薔薇の聖餐 -5-
ミズチが手中のノート型の機械を操作すると、周りの景色が一瞬白く染まって、そして別のシーンに切り替わった。
粗末な作りの農家で、床と地面の境目すらなく、つぎはぎだらけの壁を風が容赦なく叩いている。
「村の住人、アンディの家だ。主人公はここで生まれ落ちた生命に祝福を授ける。そこでアンディの妻と会話をするわけだ」
「えぇ、確かアンディの妻は祖母から習った単純かつ矛盾した宗教観を持ち出して、彼女を崇拝するのでしたね」
「そう。それに対して主人公は戸惑いを覚える。彼女はこの時代に生まれた若い女であるのに、古臭い宗教観の中でしか見てもらえないからだ。彼女は自分の存在について悩み、そして夕闇平原へと向かう」
「会話を再生しますか?」
家の中には赤ん坊を抱いた女がいる。血色がよい顔立ちをしていて体つきは男のように頑丈で、指も太い。それでもたっぷりとした茶色い髪が彼女の女性的な部分を強く表していた。
ミズチが会話の再生をするためのコマンドを打ち込む。
すると数秒ほどして、女が赤ん坊をあやし始めた。子守唄ではないが、どこか郷愁を誘うメロディを、扉が開く音が中断させる。入ってきたのは物語の主人公であるキネフだった。
「キネフ!我らが聖女。こんなところまですまないね」
「やめてください、おばさん。聖女なんて私には畏れ多くて」
「まぁ、何を言うんだね。私のおばあさんの母親はね、いつか聖人が現れると聞いたのさ。村の牧師様が言うのだから間違いないとおばあさんは言った。あんたは聖女だし、聖女であるべきだ」
キネフの困惑した表情は、憂いを帯びている。女の祖母の母親という途方もなく遠い、そしてその分古い話には何の信憑性もない。そしてキネフと女の年の差は、互いの腕に、首に、しっかりと現れていた。
「おばさん、私は」
「聖女なんだよ、あんたは。私たちが待ち望んだ全てだ。お願いだから否定などしないでおくれ。それがあんたの生きる道なんだ」
キネフは黙り込む。外で吹きすさぶ風が壁に打ち付けた木の板を鳴らした。
十字架もステンドグラスもない粗末な小屋には、生まれ落ちた無垢な魂と、素朴な信奉者と、謙虚な聖女だけがある。そこは確かに聖地とも言うべき場所だった。
「おしめを変えてあげないと。ねぇキネフ、覚えているかい? 私はあんたのおしめを縫ったのさ」
「覚えていません」
「そうだとも。赤ん坊と言うのは薄情なものだからね。あの時作ったおしめと、今のおしめと、どちらも等しく私には貴いのさ」
「ストップ」
最後の台詞にイオの鋭い声が混じる。場面が停止して、おしめを掴んだ女の腕が宙に掲げられたままとなる。
「このせいだな」
「おしめ、ですか」
「木綿のおしめだ。これだけなら大したことはなかったんだろうが、アンディの妻の台詞に「貴い」という言葉が入っている。これは今までのストーリーの中で何度も薔薇に対して行われてきた表現だ」
「そうですね。ここはアンディの妻の価値観が薔薇を特別視していないことがわかるシーンですから」
「だからここで薔薇と木綿を結びつけてしまった読者が多いんだろう」
その指摘に、ミズチは視線を斜め右上に上げて、数秒考え込んだ。それから眉を寄せて視線を元に戻す。
「だとすると、ですよ。ここで異常を修正してもまた同じことになりますよね?」
「その通りだ。では、ミズチに質問する。この場合最も適切な対処法を答えよ」
まるで教師になったような気分でイオが言うと、ミズチは少し自信なさそうに答えた。
「木綿のおしめという表現を排除する?」
「落第点だ。原書にある表現を排除、改竄することは認められていない」
「では、G-21から22への遷移時に利用者のイメージを継続させない」
「及第点ではあるがギリギリといったところだな。正解は、G-22のシーンにおいて木綿のイメージを受信した際に無視をする処理を入れることだ」
イオの解答にミズチは不満気に眉を寄せた。
「排除するのと変わりません」
「大違いだ。ミズチ、俺達は数式を解いているわけでもなければ二酸化マンガンを処理しているわけでもないんだぞ。正解のない本の世界を正解に限りなく近づける。これが異常処理係に求められることだ」
「そのあたりの違いを習得するには、どのぐらいかかるのでしょうか」
「人による、としか言えないな」
苦笑したイオにミズチは浅いため息をついてノート型装置を操作する。
「すぐ出来るか?」
「はい、数分もあれば余裕です」
素早い指の動きと、それに伴い書き換えられていくデータを見ながら、イオは「だろうな」と感想を零した。優秀なのだが融通が効かない。ミズチの性格を表すかのようなプログラムコードがモニタに写っていた。
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