二、同年七月

「ねぇ、ねぇ、『愛に騙され金に泣き』見た?」

「うん、見たよ。」

「あたしはまだ。で、どうだった?」

「良かったわ、とっても。」

 今の京城の妓生たちの話題はもっぱら優美館で上演中の『愛に騙され金に泣き』である。東洋劇場所属劇団『青春座』が手懸けたこの芝居は、主人公の紅桃役を車紅女が受け持ち、黄徹、沈影等、錚々たるメンバ-が出演した。原作は林仙奎~ そう、朴珍氏がボツにした仙奎氏の台本が洪社長によって日の目を見たのだった。社長の読み通り公演は大当たりで連日多くの観客が押し寄せている。

 公演初日から洪社長は後方より客席の様子を見ていた。観客の大半は妓生。まばらに見られる男性客は妓生たちに誘い出された旦那衆といったところだろう。

 この時期の大衆演劇の観客の主流は妓生だった。彼女たちの心を掴んでこそ公演は成功する。それゆえ、洪社長は仙奎氏の台本を読んで、これは当たると思ったのである。もちろん事前の広報もしっかりとやっておいたのだが。

 舞台は紅桃が警官の兄によって逮捕される場面になった。客席のあちことから啜り泣きの声が聞こえた。

「今回も大成功ね、あなた。」

 隣にはいつの間に来たのだろうか、夫人の 亀子がいた。舞踊家である(といっても崔承喜とは異なり大衆向けのものを手懸けている)彼女は自身の公演団を率いて各地で活動していた。ちょうど地方公演から戻ってきたところのようである。

「おお、夫人か。今回の芝居もなかなかいいだろう?」

 社長は上機嫌で妻に応じた。

「ええ。皆、お芝居に夢中ね。」

「紅桃はここにいる娘たちの分身なんだ。紅桃が喜べば彼女たちも嬉しく、紅桃が泣けば彼女たちも悲しくなるのさ。」

 夫人は黙って首肯いた。

「観客が求めているのは自分たちに寄り添ってくれる芝居。自分たちの心を代弁してくれる芝居なんだ。高見に立って偉そうなことをいう演劇など見たくも無いだろうよ。」

「本当、その通りよ。」

 洪社長と夫人は小声で言葉を交わしていたが気に留める者はいなかった。観客は既に舞台と一体化しているのである。


 舞台の袖では林仙奎氏がじっと舞台と客席を見つめていた。

「紅女ちゃんの紅桃は嵌まり役だよね。」

「うん。黄徹さん、沈影さんもいいわ。いつものことだけど感心してしまう。」

 隣にいた仙奎氏の妻が応えた。文芸峰という芸名で活躍中の女優だ。

「それにしても、いい話だよなぁ~。我ながら泣けてきちゃうよ。」

 自画自賛する夫の横顔を見ながら芸峰は微笑むのだった。


 同じ頃、京城の某料理店では- 

「ふ~んだ、あんな芝居、所詮は子供騙しじゃないか!」

 朴珍氏はしたたかに酔ってくだを巻いていた。彼の脳裏には不愉快な出来事が再現していた。

    …………………………………………

 彼が仙奎氏の台本をボツにしたその日、彼を含めた劇団のスタッフが洪社長に呼ばれた。

「諸君、次の芝居は林仙奎君のこの作品にする。」

 社長は朴珍氏の捨てた紙束を手にしながら言った。

- 冗談じゃない!

 朴珍氏は内心で毒突いた。

「……で題名だが、どうしようか。朴珍君、何か良いものはないかね?」

 突然の御指名に朴珍氏は一瞬びくついたが、

「〝愛に騙され金に泣き〟でいいんじゃないですか。」とぶっきらぼうに答えた。

「うん、実に分かりやすくていい。よし、これで行こう。」

- おい、本気かよ! 口から出任せに言っただけなのに。あまりにも安易じゃないか……。

   …………………………………………

「……いつまでも妓生と学生の話なんてやってられるかい!」

「そおだ、そおだ!」

 朴氏に呼応したのは同僚の脚本家崔独鵑氏。彼も相当酔っていた。

「まぁ、まぁ二人とも……。」

 宥めているのは東洋劇場の演出家である洪海星氏。彼だけがしらふなのは、酒に強いのか、或いは今日の自分の役目のために酒を控えているのか……。

「海星センパイ、先輩なら分かるでしょ。え~い、

あんなもんばかりやってる朝鮮の芝居の先行きが思いやられる。朝鮮芝居に未来なんて無いぞぉ~。」

 酔いが回って二人の気炎はますます上がった。

- こいつら、こんなに酒癖が悪かったのか……。

 呆れ、少々うんざり気味になっている海星氏は、かつて東京の築地小劇場で修業し、内地日本の演劇運動に身を置いていた。それゆえ、朝鮮の劇界にも一家言あるのだが、今はそうしたことは口にしない。彼がここですべきことは演劇論をぶつことではなく、二人の酔っ払いの面倒を見ることだからだ。このままだと彼が宿舎まで二人を担いで行くことになりかねない。

「……それにしても、静かだな。ひょっとして客は俺たち三人しかいないんじゃないか?」

「そおですよ、センパイ。今の時間、妓生とその旦那方はみ~んな優美館ですよ。」

 『愛に騙され金に泣き』の上演中は、妓生たちは御贔屓ともども観劇にいってしまい料亭やそれに類する場所は空になり商売にならなかったそうである。

     *     *     *

 「愛に騙され金に泣き」はその後、李明雨監督によって映画化され、大韓民国成立後も時には「紅桃よ泣くな」と違う題名になって演劇・映画、TVドラマで繰り返し上演された。そして、主題歌の「紅桃よ泣くな」と「愛に騙され金に泣き」は現在も韓国で広く愛唱されている。

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