シジンノタマシヒ


 身内でも係累でもない死んだ人のことばかり考えている気がする。


 東海道線の線路上を客車に揺られ帰る道々、行ったことも見たこともない刈谷駅を思い、そして宮城検校を思い、何故かは知らねど、目頭が熱く胸が何かに塞がれるように苦しくなる。

 そういえば、木蓮忌もその数日前になって急にそのことばかり、その人のことばかり思うようになった。

 気がつけば浜木綿忌は今度の日曜、二十五日である。

 搾り出したくなる涙を堪えて駅に降り立てば、潮風もなく、まだ明るみの少し残る階段を昇り始める。

 墓地の脇を通るせいに違いない。もういけない。今にも表へ出んとする涙をもう開放してやる可し。

と、そこへ、猫の鳴き声。一瞬どこからその声がやってくるのか判断つかず、立ち止まる。暫し見回し、予ねて見知ったはずのその声の主を探す。なかなか現れず。と思いきや、既に足元の草叢より、一心に見上げている姿を認む。

 この猫は、元々浜辺の家の飼い猫だったのだが、ある日、同居していた猫が他の猫と懇ろになり子を儲けたため、家を出ることを余儀なくされた。乳飲み子を抱えた母猫から、その子らの父親である雄猫を追い出すわけにはいかぬからだ。しかし、それは、その浜辺の家主がそうしたのではなく、半飼い半野良の猫たちの暗黙の常識だった。

 以来、猫は遠巻きに浜辺の家の傍らに暮らし、家主は、家から少し離れた場所へ彼への餌を置くようになった。しかし、浜辺の家の敷地外に置かれた食物は、家のものの所有ではなく、謂わば落し物と同じ。従って彼以外の猫が運よくそれを獲得する機会を大いに増やしたのである。つまり、彼へと向けられたはずの浜辺の家の愛情も、別の野良猫が有り難く享受し、早い話が拾ったもの勝ち、という半野良の不文律が成立したのである。結果、彼の猫は始終枯渇を強いられるようになった。そして、顔見知りの人間には文字通りの猫撫で声にて食べ物を取り敢えず要求してみるということを生存継続の方法の一つとして選んだのである。

 今夕その生業を私に対して行使したが、残念ながら、私は彼への食物となるものを一切所持していなかった。前へ後ろへ、付かず離れず、鳴き続けたが徒労に終わる。気の毒なことをしたと思うが致し方なし。申し訳ないが御前をいつも待っていると言った昨日遭遇した老婦人の到来を待つ可し。

 彼の猫、漸う諦め、鳴き声続けるも、もう付いてこなくなった。

 必要か否かは別にし、ごめんね、ごめんねと繰り返しつつ帰宅。


 話が反れた。


 死んだ者のことばかり考えるのは、私が求めているのか。

 或いは死んだものが何かを訴えるために私を要請しているのか。

 更に或いは、死んだものはその姿形記憶記録の変化を停止したことを承知して、思う相手として私が望むものなのか。

 分析したがるのは非常に悪い癖だ。いい加減にせよと言い聞かす。


 死人の魂は、或いは『詩人の魂』


 ロンタン

 ロンタン

 ロンタン

 アプレ・・・・・・


 歌詞は忘れたよ


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蜘蛛の巣苑 柴谷阿笶子 @aYachy

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