どこにもいけない
僕の姉さんは美人で頭もいい言ってみれば才媛で、東京の有名な大学院に通っていたのだけれど、24歳の時に妊娠した状態で自殺未遂をした。
赤ん坊は流れ、本人は三日間ほど昏睡状態に陥った。そして目を覚まして以来、姉さんは才媛ではなくなってしまった。
姉さんのお腹の中にいた赤ん坊の父親が誰なのかはわからなかった。それは姉さんしか知らないことであったのに、姉さん自身が何もわからなくなってしまったのだから。両親はショックを受けていたが、どうしようもない。だから『そうなった』という結果だけが残った。
それから三年間、姉さんはずっと家にいる。
外には出ない。僕のことや両親のことは覚えているので「ここはどこ、私は誰」みたいなことも言わないし、暴れたりもしない。でも、外には出せない。
姉さんの世話は僕の役目だ。僕は学生で(もちろん当時の姉さんのように優秀ではないけれど)比較的時間に余裕がある。それに僕は、姉さんが好きだから、世話は苦にならない——こうなる前も、こうなった後も、同様に。
「今日の夕ご飯は何が食べたい?」「オムレツがいいわ。オムレツは辞書の味がするのよ」「プレーンでいいのかな? それとも何か入れる?」「カズくんはオムレツが可哀想だとは思わないの?」「そうだね、可哀想だね」
「姉さん、僕は大学に行ってくるから家で大人しくしていてね」「大丈夫よ、家の外は硫化水素ナトリウムの雨が降っているもの。恐くて出られやしないわ」「じゃあ、行ってきます」「カズくん、長靴を履いても無意味なのよ」「これはブーツだよ姉さん」「そうね、ブーツはレとミの音がするわ」
そんなふうに繰り返される会話に、果たして意思の疎通があるのかどうかはわからない。けれど姉さんはいつだってにこにこ笑っているし、僕はだからそれで構わないんじゃないかと思っている。
生活能力がない訳でもないのだ。家でひとりでいる時は、僕が作り置きした食事をきちんと食べてくれる。歯を磨いたりパジャマに着替えたり、そういったことにも支障はない。時々、お風呂に一緒に入ろうと子供のように駄々を捏ねられるのは困りものだが、まあ、それくらい。
父さんと母さんも、今ではこの生活に、狂った姉さんに、慣れてしまっている。ただふたりはやはり時折、つらそうにしていた。
気持ちはわかる。だって今の姉さんは残滓なのだ。聡明で、家族思いで、優しくて、感性豊かで、とにかくありとあらゆるものが完璧だった彼女はもう、どこにもいない。バカで、家族のことなんか気にもしないで、優しさという概念を他者に用いる術を忘れてしまっていて、豊かな感性の代わりに壊れた感覚が詰め込まれている——それが今の姉さんだ。外見だけが同じだけど、中身がまったく違う。
時々両親は、すまなそうな顔で謝ってくる。ごめんねカズくん、ミカの世話をずっと任せきりにしちゃって。構わないよと僕は答える。正直、大学なんてどうでもいい。僕はサークルにも入っていないし、アルバイトもしていなかった。友達もいらない。必要ない。姉さんがいればそれでいい。
姉さんは時々、夜、僕の部屋へとやってくる。枕の代わりに何故か分厚い専門書を持って「カズくん、反転マトリクスの夢を見ないように一緒に寝ましょう?」と。
ベッドの中で僕に背を向け、すやすや寝息を立てる姉さんは幸せそうだ。持ってきた専門書は枕代わりに使わず、抱き締めたまま。その専門書にどんな思い出があるのだろう、もしくはないのだろう。僕にはわからない。そんな時、ああ僕と姉さんの間にはこの専門書一冊分の断絶があるのだな、などと思い寂しくなる。
もちろん、顔には出さない。
僕は姉さんがおかしくなってしまったあの日、決めたのだ。絶対に姉さんの前で、僕は泣いたり怒ったりしない、と。
何故なら僕が笑っていて、姉さんが笑っていて、そうすれば今のこの幸せな日々がずっと続くのだから。それを保ちさえすれば、僕らの生活は永遠なのだから。
僕はそう思う——思っていた。
六月、ある日のことだった。
僕の従兄が結婚する、という報告が我が家に入ってきた。ついては僕ら家族にも是非出席して欲しい、と。
