僕の道~探していたもの~
朝森真理
僕の道~探していたもの~
幼少の頃から、親の求めるまま生きてきた。
親が希望した学校へ通った。
自分の世界はとても狭くて、家と、学校が全てだった。
友人も、同じ学力の者達の中から、親が良いという者達との交流しかしていなかった。
親が少しでも気に入らないと言えば、交流を絶つこともしばしばあった。
それで良いと思っていたのだから、今思えば、自分も愚かだったと思う。
自分は長男では無く、次男でも無く、三男として生まれた。
物心ついた頃には、長男と次男はどこにもいなかった。
長男は、病死。
次男も病死。
召使いの者達も、皆同じように、口をそろえて、二人の兄については、不幸な病死だったと言っていた。
そのせいか、三男としてこの家に生まれたが、長男として変わらないような状態で育っていた。
兄が病気に倒れて、二人もいなくなったのだ。
両親からすれば、跡継ぎが二人も病気でいなくなったというのはつらかったに違いないと、子供心に、自分は親の事がかわいそうだとも思っていた。
そう思う事によって、両親に対して何かしらの優越感というものを持っていたのかもしれない。
すごく小さな優越感だが、それが、とても大きな、大事な気持ちに思えた。
最後の希望だと、両親が言っていたのを、子供の頃は、期待されていると感じ、期待に応えようと、必死に頑張っていた。
頑張れば頑張るほど、結果は良い物に変化し、成績表を見せた時の両親の喜びも大きな物になっていった。
喜ぶ両親の表情を見て、言葉を聞いて、満足していたのだ。
期待されている事に喜びを見出していた。
両親に必要とされている自分が誇らしいとも思っていた。
もっと、ほめられたい。
そう思うようになった。
それからは、勉強だけでは無く、体も鍛え、音楽も学び、全ての科目の点数が高くなるよう努力した。
努力し、それが結果になって出てくると、両親も喜ぶ。
それが、その時は嬉しかった。
すごく嬉しい事だったのだ。
勉強にはげむ以外に、する事が無かった。
趣味も持っていなかったのだ。
だからこそ、頑張った勉強の成果が出ると、嬉しかったのだ。
兄二人が病死したという事に疑問を一切持たずに中学生まで成長したある日、家の用事をこなしていた召使い達が交わす噂話を聞いた。
召使い達が、噂話をしている時は、隠れて聞くことが良くあった。
噂話にも色々あるが、両親の悪口を言った者は、顔と名前を覚えて、両親に報告していたのだ。
雇われているのに、悪口を平気でする者達を雇っていたら、家の為にも良くないだろうという考えから、両親に報告をしていた。
報告をすると、翌日には悪口を言っていた召使い達はいなくなっていたので、進んで両親に報告をした。
今回も、何か悪口を言っていたら、報告しようと、聞き耳を立てた。
そこで、信じられない事を自分は聞くことになった。
「長男の坊ちゃんは、家出なさったけれども、一人で会社を立ち上げて、今ではこの家よりも立派なお金持ちになったらしい」
「次男の坊ちゃんは、海外へ行って、有名な画家になったらしい」
この言葉が聞こえてきた時、召使い達は何を言っているのだろうかと、不思議に思った。
そんな嘘の話を噂して、何になるのかと思ったのだ。
二人の兄は病死したはずなのに。
何を言っているのだと思ったのだ。
仏壇だってある。
仏壇に兄達の写真も飾られている。
毎年、お寺からお坊さんもやってくる。
年始の挨拶に来る親戚達も、死んだと言っている。
両親の言った事に間違いが無いはずだと思ったが、この当時は噂話をしていた召使い達を捕まえて問いただそうとは、なぜか思わなかった。
この噂話をしていた召使い達について、両親に報告するという気持ちにはなれなかった。
報告したらいけないような気がしたのだ。
どうして、駄目なのかは分からなかった。
だから、無かった事にしようと思ったのだ。
だが、この時聞いた話が、ずっと心の奥にひっかかっていた。
心の奥にひっかかったまま、時間は過ぎていった。
気になってはいたが、調べたいという気持ちはおきなかった。
何か、嫌な予感がしたのだ。
それを調べたら、自分の中の何かが壊れると思ったのだ。
召使い達の噂を調べるよりも、両親が求める学校に受かる為の勉強に励んだ方が良いと、この時は思ったのだ。
高校生になったある秋の日の事だった。
その日は、午前中のみの授業で、午後からの授業は無く、珍しく早い時間に自宅へ帰れるという状況になっていた。
学校の友人との遊ぶ予定も無かったので、そのまま自宅に帰る事にしたのだ。
学校から自宅までは、徒歩で通っていた。
家が近い方が、家での勉強時間がたくさんとれるという父親の話から、徒歩で通える学校を探し、入学したのだ。
