紅桃誕生物語

高麗楼*鶏林書笈

一、一九三六・昭和十一年初夏

「駄目だ、駄目。ああ全くどうしようもないね!」

 京城・東洋劇場裏の同劇場別棟の一室から罵声が聞こえた。声の主は朴珍氏。東洋劇場の〝座付き作家〟の一人である。

「そんなぁ、お師匠さま……。」

 怒鳴り声にすっかり萎縮してしまったのは作家見習いの林仙奎氏。

「ふん!今更、妓生(芸者)と学生の悲恋だと。時代遅れも甚だしい。もっと斬新なテ-マのものを書きたまえ。」

 こういうと朴珍氏は椅子から立ち上がり、手にしていた紙の束を傍らのくず箱に放り込んだ。

「ああっ……。」

 仙奎氏は悲鳴に近い声を上げた。師匠に言われ、数日かけて書き上げたこの台本に彼は自信を持っていた。なのにゴミ扱いとは。

「これはボツ。もう一度書き直して来い。」

 朴珍氏は意気消沈している仙奎氏を無視して事務室を出ていった。これから、舞台稽古に立ち合わなくてはならないのだ。

「師匠、待って下さい。」

 仙奎氏も未練がましく師匠を追って部屋を出た。

「…あいつらは何故分からないんだ。」

 歩きながら朴珍氏はぼやいた。

 昨年(一九三五・昭和十年)十一月に開館した朝鮮初の演劇専用劇場である東洋劇場は、連日満員の

盛況を呈している。劇場主である洪淳彦氏の手腕によるものだ。彼はショ-ビジネスの才能があり、上演する芝居は全て当たっている- のだが、

「自分が求めているのは、こういうものではない。」

 朴珍氏は、たとえ大衆演劇であっても単なる娯楽的なものではなく、それなりの意味がなくてはならないと考えていた。こうしたことは常日頃後輩たちに伝えていたつもりである。しかし、今回、仙奎氏が自信満々に見せた作品は、ありふれた新派調の内容である。全く情けないやら呆れてしまうやら……。

「ああ、朝鮮の大衆演劇はいつになったら向上するのだろうか!」

 朴珍、仙奎両氏は気付かなかったが、部屋を出た彼らの真後にはこの劇場の主人である洪淳彦社長が立っていた。

「いったい何の騒ぎだ。」

 こう呟きながら洪社長は彼らの出ていった事務室に入っていった。すると、さきほど朴珍氏が捨てた紙の束が目に留まった。

「おや、台本じゃないか。」

 興味を引かれた彼はくず箱から取り出した。筆跡は朴珍氏のものではない。ということはあの見習い~確か林仙奎とかいう子が書いたのだろう。さて、どのような内容だろうか。

「何なに、登場人物は妓生・紅桃とその兄、そして学生の沈青年か……。」

 洪社長は朴珍氏が座っていた椅子に腰掛けると台本を読み始めた。

 主人公・紅桃は両親を亡くした後、兄の学費を得るために花柳界に身を投じた。

-- うんうん、今京城で妓生をやっている娘の大半はこうした事情からこの世界に入ったんだよな。

 兄の親友である沈青年はよく紅桃たちの家に遊びに来ていて、紅桃とも言葉を交わした。やがて二人は親密になって行き……。

-- 学生と妓生の恋か。これは前途困難だぞ。

 沈青年は紅桃以外に気立てが良く、また自分のことを信頼してくれる女性はいないと思い結婚を申し込んだ。紅桃はもちろんのこと彼女の兄もこれを喜び、快諾した。

-- この学生、なかなかやるじゃないか。で、これでハッピィ・エンドかい。

 嫁いで見たものの、名門で金持ちである沈家では彼らの結婚を認めず、紅桃に妓生上がりだの貧乏人だのといって何かと辛くあたった。しかし、沈青年を愛し信頼している彼女はこうした仕打ちを気にせず、沈青年の両親に孝養を尽くし、彼の家族のために働いた。

-- 健気だのう。

 そんなある日、沈青年に東京留学の話が持ち上がり、家を出ることになった。紅桃は支えになってくれる沈青年がいなくなることに不安を感じたが、彼のためを思い笑顔で送り出した。

-- 東京に留学か。これは危ないぞ。

 社長は内地日本に留学中に現地で知り合った女性~日本人、朝鮮人を問わず~と親しくなり文字通り結ばれた朝鮮青年たちの例を幾つも見てきた。

 沈青年の母親はこの機会に紅桃を追い出そうとあれこれ画策した。そして良家の娘・金氏を嫁に迎え入れた。

-- 本人の居ない間に問題を片付けようというのか。

 沈青年の母親に陥れられ、遂に紅桃は沈家を追われ兄のもとへ戻った。学校を卒業した兄は警官になっていた。兄のもとに身を寄せていたものの紅桃は、沈青年さえ帰ってくれば事態は好転すると思い、ひたすらその日を待っていた。

-- そううまく行くかのう。 

 留学から戻った沈青年は結局、母親に丸め込まれ、彼は母親に言われるまま金氏と結婚することにした。

-- 所詮、こいつは金持ちのボンボンに過ぎなかった訳か。

 これを知った紅桃は思い詰め、精神にも変調を来して、全ての元凶は金氏にあると考え、彼女を殺して自分も死のうと決心した。そして……

-- いよいよクライマックスだな。

 沈青年と金氏が挙式する当日、紅桃は果物ナイフを隠し持って式場へと向かった。新郎新婦が入場し席に着こうとしたまさにその時、彼女はナイフを手に花嫁のもとへ走り出した。ナイフが花嫁に付き刺さる寸前に周囲の人々に取り押さえられ、駆け付けた警官に逮捕された。この警官は彼女の兄だった。

 ここまで読んで洪社長は顔を上げた。彼は確信した。そして再び台本に目を落とした。

 紅桃は警察の事情聴取に素直に応じ、又、ここに到るまでの経緯も考慮されたため、無罪放免となった。彼女の兄は警察を辞めて妹と共に田舎で静かに暮らすことにした。彼らが旅立とうとした時、沈青年が訪ねてきて紅桃兄妹に謝罪した。しかし、兄は彼の言葉を受け入れず冷たく言い放った。「全て俺が悪かったのさ。金持ちと貧乏人は所詮水と油。友人にもなれず、まして夫婦になんてなれるわけはない。愚かな俺はお前のことを親友だと思って、信頼して妹を託したが、それが結局仇となったんだなあ。お前とは二度と会うことはないだろう。達者でな。」 兄は相手の返事も聞かず、そのまま妹と共に去って行った……。

-- これは当たる。大ヒット間違いなしだ。

 こう思うと社長は居ても立ってもいられなかった。

「誰か居らんか! すぐに劇団長を呼んでこい。」

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