いもうと
昨日切った手首のことを早くも妹が嗅ぎつけた。
長袖で隠していたはずなのに目敏い奴だ。まるでトリュフを探し当てる豚のよう。
「またやったの? いい加減にしなよ」
無遠慮にそんなことを言ってくる。私はまったく辟易した。
「うるさいわね」眉をひそめると、
「そんな行為になんの意味があるのよ」妹は皮肉げに冷笑する。
ああ、まただ。またこいつは私に、吹っ掛けてくるのだ。
「ねえ、どうしてこんなことするのさ? 私に教えてよ」
「……うるさいわね、毎度毎度」
「返答になっていない。私は質問しているの。あなたには答える義務があるよ」
私がどんなにきつく睨み付けても、妹には効果がない。いやーー効果はあるか。私が機嫌を悪くすればするほどこいつの意地も悪くなる、という効果が。
「ふうん、いつもみたくだんまりって訳」
私が死んだ樫の木みたいに沈黙を貫いていると、妹は小さく舌を打った。
『いつもみたく』——ああ、そうだ。
本当にうんざりするほど、いつもの遣り取りだ。
なので、いつも通り。
罵倒じみた詰問が始まる。
「手首を切る。その異常な、けれど現代においてどうしようもなく有り触れた行為に、あなたはなにを見出しているっていうの?」
腹の立つ物言いだ。
私はだから、もちろん答えない。
「あなたは死にたいの? この世から消えたいの?」
私は答えない。
「死にたいと思うのに死ぬ度胸がないの? だから浅くしか切らないの?」
私は答えない。
「もしくは死にたいなんて欠片も思っていないの?」
私は答えない。
「手首を切って、生きている実感を得るの? 血を流すことで、痛みを感じることで、逆説的に生の実感を得たいの?」
私は答えない。
「それとも、自己表現なの? 自分は普通じゃないんだって、自分は変わった人間なんだって、特別な人間なんだって主張したいの?」
私は答えない。
「あるいは、その逆なの? 普通に暮らしていくのがつらくて、『普通』になることができなくて、だから手首を切ることで、自分は『普通』じゃないって思い込みたいの?」
私は答えない。
「ねえ、どうなの? 手首を切るなんて『普通』じゃない。手首に傷のある自分は『普通』じゃない。だから『普通』になれなくても仕方ない。そうやって『普通』であることを諦めたいの?」
私は答えない。
「でも、残念ね」
妹は、笑った。
「最初に言った通りなのよ。手首を切る奴なんて今時この世にごまんといる。つまりね……あなたのやっていることは『普通』なの」
笑った。
「あなたは『普通』なんだ。異常なんかじゃない。どこにでもいるただの人間で、でもどこにでもいるただの人間のくせに、上手く生きられないゴミなんだ」
笑って、
「わかる? あなたはね、『普通のゴミ』なのよ」
——笑った。
私は、だから。
「はっ」
いつものように、笑い返し、
「ねえ、知ってる?」
問い返した。
眉をひそめる妹に。
「私、ひとりっ子なのよ」
「……へえ」
妹は唇を歪める。いつものように。
「妹がいたことなんてないの」
「そうなの?」
妹はとぼける。いつものように。
「お母さんが流産した経験もないわ」
「なにが言いたいの?」
妹は苛立つ。いつものように。
だから私は言ってやる。
鏡の前で、自分自身に向かって、言った。
「あなたは私の妄想。ただの幻覚。本当はね、あなたなんて、最初からいないのよ……ざまあみろ!」
※ ※ ※
洗面所の鏡を前に、いつものように妹と言い争っていると、お母さんが顔を覗かせた。
「あんたに話があるの」
なに、今忙しい——そう答えようとした私をお母さんは無視して言った。
「お母さんね、赤ちゃんができたのよ」
鏡越しに、
「女の子よ」
下腹を撫でながら、嬉しそうに言う。
赤ちゃん。
女の子。
つまり私にとっての——。
お母さんは、カットし損ねたアルミホイルを握り潰すみたいに吐き捨てた。
「だからその手首、いつもよりももっともっと深く切ってしまいなさい。私は子育てをやり直すことにしたの。この子はひとりっ子として育てたいのよ」
妹の「残念ね」という声が聞こえた。
どっちだろう。
鏡の中の妹が?
お母さんの子宮の中の妹が?
「いなくなるのはあなたよ。ざまあみろ!」
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