両親も、徒歩で通える近い場所にある高校を選んだ時、喜んでいた。
この時は、それでいいと思っていたのだ。
たまに、召使い達が噂していた、家を出たとされる兄達の話を思い出す事もあるが、すぐ忘れるように努力していた。
のんびりと、空の景色を眺めながら、歩いていた。
この直後に起きる事で、自分の中の何かが大きく変化するとはこの時はみじんも思っていなかった。
もう少しで自宅へと到着するという所だった。
一台の黒い車が、自分の横に停まった。
なぜ、車が停まったのかと、疑問に思った。
親戚か、親の仕事の関係の知り合いの誰かなのだろうかと思ったが、車を見ても、心当たりは無い。
道でも聞こうとしているのだろうかとも思ったが、窓が開く気配は無かった。
窓は、外からは見えないようにされていた。
どう対処したらいいのか分からないという状況になった頃、助手席の方の扉がゆっくりと開いた。
そこから出てきたのは、かっちりとした綺麗な黒いスーツを着こなし、黒いメガネをかけた男の人だった。
知らない人だった。
両親の知り合いにも、こんな人は見かけた事は一度も無かった。
だが、何か懐かしいものを感じた。
どことなく、自分と似ているのだ。
どこがとは言えないが、似ていると感じたのだ。
少しの間、互いに無言だったが、口を開いたのは、相手の方だった。
「君が、私の弟かね?」
弟とは、一体何だと、自分は思った。
男の言った意味が、理解できなかったのだ。
兄は、病死した。
長男と、次男のどちらも病死したと聞いている。
生きているはずは無いのだ。
両親が、死んだと言っていたのだから。
両親が、嘘をつくはずは無いのだ。
兄達の仏壇だって、ちゃんとある。
お墓だってある。
兄達の墓参りだって、毎年かかさず両親と行っていたのだ。
そこまでしていて、病死したのが嘘だとは思いたくは無かった。
だから、目の前にいる男は、嘘をついたと、思いたかった。
嘘だと、思いたかったが、違うと、自分の目の前に立つ男は嘘をついてはいないという気持ちも、頭の中に何度も浮かぶ。
嘘だと思いたいが、目の前にいる男の人が、兄では無いとは、言い切れない。
そんな気持ちが、何度も交差していた。
そう思ってしまうのには理由があった。
似ているのだ。
そう、自分と、似ている所があるのだ。
目の形が。
少しだけ垂れ下がった目じりが。
目の色が。
眉毛の形が。
これで赤の他人だというのは無理な話なのかもしれない。
それでも、違うと言いたい気持ちもあった。
しばらく、男の姿を眺めていた。
そこで、ある事に気づいたのだ。
仏壇に飾られている写真の兄に少し似ているように感じた。
目の前に立つ男は、写真の兄より老けてはいるが、よく見ると、似ているように感じたのだ。
色々と思考している間、返事をしないでいる自分を、兄だと思われる男は、じっと見て、もう一度言った。
「私の弟だろう?」
「…多分そうです」
自分は、うつむいて返事をした。
今の表情は、すごく歪んだ顔になって、情けない表情になっているはず。
そんな顔は、誰にも見られたくなかった。
自分の中で、何かが壊れたような気がした。
ガラガラと崩れ落ちていく己自身の何か。
何が壊れたかは、調べたく無いとも思った。
心の中を探ってしまえば、簡単に引き出されてしまうだろう疑問を、閉じ込めようとしたのだ。
それは、無駄な事だったのだが、この時は、この瞬間だけは、閉じ込めたかった。
「多分?」
自分の返事に、兄らしき者は、疑問の言葉を出した。
「病死…兄は病死したと聞きました」
うつむいたまま、自分は両親が言っていた事をそのまま、兄らしき者に伝えた。
自分が物心つく前に、兄が病死したと聞いていた事。
中学生の頃に、召使い達が、兄達の噂話をしていたが、信じなかった事を。
手の震えがおさまらないのを、手を硬く握り締めることでどうにか誤魔化しながら。
うつむいたまま話していたので、自分の目の前に見える兄らしき者の姿は、革靴の先しか見えなかった。
革靴は、自分が話している間、微動だにしなかった。
それが、すごく怖く感じたのだ。
どう怖いのかは、自分でも分からなかった。
自分が話し終えた後、また沈黙が続いた。
しばらくした後、頭の上に何かが乗った。
兄らしき者の、手だった。
顔を上げると、笑顔の兄。
笑顔と言えるのだろうか。
すごく、冷たい感じがした。
「そうか、ありがとう…君が大人になった頃に、また来るよ」
兄らしき者は、そう言うと、車の中に戻った。
てっきり、家に用事があるのかと思ったのだが、そうでは無いようで、家の前を、車は停まる事無く走っていった。
