秀雄が呆然とした表情で立っている。


「ヒデちゃん、座ったら?」

「……あ、ああ……」


 秀雄がコートを脱いで近くの長椅子に座った。


「ユーイチ!」

「お兄ちゃん!」


 水谷と優子が僕のほうへ駆け寄ってきた。


「ただいま」

「お帰りなさい」

「お帰り、お兄ちゃん」


 二人は、笑顔でそう答えた。

 しかし、これは演技に過ぎない。

 僕がこの一週間、空いた時間を利用して彼女たちにこういう風に振る舞うよう指示した結果なのだ。


「ユウちゃん、どういうこと?」

「この二人には、記憶がないんだ」

「うん。ゾンビになったからだよね?」

「そう。だから、生前と変わらないよう演技してもらうことにしたんだ」

「じゃあ……」

「涼子姉ぇのことは、僕よりヒデちゃんのほうが詳しいだろうから、これからはヒデちゃんが演技の指導をしてあげて」

「ええっ? それは困るよ……」

「どうして?」

「仕事が忙しいから、そんな時間ないし……オレには、自信がないよ……」

「僕は、高校の同級生に過ぎないからね……」

「でも、オレが涼子と付き合いだしたのは、去年の10月からだよ? ユウちゃんのほうが付き合い長いでしょ?」

「といっても、僕が知っているのは高校の頃の水谷だしなぁ……今の涼子姉ぇのことはヒデちゃんのほうが詳しいと思う」


 えて、高校時代の水谷を「水谷」と呼び、現在の水谷を「涼子姉ぇ」と呼んだ。

 現在の水谷は、高校時代の彼女に比べ大人っぽくなっているため、僕の中では別人に近い印象なのだ。

 高校時代の水谷は、裸で男を誘惑するようなタイプには見えなかった。さばけた性格で女子が苦手な僕でも話し易く、それほど異性を感じさせないタイプだったように思う。かと言って、男友達のような存在だったわけではない。


「……分かった。で、どうすればいいの?」

「とりあえず、これからのことを相談しよう」


 僕は、そう言って、秀雄が座るテーブルの反対側に移動した。

 そして、長椅子に座る。

 水谷と優子は、僕の後についてきて背後の左右に立っている。


「二人とも座って」

「ええ」

「分かった」


 僕の左右に二人が座った。

 左側に水谷、右側に優子だ。


 僕たちが席に着いた後、秀雄がコンビニのレジ袋から缶コーヒーを取り出してそれぞれの席に配った。

 缶コーヒーは、ブラックではなく微糖タイプのようだ。


「ありがとう」

「「…………」」


 二人は無言のままだ。


「こういうときには、笑顔で御礼を言って」

「「ありがとう」」


 ゾンビの二人がハモった。

 表情は、僕の位置からでは確認できない。テーブルに上半身を乗り出して振り返れば分かるが、秀雄が居るのでそんな奇行を行う気にはなれなかった。


「ユウちゃん。この後、一緒に涼子のアパートへついてきてくれる?」

「分かった」

「それで……。涼子は、ユウちゃんたちが始める会社へ転職させるんだよね?」

「そのほうがいいでしょ? 優子もそうするつもりだし」

「記憶が無いんじゃ、仕事を続けるのは難しいだろうからね」

「それに健康診断とかもクリアできないよ」

「なるほど……」


 水谷と優子は、ゾンビ化してしまったので、人間の体ではないのだ。

 基本的には、僕と同じ刻印体だった。


 僕は、この一週間、二人に自然に振る舞うよう演技指導をしていたが、二人を抱いてはいなかった。

 とてもそんな気分にはなれなかったのだ。

 優子には、たまに抱くように約束させられたが、意志のないゾンビになってしまった優子を抱く気にはなれない……。


「それで、涼子姉ぇのアパートに行った後はどうするの?」

「退職届の書類を総務で貰ってきたから、涼子に書いてもらうつもり」

「文字を書くことができるかなぁ……? 筆跡も違うだろうし……」

「記憶が無くなるというのは、どの程度なの?」

「それが、分からないんだよね。ゾンビ化した後に使い魔にしたんだけど、その時点では会話することもできなかったから」

「え? 言葉もユウちゃんが教えたの?」

「いや、ユリコもそうだったんだけど、モンスターを倒して経験値を稼いで成長したら、会話できるようになったんだよね。ゾンビを倒したから二人とも成長したみたい」


 本当は、トロール討伐で成長したのだが、それは明かせないのでゾンビで成長したことにする。


「そう言えば、前に聞いたかな……。じゃあ、文字は?」

「それは、試したことがないな……」

「試してみよう」


 秀雄は、そう言ってポケットから手帳を取り出し、背広の内ポケットに差していたノック式のボールペンと一緒にこちらに差し出した。

 僕は、それを受け取って、白紙のページに「水谷涼子」と書いた。

 そして、水谷の前のテーブルに置く。


「涼子姉ぇ、同じように水谷涼子と書いてみて」

「分かったわ」


 水谷がボールペンを取り、さらさらと書きだした。

 見ると、僕よりも達筆な字で「水谷涼子」と書いている。


「おお、ちゃんと書けるんだ」


 僕は、手帳とボールペンを取って、今度は優子の前に置いた。


「優子も書いてみて」

「分かったわ。お兄ちゃん」


 優子が手帳に「水谷涼子」と書いた。

 見ると、筆跡が水谷とは違う。


「筆跡が違う……」

「もしかして、生前の記憶を呼び出しているんじゃない?」

「そうかもね……」

「だったら、記憶が戻る可能性もあるんじゃ?」

「それは、あまり期待しないほうが……」


 記憶は、種類によって脳内で格納されている場所が別れているようだ。

 例えば、言語の場合だと言語に関わる部位があるという話を聞いたことがある。

 そのため、思い出などの記憶が戻るかどうかは分からない。

 そもそも、今の水谷と優子は、元の人間の体とは全く違うアバターのような刻印体なので、刻印体になったときに不要な記憶が消失していたとすれば、元々存在しないため回復することはあり得ないだろう。


「そうだね。ユリコさんだっけ? 彼女の記憶も戻ってないんでしょ?」

「ゾンビ化した後の記憶はあるみたいなんだけどね……」

「…………」


 僕と秀雄の間に沈黙が流れた。


「あ、ユウちゃん、よかったら飲んで」

「ありがとう……」


 僕は、缶コーヒーを開けて少し飲んだ。

 まだ、ほんのりと温かい。


 そして、水谷と優子の缶を開ける。


「二人も飲んで」

「ええ」

「分かった」


 ゾンビの二人が缶コーヒーを飲み出した。


「飲食は可能なんだ……?」


 秀雄がそう言った。

 缶コーヒーを人数分買ってきた秀雄だが、ゾンビが飲み食いするとは思っていなかったようだ。


「別に食べなくても問題ないんだけどね。それは、僕もだけど……」

「それで、涼子のことだけど、どうすればいいかな?」


 秀雄が話題を変えた。


「涼子姉ぇの希望では、ヒデちゃんに任せるそうだよ。ヒデちゃんに結婚したい女性が現れるまでは、恋人として側に置いたら?」

「涼子と結婚するのは、マズいんだろうな……」

「子供を産めないからね」

「…………」

「涼子姉ぇのことは、ゆっくり考えればいいと思うよ」

「分かった……」

「じゃあ、涼子姉ぇのアパートに行く前に晩飯にしよう」

「まだ、早くない?」

「今日は、あまり時間が取れないから早めに行動しようと思って」


 そう言って、僕は【料理】スキルを使って食事を出した――。


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