薔薇の聖餐 -2-

「ご苦労様」


 黒髪を後ろで束ね、鼈甲のバレッタを飾った女は報告データを見ながらそう言った。

 まだそれほど年は取っていないのに、髪型のせいで五歳ほど年嵩に見える。無論それを指摘する愚か者はいない。


「しかし、今回のはなかなかなイレギュラーだったわね。世界観がぶち壊しだわ」

「えぇ、見た時は笑いそうになりましたよ」


 男は苦笑いして、上司である女に答える。

 丁寧な言葉遣いをしているものの、肩より少し短いぐらいの髪は脱色を繰り返してくすんだ金髪になっていて、タレ気味の目の上にかかった前髪にいたっては妙に赤みがかっている。


「ミズチはどうしたの」

「次の仕事に」

「彼女も新人なのによく働くわね。ランクB以下は緊急性がないのだから、多少放っておいても構わないのに」

「室長、そういうのが上の耳に入ったら大変ですよ」


 冗談めかした忠告は、同じ調子で切り返される。


「構いやしないわ。彼らがなんと言おうとも、『スティグマ』に入る適性を持っているのは我々なのだから」

「そりゃそうですけど」

「あんまり根を詰めないことね。まぁ、貴方に関しては問題ないだろうけど……」

「私たちが倒れたら、本を読む人が困る。でしょう」

「わかっているじゃない」


 百年以上前から、若者の文字離れは深刻化の一途を辿っていた。

 ネットの普及、映像化の簡易化、真新しいコンテンツ。それらは人間から、文字を読んで想像することを放棄させた。

 識字率がほぼ100%の先進国で取ったデータによると、小説を最後まで読み切ったことがある人間は10%を切り、そしてそれに伴い出版業界も小説を売り出すことを諦めた。

 それにより小説は次々に絶版。図書館に存在する小説は老朽化により書物として機能しなくなっていった。

 だが、本たちにとっての救世主が、今から十年前に現れた。

 『スティグマ』という名前の新しいプログラミング言語は、小説の内容をもととして仮想空間を作り上げることに成功した。人々はスティグマのサーバにアクセスし、電子化された文書を読みながら、同時にその仮想空間を見ることが出来る。これにより小説の位置づけは、「書物の一種」から一気に格上げされ、数百年前の地位を取り戻した。


「今更、羽坂に言うこともないと思うけどね。期も変わったし、室長としては義務として確認しなきゃいけないんだけど」

「どうぞ」

「スティグマは多くの人間の「イメージ」を基にして実現している。プログラミングされた仮想空間だけでは、実際に人々が動き出し、天候が代わることも出来ない」

「あくまで構築するのは、世界の骨子だけですからね」


 男が相槌を打つと、女は釣られたように頷いた。


「そう、だから一人一人のイメージを使って、そこに肉付けする。スティグマがただの仮想空間を作って人々に見せるだけなら、ここまで普及はしなかったの」

「本来の小説を読むときの過程と同じく、人によって微妙にその世界観が異なる。それが狙いですよね」

「全部同じようにしてしまったら、結局映画と変わらないからね。「男が立っていました」という文を読んで、その男の髪の色や肌の色、服装や立ち姿まではスティグマはカバーできない。カバーをするのは読んだ人間の想像力」

「だからこそ、物語に「異常(イレギュラー)」が入り込んでしまう」

「その通り。それを踏まえて私たちの義務とはなにか、答えなさい」


 悪戯っぽく言う室長、守谷ランコに、羽坂イオは姿勢を正して返答する。


「我々「国立図書館所属・異常処理係」は、各物語に混入したイレギュラーを取り除き、人類の知的財産である本の世界を守ることを義務とします」

「そう、いいわ。とてもいい。流石は専門機関を首席で卒業しただけはある」


 ランコは笑いながら頷いた。


「さっき、ミオトに聞いたらかなり噛んでいたからね」

「彼は口下手ですから」

「まぁ口下手でも務まるのが、この仕事ね。とりあえず貴方が片づけるべき仕事はこれで終わりよ。帰宅してもいいけど」

「あー、ちょっと事務処理残っているので、それが終わったら帰ります」

「好きにしなさい」


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