その事に、情けないが、安心してしまう自分の姿があった。
それからは、何もかもが信じられなくなった。
学校の勉強は今まで通りにしていたが、両親が家にいない時は、家を出て行った兄達の痕跡を探そうと、必死になっている自分の姿があった。
自宅近くで会ってしまった兄らしき者が、本物なのかどうか、自分自身の力で調べたくなったのだ。
何をするにしても両親に相談していた自分が、生まれてはじめて、自分の意志で動いた瞬間だった。
まず、最初に疑問に思った事は、兄が使っていたとされる部屋はそのままだったが、兄達の使っていたとされる物として室内に置いている物は、本人達が使っていたのでは無いのではないかという事だった。
今までどうして気づかなかったのだろうかと、兄達の遺品とされる物をじっくりと見た時に気がついたのだ。
よく見なくても、冷静になって兄達の部屋とされている室内を見渡せば気がつく事が多かった。
室内に置かれていた遺品たちに、使われた形跡が無い事が分かったのだ。
あまりにもきれいすぎるのだ。
死んだという情報を完全に信じて、室内に展示されていた遺品とされるものを、ちゃんと見ていなかったのが原因だった。
では、兄達が使っていた物はどこにあるのか。
召使いでも、かなり昔からいる者に聞こうとするも、両親に硬く口止めされているせいか、誰も答えてくれない。
皆、聞こうとすると、何か理由をつけて、自分の前から逃げ出したのだ。
中々聞き出す事ができない状況が数日続いた。
そんな毎日の中、一人だけ、教えてくれたものがいた。
その召使いは、場所は言えないと言ったが、ある物を渡してくれた。
「ご主人様には秘密にしてください」
そう言った後、古い形の鍵を、手渡してくれたのだ。
この鍵が使える部屋に、兄達が使っていた物を全て置いていると、その召使いは言った。
「どうして、僕にこの鍵を…?」
どうしてこの鍵をくれたのかと疑問を投げかけると、召使いは微笑した。
微笑しながら、兄達が家を出た後に、両親に依頼されて、この鍵が使える部屋に、兄達が使っていた物全てを移動させたのは自分だと言ったのだ。
いつか、自分が聞いてきた時に、鍵を渡そうと思っていたと、その召使いは言った。
自分に鍵を渡した翌日、その召使いは、仕事を辞めた。
もう、この家での仕事を終えたから辞めると、他の召使い達に言っていたのを、聞いた。
鍵をもらったが、どの場所かは、本当に自分の力で探さないといけないという事に、この時、自分は気づいた。
それから、この鍵を使用できる部屋を探した。
この家は、使われていない部屋がすごく多いのだ。
探すのは容易では無い事に気づいたが、探さずにはいられなかった。
両親の言っていた事は嘘だったのだから、全てを確認せずには心が落ち着かなかったのだ。
探し始めてからも、学校は真面目に通っていた。
勉強も今まで通り頑張った。
そうしないと、両親に気づかれる可能性があった。
気づかれてしまっては、調べる事ができなくなってしまうので、慎重に動く事にしたのだ。
その結果、探すのに時間がかかる事態になった。
結局、両親がいない時や、召使いが付近にいないのを狙って探していたので、部屋を探すのに、二ヵ月もかかってしまった。
探し始めた時は秋だったのに、気がつけば、冬になっていた。
部屋を見つけた日は、両親が仕事の関係で、一週間の間、家を離れていた時だった。
ちょうど学校が冬休みに入り、じっくりと部屋の中を探せると思っていた時に見つける事ができた。
兄達が置いていった物は、本宅では無く、離れの地下室に置いてあった。
その部屋の中には、使い古された教科書や、兄達が写った写真アルバムなどが、置いてあり、偽者の遺品ではなく、本当に兄達が使っていたと、部屋に入った瞬間分かった。
分かった瞬間、何かを達成したという嬉しい気持ちがこみあげてきた。
この気持ちは、今まで味わった事のある気持ちとは、また違う感じがしたのだ。
生まれてはじめて、両親に相談しないで、自分で考えて行動を起こした事が原因だったのかもしれない。
喜びをかみしめながら、いろいろ調べている間に、時間は瞬く間に過ぎて行った。
夜になった。
また明日、調べようと思い立ち上がった時、右側の壁に置かれている本棚が目に入った。
本棚には、勉強に関する本や、辞書が並べられていたが、本の奥に、何かが挟まっているのが見えた。
本棚の奥へとさぐってみると、手に何かが当たった。
奥から出てきた物は、日記のようなものだった。
名前は、ほとんど消えて、長男の物なのか、次男の物なのか分からないという状態になっていたが、なんとなく、分かったのだ。
車で、自宅近くまで来た兄の物だと。