それに関しては構わなかった。従兄であるヒロシさんには子供の頃姉さんともどもよく遊んでもらっていたし、祝福したい気持ちもある。でも問題は、姉さんのことだった。
姉さんは式に出られない。親戚たちも頭の狂った身内を披露宴の会場へ入れるのは避けたいだろう。だから置いていくことになる。でも式は東京で行われて、行くとすれば一泊二日、どんなに時間を切り詰めてもまる一日家を空けることになるのだ。そんな長期間、姉さんを放っておける訳がない。
僕は「行けない」と言った。だけど両親は困った顔をした。「ヒロシくんも、カズくんには来てもらいたいって言ってるんだ」しばらく行くだの行かないだのの押し問答が続き、その間、姉は話の意味もわからずにこにこと笑っているだけだった。
家政婦みたいな人を雇おうとか、一日だけ入院させようとか、そんな案が両親から出たけどどれも厭でたまらなかった。姉の世話は僕がしないといけないのだ。他の奴らになんか任せたくない。でもそうしているうちに、僕が我が儘を言っているみたいな空気になり、結局、僕は折れた。
ぎりぎりまで家にて、ぎりぎりに家を出て、式場に駆け込んで終わると同時に家へ帰る——それで朝八時から夜中の十二時までの外出。随分と家を空けることになるけど、そこは姉を信じるしかなかった。
もちろん今まで、留守番中の姉が問題を起こしたことはない。いつも彼女はテレビを見たり本を読んだりして静かに過ごしている。ニュース番組でけらけら笑ったり逆さに持って文末から音読したり、そんな楽しみ方ではあったけれど、家の中を散らかすでも危険なものに触るでもない。
だから、大丈夫だ。
僕は自分にそう言い聞かせて、結婚式へ出掛けた。
三食分の食事を作って、朝にはこれ、昼にはこれ、晩ご飯にはこれだよ、と説明する。姉はにこにこしたまま「わかったわ」と頷く。一度に食べちゃ駄目だよ。ガスを使っても駄目だよ。お風呂は僕が帰ってくるまで我慢してね。テレビの音量を上げすぎないようにね。「わかったわ」と、そのすべてに姉さんは答えた。いつのも笑顔で。まともではない、でも穏やかな笑みで。
「行ってらっしゃい、カズくん」
※ ※ ※
結婚披露宴はなかなか豪華なものだった。ヒロシさんは幸せそうだったし、お嫁さんは小柄で可愛い人で、親族一同はもちろん、新郎新婦の友人たちもふたりを祝福していた。僕は着慣れないスーツを息苦しく感じていたし、姉さんのことが気がかりではあったけれど、披露宴の雰囲気は楽しめていた。
だからそれは、予想外で、突然だった。
親戚の余興が終わり、三回目のお色直しが済み、ケーキ入刀やキャンドルサービスなどのお決まりなイベントが滞りなく行われ、そろそろ新郎新婦が両親への挨拶をするだろうかといった、そんな雰囲気の中。
いつの間にか——本当にいつの間にか、雛壇の横に立てられたマイクの前に、ひとりの人影が立っていた。
質素ながらも形のいいワンピース型のドレス。真っ白な、本来なら新郎新婦以外は着ることの許されない色の、ドレス。
僕は驚きのあまり小さく呟いた。「……姉さん」
いつもの表情ーー僕に見せる屈託のない笑顔ーー姉さんはにこにこしたままマイクの高さを調節し、ゆっくり一礼し、「こんにちは」と穏やかに挨拶して一同が自分に注目したのを確かめ。
言った。
「私はタカシマミカと申します。そちらにいる新郎、タカシマヒロシの従妹です。私は三年前、ヒロシさんの子供を身ごもりました」
「しかしヒロシさんは私に子供を堕ろせと言いました。私が拒むと、彼は友人の男たちに私を暴行させました。人数は六人です。暴力と性的なもの、両方です。その相手はここにも三人来ていますがそれはいいです。とにかく私は子供を流産しましたので狂った振りをして今日まで過ごして参りました」
「ヒロシさん、幸せですか? それが私を捨てて結婚しようとした相手ですか? 頭の悪そうな扱いやすそうな女ですね。けれど私はあなたを責めません。どうかお幸せに」姉さんはそこまでを一気に口にすると茫然とした新郎新婦の座る雛壇の前へと歩み寄り包丁を取り出して自分の首を切り裂いた。
血が飛沫いた。
