岡山の桃
苦髪楽爪。
苦労しているときは髪が伸び、楽をしていると爪が伸びる、という言い伝え。
思い出しながら爪を切った。
ねえさんはよく爪が伸びる人だった。夜別れ、翌日の昼ごろに会うと、昨夜より爪が伸びているのが傍目にもよくわかった。
あの頃、決して楽していたわけではないのに。
久しぶりにねえさんのことを思い出していた日の午後、昼間留守番をしている部屋へ、桃が届いた。宛名は勿論、留守番の私の名であるはずもない。例年のことであり、驚くには値しないが、連絡が取れなくなって約半年、今年はもう届かないと考えていた。
律儀で礼節のあるねえさんを誇らしく思う一方、少しく妬心めいた気持ちも否めない。
私には電話どころか、メール一本くれないのに。
人は財産だ。どこのどんな誰と付き合うか、その取捨選択は人生に大いなる影響を与える。
ねえさんの選択は当然ながら正しい。私などすがるその手を振り切りちぎり足蹴にしても遠ざけるべき輩であり、部屋の主人は是々非々に今後とも親しくすべき立派で頼りになる年長者だ。
大きく白くまん丸な、見慣れたその美しい桃をひとつ、持って帰ることを勧められたが敢然と固辞し、帰途に着く。
いつもは混んでいるすぐに座れた帰りの電車は、何故ならそうだ、世間ではお盆という時期のおかげだ。
着席し、百閒先生の文庫本を開く。
『時は変改す』を読みつつ、両肩が震えてしまう笑いをとめられない。
やがて列車は鎌倉駅に到着。三分間の乗換えのため、歩廊を小走りに移動。
乗り換えた電車では座れなかったため、読書はやめにしたが、やがて幾つめかの駅で空席ができた。
一時間ほどたっぷり車内読書をしたので、眼を休める意味で、着席しても続きを読むのはやめにする。
見回せば、普段は乗り合わせないような、老若男女が多い。矢張り、世間は盆休みなのだと改めて実感。
それから、先ほど堪能した百閒先生の文言を思い出し、反芻していると、そこから、また、桃の白い表皮と、ねえさんを思い出す。当然といえば当然の連想。百閒先生と桃とねえさんは、岡山という土地を共有しているのだから。
一度思い出すと、慌てて抑えようとしても、その時遅く、彼の時早し。
喉の奥から桃を小さくしたような玉がせり上がってくる。
もりあがった玉が口中いっぱいになると同時に、苦しいのか痛いのか、どちらなのかわからないが、どちらでもないのだろうが、眼に涙が溢れそうになる。
乗客は多数。いい年をして泣いたりするなどみっともない。
そう思っていると故意にか偶然にか、不意に欠伸をもよおして、潤んだ眼球を上手くごまかすことが出来た。
降車駅の停車場に降り立ち、他には誰も降りた客がいないことを認めると、登り始めた坂道は、逗子の町並みも三崎の灯台も、線香花火のようにきらきらと、文字通り眼前の水分にゆらめく。
そのとき、不意に足元で、
「みやあ」
前足をおはこにした、みやさん(半野良の猫。この猫のことは別な場所 に書いたので詳細は割愛する)がそこにいた。
「いたの」
「みやあ」
「ごはん、もらったの」
「みやあ」
何を話しかけても「みやあ」である。猫だから仕方がない。「みやあ」と返事するだけ、可愛いというものである。「みやあ、みやあ」というから、みやさんと心の中で名づけた。
みやさんはそこから動こうという様子は一切見受けられなかった。とすると、今夜の「みやあ」は空腹のためではなく、三崎の灯台を線香花火に見立ててしまった私への挨拶だったんだねと思う。
ありがとう。
ひとりぼっちでも頑張らなくては、と鼓舞した思いが一気に消沈した桃の到来、滲む視界はちっとも澄まず、頬には熱いものが伝う。
今一晩、涙し、そして、明日は、明日に任せよう。
今日が、今夜がなければ、明日という順序は成り立たないのだから。
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