どうしてかは分からないが、この日記は、あの兄の物だと、思えたのだ。
恐る恐る日記の本を開いてみた。
日記といっても、簡単なメモがわりにしていたらしく、あまり詳しい事は書かれていなかったが、そこには、両親との意見の食い違いに悩む事や、その他色々な事が書いてあった。
読み進めて行くと、三男である、自分が生まれた時の事についても書かれていた。
最後の文章は、親の決めた結婚相手との婚約が、愛の無い政略結婚だから嫌だという文章で終わっていた。
読み終わった後、私はため息をついた。
冬なのに、汗が大量に顔から吹き出ていた。
汗を持っていたタオルで拭きながら、思う事は一つ。
兄は、本当に病死では無く、生きていた。
年号を見ると、自分が一歳になろうとしていた頃だった。
別の本棚の奥も探してみると、もう一人の兄の日記も見つけた。
自分の進みたい道を、どうすれば、親は理解してくれるのだろうかと悩む日記を最後に、文章は止まっていた。
年号は、自分が一歳半になろうとしていた頃だった。
その年齢の頃の記憶は、あまり鮮明に覚えていない。
あまりというか、ほとんど記憶に無い。
そんな状態だから、両親からしたら、兄は死んだと自分に嘘をつくのは簡単だったのだろうと思った。
そう思うと、自分がとても恥ずかしい存在に思えてきた。
何もかも、両親の言った事を信じていた。
二人の兄が、自分で考え、疑問を持ち、両親と戦い、自分の道を切り開く為に、家を出た。
自分はどうなのか。
何も疑問を持たずに、素直に両親の言うがまま、生きてきた。
それで、上手い事いっていたと思っていた。
そんな自分の姿を、昔からいた召使い達はどう思っていたのだろうか。
完全に両親の言いなりに、操り人形になっていたと思われていたのだろうか。
秋頃に会った兄は、どちらだったのか。
多分、長男の方だと、自分は思った。
冷たい笑顔だったのは、両親の言うまま育っていた自分を見てあきれたのだと思った。
だからといって、兄のようにはできないと自分は思う。
両親の求めるまま、何も疑問を持たずに今まで生きてきたのだ。
何が、悪いのか、分からない。
今さら、抗おうにも、何からすればいいのか分からなかった。
見ていた日記の紙の上に、水のしずくが一滴、二滴とたれた。
雨漏りなのかと思ったが違った。
自分の涙だった。
日記からは、両親と兄達の間に、どのような言葉が交わされた結果、家出へと繋がったのかは分からない。
自分は、敷かれたレールの上をなぞるように歩く事しかできないように、育てられたので、理解しようもなかった。
そう思うと、自然に涙があふれ出ていた。
この涙は、なんとなく理解していたのだ。
今の、自分には何も無いと。
したい事が、何も無いと、理解していた涙だった。
持参していたタオルで目を押さえ、どうにか日記にこれ以上涙を落とさないようにしながら、地下室から出ようとした。
扉を開けると、人影が二つあった。
「…誰ですか?」
声をかけると、影の一つは少し揺れた。
「秋に会っただろう?」
そう言われて、兄の一人だと気づいた。
では、もう一人は、と思い、ライトをあてると、そこには、鍵をくれた召使いが立っていた。
自分は、どうしてこの二人がいるのか、分からなかった。
兄は、そんな自分を見て、あの時見せた冷たい笑顔をしながら、自分に言った。
「大切な物を取り返しに来たんだ」
そう言った後、自分は意識を失った。
兄達に眠らされたのだろう。
目を覚ました時には、自分の部屋で、兄とかつての召使いは、もう家の中のどこを探してもいなかった。
なぜ、兄は両親のいない日を狙って、家に来たのだろうかという疑問は残ったが、その事について調べる事はできなかった。
兄達は、家に来たという証拠を残さないで去ったから、自分が調べようにも、無理だったのだ。
兄達が去った後も、両親の目を盗んでは、離れの地下室に通った。
知らない事を知りたかったのだと思う。
兄達が来た後、ある事に気がついたのだ。
日記が、無くなっていた。
もう一人の兄の日記も、無くなっていた。
あの日、兄が言った「大切な物」は、日記の事だったのだろうかと、自分は思っていた。
そんな生活を続ける間に、気がつけば、大学生になっていた。
あれ以来、兄達は家に来る事は無かった。
もしかしたら、自分が家にいない時に来ていたかもしれないが、知る方法も無いので、気にしていなかった。
もう会うことも無いだろうと自然に思うようになっていた頃、大学二年生の夏に、兄は再び目の前に現れた。
今度は、両親が家にいる時だった。
この日は、休日で、珍しく両親が家にいる日だった。
自分は、使っていたノートが無くなったので、店に買い物へ行こうと、外に出かける予定があった。