一瞬の後、あちこちから悲鳴が上がった。会場が騒然とした。騒然どころではない。大騒ぎだった。そんな中で新郎のヒロシさんは血を浴びてその場で嘔吐し、新婦は気を失ってその吐瀉物と血の混じった液体に顔を突っ伏した。
僕はたぶん、二分間ほどその場から動けなかったと思う。どうして姉さんがここに来ているのかとか、それ以前になんであんなにも理路整然とした言葉を口にしていたのかとか、今雛壇の前に倒れているものはいったい何なのかとか、そんなことを考えていた。
やがて硬直が解けて、僕は立ち上がった。姉さんに走り寄ろうとした。でも、できなかった。何故ならその時にはもう姉さんの周りには人混みができていて、僕は彼ら彼女らを必死に押しのけようとしたけれど、僕みたいな子供が死体に駆け寄ることを大人たちはまったく許してくれなかったからだ。
僕は何度も叫んだ。姉さん、姉さん、と。いや、叫べていたのかどうかはわからない。何が何だかわからなかった。興奮していた。頭に血が上っていた。表現はなんだっていい。僕は一時的にまともではなくなり、そうして——気が付いた時には僕は病院にいて、すべてが終わった後だった。
奇しくもそこは、姉さんがかつて三年前に入院した、病院だった。
ベッドの横には母がいた。父は後処理に追われていて、僕に付き添ってはいれらなかったのだった。無理もないと思う。警察や救急車が来たに違いなく、事情聴取などもあるだろう。母だって本当はこんなところにいる場合ではないのかもしれない。
でも僕が「何があったの?」と問うと、母は答えた。
「ミカは、死んだわ」と。
それから母は語り始めた。三年前、姉さんがレイプによって子供を流産させたというのは医師の診断によって明らかになっていたこと。でも姉さんは狂ってしまっていたから、警察に訴え出たりはしなかったこと。
従兄のヒロシさんと姉さんが付き合っていたなんて知らなかったこと。いや、正式に付き合っていたかどうかなんてわからないけれど、とにかく、今回のことは——母さんはまとめようとしたけれど当然ながら言葉は続かず、声を詰まらせた。僕はだから言った。「母さん、少し休みなよ」
母を病室から追い出した。ホテルに帰ってゆっくりしてくれ、自分は大丈夫、と。そうしてひとりになって、僕は大きく溜息を吐いた。頭を抱えた。重かった。けれど思考せざるを得なかった。
姉は三年前からずっと、僕らを騙していたのだろうか。狂った振りをして、全員に油断をさせ、そうして今日のこの機会をひたすらに待ち続けていたのだろうか。でも、三年間も狂った振りをして、あんな自殺を遂げるなんて真似——果たして正気で可能なのだろうか。
だったら姉はやっぱり狂っていたのか。でも、さっきの姉は、自殺する直前の姉は——知らない。僕はあんな姉さん、知らなかった。
「……なんだよ」僕は呟いた。なんだよ、と。
それしか言葉が出てこなかった。何故なら姉さんは——呼ばれもしないのに式場に来てマイクの前に立った姉さんは——ああ。
僕を、ほんの一瞬だけしか、見なかったんだ。
三年間世話をし続けた僕を。弟の僕を。まるでミュージシャンがコンサート会場で、舞台の上から、たまたま目があった観客を見るように。
結局のところ、姉は姉ではなかった。三年前のあの日からずっと、姉ではなく、女だったのだ。姉は僕の姉であることを放棄していたし、彼女にとって僕は弟ではない、別の何かだったのだろう。たとえば道具。世間を騙すための。もしくは代替品。従兄のヒロシさんの、代わりの。
ふと気付いた。姉さんが「一緒に寝よう?」と僕の寝室へ来る時、いつも持っていたあの専門書のこと。
重さはどれくらいだろう。帰ったら量ってみよう。ひょっとしたら、新生児の平均体重くらいの重さかもしれない。そして仮にそうだった場合ーー僕はたぶん、そんな姉を、そんな気持ち悪い思考で僕の横に寝ていた姉のことを、決して許せないだろうなと思うのだ。
そしてその気持ち悪さは、僕が姉さんの弟であり姉さんの男には決してなれなかったという何よりの証拠であり、だからこそやはり、僕では決して姉さんを救うことができなかったんだなと、そう思うのだった。
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