第5話

 時計もないこの部屋では毎食主にハルカが持ってきてくれる食事、障子の向こうの空の色を想像することでしか、時間は計れない。つまり、正確な時間はハイリッヒにはわからないということだ。そんな昼餉後、ハルカが膳を下げに来た時のことだった。


「ハルカよ、野菜のうま煮美味であったぞ」


 そんな風に膳を持とうと膳の前に膝をついたハルカに、ハイリッヒが声をかけたのは。その言葉にふわりと笑った今日の料理当番のハルカは嬉しそうに言葉を紡いだ。


「それはよかった。また今度お出ししますね」

「うむ、よろしく頼む」


 目元を和ませたハイリッヒ、笑顔のハルカ。そんな2人を見つめる1つの目があった。それは布団の中、すっぽりと頭までかけ布団をかぶらされて昼寝をしていたはずのナゴミだった。ちなみこの布団、かぶせたのは当然ハイリッヒである。あえていうなら独占欲のためだ。


 とろりとした灰色の目でじっと2人を見る強い視線に、気づいたハルカがそちらを見る。


 ハルカとて紋章、戦いに心を置く身だ。視線には鋭い。

 自分と見合っていたハルカが急に視線をそらしたのが気になり、辿ってハイリッヒも振り向けば。布団の中からこちらを見つめる目が1つ。


 可愛い仕草に思わず笑みがこぼれたハイリッヒがナゴミに尋ねる。


「おや和や、昼寝はいいのかのぅ」

「・・・」

「ん? どうした」

「・・・や」


 ぎりぎり聞こえるか聞こえないかの声に、部屋の中央でハルカと対峙していたハイリッヒは立ち上がってナゴミの布団までハルカに背を向けて歩いていく。


 ちらっとハルカの方を見てから、かけ布団を取り上げ、うつぶせに寝かしていた和を大切そうに丁寧に抱き上げる。俗に言う姫抱きというやつだ。


 そしてハルカの前まで連れて行って、ハイリッヒ自身が壁の役割を担うように畳の上に座った。腕はナゴミ身体にまきつけたままだったが

 和をよく見たのはこれが初めてで思わずまじまじと見てしまうハルカ。


「和?」

「ナゴミ様?」

「はいりっひ、やぁ!」


 大人しく抱きこまれていた和が両手を突っ張り、ハイリッヒから距離をとろうとする。いままでそんなことのなかったナゴミからの初めての反抗に目を丸くするハルカ。


 それ以上に、ハイリッヒは焦っていた。いや、焦っていたというか頭が真っ白になった。ナゴミからこんな拒絶、あきらかにあからさまに嫌ですと告げるような態度をとられたことがなかったからだ。せいぜいが「やぁ」と言って顔をかすかに振る程度だったのに。


「どどどどうしたのじゃわしの和よ」


 混乱しすぎてろれつが回っていないハイリッヒ。ここで、ハイリッヒが腰を抱いているせいで腕を突っ張っても距離がおけないことに気付いたらしいナゴミが。もう1回。


「やぁ!」


 まるでもう見たくもない! という風にぎゅっと目をつぶった。あまりのショックに可愛い仕草とかいろいろ思う暇もなく目が虚ろになりかけているハイリッヒに、はっとなにかに勘付いたハルカが口元に笑みを浮かべる。


 それは可愛いものを見る目でナゴミを見ると、にっこりと満面に笑みを顔に乗せた。そのなにもかも気付いた笑いに、ハイリッヒは虚ろになりかけた目を向ける。


「大丈夫ですよ、ナゴミ様」


 優しい、春風のように温かい声に。自分の名前を呼ばれたナゴミがハルカの方を振り返る。と、そこには声に見合った表情を浮かべるハルカ。その声のまま、ハルカはナゴミにしゃべりかけた。


「私はゴートル様を、ナゴミ様からとったりしませんので。ご安心くださいませ」

「ん・・・んー?」

「本当ですとも。・・・それではお邪魔虫は退散いたしましょうかね」


 にこにこしながら膳を持ち上げ障子に向かって足を進めるハルカ。ハルカとナゴミのやり取りを見ていたハイリッヒは、もしやと心に浮かんだ疑問のまま、障子を開こうとするハルカを呼び止めた。


「ハルカ、それは・・・」

「はい、ゴートル様のお考えになっている通りだと思いますよ」


 笑みを深めながら、話に応じるため振り返ったハルカはそのまま失礼しますと声をかけてから障子の向こうに消えていった。その通じ合っているとも言える雰囲気に、ますますナゴミの機嫌は悪くなる。ぷぅと頬を膨らませて、ハイリッヒを睨む。


 一度それに気づけば、その行動のなんとも愛らしいことか。虚ろだったハイリッヒの目に光が宿り、甘い色を含んで愛おし気に腕の中のナゴミに目を落とした。


「はいりっひ、やぁ!」


 睨んでいたためいち早くその視線に気づいたナゴミは、びくっと身をふるわせて小さく縮める。もう1回拒絶の言葉を吐けば、さらっとハイリッヒの白い手がナゴミの頬を撫でる。何度も何度も撫で上げられ、おずおずとハイリッヒを見上げるナゴミ。


「わしの和や。出会ったあの時から、わしはずっとそちの虜じゃ」

「とりこ・・・ほんとう?」


 ぽつりと呟かれた小さな声、自らを見上げるわずかに潤んだ灰色の瞳。なにより、しょんぼりと上目遣いに聞くところが可愛くて可愛くて。ハイリッヒはナゴミを初めて見たとき、微笑みを見た時と同じようなしびれを感じてしばし硬直した。何より胸の辺りがぎゅんぎゅんして仕方ない。なんだこれは。


 まぁ、とりあえずわかることは。というか次にとる行動としては、とハイリッヒは考えた。ぎゅっと膝の上にのせているナゴミを一度強く抱きしめてから姫抱きに体制を変え、壊さない程度に力をこめて再度抱きしめる。


「もちろんだとも! 愛しい和や、このおいぼれをどうか信じておくれ!」


 まろく白い頬にちゅっちゅと吸い付いた。時々吸った部分をなめてはまた、口づける。可愛くてたまらない嫁を慰めるためと称して、それはナゴミの両頬が真っ赤になるまで続いた。


 ある程度満足したハイリッヒが唇を離すころには、ナゴミはもうすっかりいつもの無表情に戻っていた。それを少し残念に思いつつもにっこり笑ってもう1回吸おうとハイリッヒが顔を近づけた瞬間。


 ちゅっちゅ。


 小さな音ともに頬をすべらかで少し乾いた感触を感じて、ぴたりと動きを止めたハイリッヒ。

 なにが、なにが起こったのか。答えは単純である。和が、ハイリッヒの頬にキスしただけだ。そして。


「はいりっひ、あいしてるー」


 外見の割に低い声でそうハイリッヒの頬の近くで囁く。それがすんだかと思うと、またちゅちゅと再開される音に、頬への感触に。ハイリッヒは。


「に、和やぁぁぁ!!」


 大事な嫁を力いっぱい抱きしめた。すぐに「きゅう」とうなった和に力を緩めることになったが。

 厨に行く途中。2つの膳を持ったハルカがその雄たけびとも言えるハイリッヒの声を聞いて、びくっと肩を揺らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る