玄関の扉を開けると、門の外に人影が見えた。
近づくと、その影は、兄と辞めた召使いだという事が分かった。
兄と召使いは、自宅前で、自分が出てくるのを待っていたのだ。
「やあ、久しぶり…家に入れてくれないか?」
兄は、そう言うと、少し目を細めた。
とうとう、この日がやってきたと思った。
兄と、両親が会う日が。
見届けるべきだと思った。
兄が、何を言うのかを。
病死した事にした兄を見た両親が、どのような態度を見せるのかを。
その時、自分はどうするのかを。
自分は、家の中に、兄達を引き入れた。
両親は、兄の顔を見ると、急に青ざめた表情になった。
「どうして今さら…」
父は、肩が震えていた。
「この恥知らず!」
母は、兄を罵倒した。
自分は、両親のこんな姿は初めて見た。
いつも、落ち着いていたのだ。
眉間にしわを寄せた表情を見た事も無かった。
取り乱した事は無かった。
いつも心に余裕を持っている人達だと思っていた。
それが、違ったのだ。
兄を罵った後、何も言わず両親の姿を眺めていた自分を見て、病死だと嘘をついていた事を思い出し、両親はうろたえはじめた。
「し、知らない人よっ」
母は、今更ながらに自分に言い聞かせるように声を出す。
「そうだ、赤の他人だ」
父も、母に合わせて言う。
そんな両親の姿を見て、自分の心がじわじわと冷めていくのが分かった。
こんな人達だったのかと思ったのだ。
化けの皮がはがれた瞬間だった。
「病死だって言っていたけど、どうして嘘をついたのですか?」
自然と、口に出ていたのは、この言葉だった。
両親は、うろたえながらも、一家の恥になった者達は、死んだ事にしておいた方がいいという考えになって、家出した兄達を病死扱いにしたと、答えた。
「勝手に家を飛び出したのよ、この恩知らずは!」
この母の言葉に、それまで黙って聞いていた兄の表情はさらに冷たくなっていた。
そして、軽く笑った後、兄は言った。
「私は家出ではなく、追い出されたはずですが」
自分の思考は停止した。
追い出されたと、兄は言った。
日記が途中で止まっていたので、てっきり家出したと思っていたのだ。
それが違っていたのだ。
家出では無く、追い出されたのだ。
「ほとんど無一文の状態で追い出されて、苦労しましたよ私は…」
兄の目は冷たかった。
自分は、怖くて目をそらしたかったが、兄の姿から目を離す事はできなかった。
今、目を離したら、もっと悪い方向へ行きそうな気がしたのだ。
両親は、震えていた。
何も、喋ろうとはしなかった。
「結婚相手は、自分で見つけたいと言った途端に、放り出したのですから…」
兄の日記の最後に書いてあった文章を思い出した。
親の決めた婚約者が嫌だと確かに書いてあった。
「愛の無い結婚は、私は嫌でしたから」
兄はそう言うと、鞄の中から何か書類を取り出した。
そんな兄の姿を見ながら、自分はぞっとしていた。
兄は、愛の無い結婚は嫌だと、自分の意志を伝えたら、家を追い出された。
もう一人の兄の方は、芸術の道へ進もうとしたのを反対され、家を追い出されたのだろう。
もし、自分が少しでも両親の意にそぐわない事をしていたら、兄と同じく、家を追い出されていたのかもしれないのだ。
自分は、今、目の前にいる両親の事がすごく怖くなった。
兄達は、両親の思うままに育たなかったから、追い出されたのだ。
ほとんど何も持たず追い出されたのだから、どれほど大変だったのだろうか。
そう思うと、身震いもした。
「お父さん、お母さん、明日から、あなた達の会社は、私の物になります」
自分が色々と考えている間も、両親と兄との間の話は進んでいた。
兄は、先程、鞄から出した書類を両親に見せていた。
両親の表情は、書類を読み進めていくうちに、だんだんと青ざめていった。
両親の会社が、兄の物になるという事に、自分は驚きを隠せなかった。
どうして、兄の物になるのか、兄は何をしたのか、理解できないでいると、母が力なくつぶやいた。
「じゃあ、私達はどうなるの…」
力無く母が言った言葉に、兄は、言った。
「私は、あなた達ほど冷たくはありませんから、この家から出て…そう、別荘に移住してください」
「そんな!あそこは不便な…」
「住む場所が無いよりましでしょう?」
両親の言葉を遮るように兄は喋った。
自分は、両親についていくのだろうと、勝手に思っていた。
しかし、それは叶わなかった。
力なくその場に座った父親に対し、母親は、自分を睨みつけながら言った。
「あなたは、もういらないわ!ついてこないでちょうだい!顔も見たくないっ」
目の前が暗くなりそうだった。
母親は、何と言ったのか?
