薔薇の聖餐 -3-

 室長の執務室から廊下に出ると、イオは大きく背伸びをした。

 ランコは良き上司ではあるが、些か話が長い。この職場においては、あのぐらいがちょうどいいことは、イオも知っている。

 異常処理係は、国家資格を持った者のみが所属することが出来る、いわば公務員である。スティグマにより作られた世界へ、管理者権限でアクセスするための高度なシステム『エディグマ』。要するにマスター管理機器なのだが、それに対応できる精神力を持った者しか就くことが出来ない。


 給料はあまり良いとは言えないが、公務員故に老後の保障はされているし、残業をするようなこともない。だが、仕事自体は非常に高度な知識を必要とする。

 異常を探知したスティグマのオプションシステムがアラートを発することにより、彼らはその世界にアクセスを行う。

 だがそこで発見した「異常」が本当にその世界から除去するべき物なのか、判断するのは彼らの知識にかかっている。

 その世界にあるべきものを除去してしまうと、仮想空間は崩壊してしまう。崩壊とまでいかなくとも、まともな物語として成立しない。

 日々、古典から現代の書物を読み漁り、その歴史的背景などを学ぶ。その学んだ知識は仮想空間の中で証明される。勤勉であることと正確であること。それが彼らには必要な要素だった。


「戻ったか」


 廊下の突き当りの曲がり角で、イオは立ち止まる。そして後ろを振り返ると、いささか腹部に脂肪が蓄積しているが、その年齢としては十分健康的な体型である壮年の男が立っていた。

 異常処理係の人間であることを表す黄色の腕章が右腕にあるが、イオのものと比べるとかなりくたびれていて、色あせている。スーツは着崩して、赤いネクタイは所々染みが滲んでいる。革靴も滅多に手入れをしないのだろう、爪先あたりが乾燥してひび割れていた。無精ひげと蓬髪のその男を見て、イオは小さく笑う。


「井坂さん、もう体調はいいんですか?」

「あぁ、医者には問題ないと言われたよ。任せてしまってすまなかったな」

「いえ、ミズチに手伝ってもらったので」

「明日の仕事から、いつも通り俺が指揮を執る。確か彼女の次の研修先は俺のところだからな」


 井坂ジュンはそう言いながら蓬髪を右手で掻く。イオの直属の上司だが、持病のヘルニアが悪化したとかで数日休みをもらっていた。


「あいつも可哀想だ。上司が立て続けに辞めてしまって」

「その分、彼女は張り切っていますけどね」

「張り切りすぎて燃え尽き症候群にならなきゃいいが。………あぁ、そうだ。明日の仕事の資料を共有ディレクトリに置いておいた。暇があったら見ておけ」


 見た目だらしがない上司であるが、仕事に関しては非常にまじめである。イオは新人時代に仕事のイロハを彼から教わり、その大部分は今も生かされ続けている。


「見ておかなくても別に困りはしないだろうがな。念のためな」

「はい、承知しました」

上司は軽く手を振って、イオの傍らを通り過ぎて行った。

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