いらないと、ついてくるなと言った。
ずっと、両親の言う事を聞いて、頑張ってきた。
学校も、親が望む学校を選び、受験して、無事入学した。
中学校も、高校も、大学もだ。
それがどうだ?
必要が無いとなったら、簡単に斬り捨てる。
両親からすれば、自分は、小さな存在だったのだ。
単なる道具にすぎなかったのだ。
兄達は、自分で考えて、両親と戦った結果、家を追い出された。
戦わなかった自分は、全てを否定された。
何も、残らなかった。
これから、どうしたらいいのだろうか。
何も思い浮かばない。
頭の中は真っ白だった。
「おまえは、何がしたいんだ」
そう思っていたら、兄が、自分に声をかけてきた。
自分は、兄の目を見た。
兄の目には、冷たさが無くなっていた。
自分の思っている事を、聞こうとしてくれているのは分かった。
兄に問われ、何がしたいのかと、考えようとして、自分の動きは止まる。
大学を無事卒業し、両親の会社へ行くという考えは、両親の願いだった。
幼い頃から、両親が自分に言い聞かせていた、両親の希望だ。
自分の考えでは無いと気づいたのだ。
兄が聞いているのは、両親が自分に言い聞かせていた「将来の夢」では無いのだ。
自分で、考えた「道」を、聞きたいと、兄は言っているのだ。
そう思い立つと、恥ずかしくなった。
何も無いのだ。
道が。
そう、何も無い。
大学まで行って、何も無かった。
すごく、恥ずかしくなった。
「…わかりません」
そう言うと、兄は、少し笑った。
「じゃあ、今から探せばいい」
「そうですか…」
「そうだ」
兄の声を聞いてから、一呼吸した。
探せばいいと言われた。
何を?
それすらも分からない自分が、恥ずかしかった。
大学三年生になった。
何を探せばいいのか分からないまま、兄の会社の仕事を手伝っていた。
手伝うと言っても、自宅で簡単な書類整理の仕事で、それほど忙しい事は無かった。
考える時間は十分にあった。
でも、いざ考えるとなると、何をすればいいかなんて、探せるはずが無かった。
今まで、何をしたいかなんて、考えて生きた事が無かったから。
最初は、本を読んだ。
空いた時間は、図書館へ通いつめた。
本を読めば、何かつかめると感じたのだ。
様々な種類の本を読んだ。
たくさん本を読んだが、すぐ何かが見つかるわけでは無かった。
すぐ見つかるとは思っていなかったが、生まれてから二十年以上たってから、探すという事が、これほど大変だとは、思わなかったのだ。
そんな時、ふと、疑問が浮かび、兄と会った時に聞いてみようと思った。
ある日の朝、家で朝食を珍しく取っている兄がリビングにいた。
チャンスだと思って、聞いてみる事にした。
「兄さん、どうして僕に何がしたいかと聞いたのですか」
すると、兄は、コーヒーのカップをテーブルの上に置いて、即答した。
「部下に、家に残った弟が、親の言いなりだと聞いたから、助けたくなった」
兄の部下は、鍵をくれた召使いの事だった。
「あの親たちの事だ、思う通りに育たないと思ったらまた俺達みたいに放り出すと思ったのでね」
それで、救おうと思ったと、兄は言った。
最後に聞いた両親の言葉を思い出し、自分は納得した。
もし、勉強についていけなくて、望み通りの学校へ入れなかったら、どうなっていたのだろうかと思うと、心が冷えそうになった。
兄の言葉に感謝しつつ、大学を卒業する前までに、何か見つけたいと、思った。
何も見つける事が出来ぬまま、冬が訪れようとしていた。
何も見つからない事に、焦りを感じていた。
焦りを感じながら、召使いが用意したコーンポタージュを飲んだ時に、何か電流が走ったような状態になった。
どうしてかは分からない。
コーンポタージュを飲んだら、そうなったのだ。
普通のコーンポタージュだ。
何か特別な物が入っているわけでは無かった。
では、どうして、コーンポタージュを飲んだだけでこんな気持ちが湧き上がったのだろうかと思いながら、その気持ちを確かめる為に、台所へ向かった。
台所の中には、料理を作る当番の召使い達がいたが、気にせず室内へと一歩、足を進めてみた。
その瞬間、頭の中で何かがはじけた。
幼き日の、自分の姿が、目の前に現れたのだ。
本当に現れたわけではない。
子供の頃の自分が、台所にいた時の自分の姿が、脳裏に浮かんだのだ。
子供の頃、小学生だった頃の自分の姿が見えた。
両親に認めてもらいたくて、勉強を頑張りはじめた時期だった。
まだこの頃は、両親の自分に対する要求も少なくて、勉強する時間も少なかった。
だから、自由な時間がたくさんあった頃だ。
夏休みだった事もあり、自由な時間が豊富にあった。
家の中は広いから、一人の時は、家の中を探検していた。
そんな時に、ある部屋にたどりついた。
そこは、朝、昼、夜と、毎日食事を作る、台所だった。
召使い達が、夕食の準備を忙しくしていた。
自分は、こっそりと台所の中へと進入した。
何かを、してみたいと思ったのだ。
そこで、棚を開いた時に、あるものを見つけた。
朝によく飲んでいた、コーンポタージュに使う、とうもろこしが袋に入った状態で置いてあったのだ。
この時、無性に、コーンポタージュが飲みたいと思った。
自分で、作って飲みたいと思った。
とうもろこしが入った袋を手にした時、召使いの一人が、自分に声をかけてきた。
「あれ、坊ちゃん、ここで何してるんですかね?」
声をかけてきたのは、最近雇われた若い男の召使いだった。
ここの家のルールで、絶対に破ってはいけない事があった。
それは、家の主とその息子に、召使いの方から声をかけてはいけないという事だった。
家の主からの問いかけには、返事をしてもいいという話で、それは、息子である自分でも同じ事だった。
他の召使い達は、何も言わず、ただひたすらに仕事を続けていた。
たまにこちらの様子をうかがう者もいたが、ちらりと見ているだけだった。
若い召使いの男は、入りたてで、まだ良く分かっていなかったのだろう。
ルールをよく理解したら、声をかける事はなかった可能性が高い。
若い召使いは、気にせずさらに自分に声をかけてきた。
「それは、とうもろこしが入った袋ですね」
若い召使いの問いかけに、自分は返事をした。
「コーンポタージュが食べたいんだけど、僕、自分で作って食べてみたい」
他の召使い達は、自分の言葉を聞いて、一瞬動きが止まったが、すぐ動き出した。
関係無いという事にしたかったのだろう。
当時の自分はそんな事も知らず、声をかけてくれた召使いとの会話を続けた。
「坊ちゃん作りたいんですか、じゃあ、手伝いましょうか」
「本当?作り方教えてくれるの?」
自分は、嬉しくなって、身を乗り出した。
一度、自分で作ってみたかったのだ。
それから、若い召使いと二人で、コーンポタージュを作った。
「できましたね」
「うん」
しばらく経過して、完成したコーンポタージュを見て、満足な表情になる自分と、嬉しそうな表情の召使い。
はじめて自分で作った食べ物を目の前にして、とても嬉しい気持ちになった。
作り方は、召使いに教わったが、その後の準備は、自分で頑張ったのだ。
「食べてみるよ」
自分はそういうと、一口、一口かみしめながら、コーンポタージュを最後まで食べた。
すごくおいしかったのを、覚えていた。
それから、翌日の昼になって、自分はまた台所にいた。
若い召使いは、また台所で仕事をしていた。
自分を見つけると、若い召使いは近づいてきた。
「坊ちゃん、今日はどうしたんですか?」
「今日は、目玉焼きを作りたい」
昨日は、コーンポタージュだったが、今日は、目玉焼き。
何かを作り出せるという事に喜びを見出していた。
そんな自分は、また何かが作りたくなったのだ。
自分で作った物を食べたい。
そういう欲求が、大きくなっていた。
今考えたら、生まれてはじめて、自分でやりたいと思った行動だったのかもしれない。
その日は、目玉焼きを作って食べた。
すごく美味しかった。
自分で作った物が、これほど美味しいとは思いもよらなかった。
苦労した分、手に入れる事ができた物は、とても素敵な宝物に見えた。
そのまた翌日も、若い召使いに作り方を教えてもらい、料理を作る。
楽しくて、毎日が、輝きはじめていた時だった。
そんな楽しい日々は、長続きはしなかった。
初めてコーンポタージュを作った日から、十日たったある日。
いつものように、台所に行ったら、若い召使いの姿は無かった。
どこにも、いなかったのだ。
台所じゃない場所の仕事になったのかと思い、家じゅうを探したが、いない。
どうしてなのだろうかと思い、台所で仕事をする召使いの中で、一番年長の者に、あの若い召使いはどこへ行ったのかのかと、聞いてみる事にした。
声をかけられた年配の召使いは、しぶしぶとしながらも、答えてくれた。
「ああ、あの若い者なら、昨日の夜、辞めました」
この時は、勝手に仕事を辞めたと聞いて、子供心に衝撃を受けた。
若い召使いは、前の日にも、約束したのだ。
「また明日、何か作りましょう」
と、そう言ったのだ。
子供の頃の自分は、約束を破られたというショックが大きかった。
まさか、両親がクビにしてしまったとは予測する事もできなかった。
これ以降、自然に、自分は台所へ行く事も無くなったし、料理をする事も無くなった。
前よりも勉強に励むようになった。
両親からすれば、思い通りに動く自分は、嬉しい事だったのだろう。
台所に立ちながら、自分は思った。
今なら、大人になった今なら分かる。
両親に、だれか他の召使いが告げ口したのだろう。
きっと、誰かが、自分と仲良くなりすぎていると、告げ口したのだ。
それで、あの若い召使いは、仕事を辞めさせられたのだ。
あの時の若い召使いには、悪い事をしてしまったと思いながら、自分は台所の調理台の前に立った。
今、自分のすべき事が、分かったのだ。
両親が要求していた自分では無く、本当に、自分で考えた、自分が今したい事が分かったのだ。
夕方になった。
兄は、両親から奪った家のリビングで、本を読みながら、ゆったりとした時間を過ごしていた。
兄がリビングにいるのを確認してから、自分は台所へと戻り、先ほど作った物を、運び出した。
テーブルの上に、そっと、ある物を置いた。
「…これは?」
テーブルの上に置かれたコーンポタージュを見て、兄は、本から手を離した。
本は、そばにあった雑誌や新聞を置く箱に収納された。
自分は、つばを飲み込んだ。
意を決して言葉にした。
「兄さん、これ、僕が作りました」
自分は、そう言うと、兄の返事を待たず、椅子に座った。
「…飲んでみて良いのかい?」
兄の問いに、自分は黙ってうなずいた。
全て食べ終わった後、兄は一言感想をもらした。
「美味いね、これ」
その言葉を聞いた自分は、肩がふるえた。
気がつけば、涙がたくさんあふれていた。
「これが、僕のしたい事、です」
大学三年生、二十一歳になった。
この年にもなって、涙が出るのがはずかしくて、うつむいてしまった。
うつむいてしまった為、兄の姿が見えなくなった。
顔を上げる事はできなかった。
「これが、君のしたい事?」
兄は、自分の言葉を聞いた後、聞き返してきた。
自分はうつむいたまま、返事をする。
「そう、です」
声を出した瞬間、涙がこぼれ出た。
もう、止める事のできない涙。
今まで、自分の意志をはっきり持った事は無かったのだ。
両親が決めた事に従っていただけだった。
それでいいと思っていた。
でも、これからは違う。
自分で、考えないといけない。
これは、第一歩目だ。
「僕自身が、本当にしたかった事は、料理を作りたいという事でした」
「やっと、見つける事ができたんだね」
兄の優しい言葉に、涙はしばらく止まらなかった。
自分の涙がとめどなく流れている間、兄は、黙って椅子に座ったままだった。
子供の頃、料理の作り方を教えてくれた若い召使いが、仕事を辞めさせられた後、どうなったのかは、知るすべはもうない。
探そうとは思っていない。
探しても、会えたとしても、どう言葉を伝えたらいいのか、分からない。
でも、もし、どこかで会えたとしたら、どうするか。
それは、その時にならないと、分からないだろう。
ただ、一つだけ、言える事はあった。
自分自身で、見つけた事。
思い出した事。
はっきりと分かる事は、一つだけあった。
二十一歳の冬、僕は自分の進むべき「道」を見つけた。
終
僕の道~探していたもの~ 朝森真理 @asmr2017221
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