泣き虫

@gourikihayatomo

第1話

明日香がまた泣いている。今度は姉弟ゲンカだ。

「あーちゃんなんか、大きらい」

大介は平気な顔で明日香に言い返し、弟の思わぬ逆襲に明日香は泣き声を強めた。


その夜、寝る時に明日香はお母さんにベッドの中でたずねた。

「お母さん、どうしてわたしってこんなに泣き虫なの?ケンカをしてもしかられても、すぐなみだが出てくるの。がまんしようと思っているのになみだを止められないの」

「涙が出るのはとってもいいことよ。感情が豊かっていう証拠でしょ。それに、悲しみも怒りも涙に流してしまえば消えてしまうわ。だから明日香は、いつも明るいじゃあないの」

「でも、すぐになみだぐむのはイヤなの。はずかしい。大介はなぜ、泣かないの?」

お母さんは少し考えた。明日香はたしかに泣き虫で、家でも学校でもよく涙を見せる。口が立つようになってきた四才の弟に言い負かされて泣くことも多い。

のんびり屋の大介はまだ、悔しいとか寂しいとかそんな微妙な感情は発達していないので、本当にどこかケガして痛かったり、母親にきつく叱られたりすれば泣くが、わけもなく悲しくてメソメソするなんてことはない。

もちろん、大介も成長すれば明日香と同じように泣くことができるようになるのだ。 しかし、そう説明したとしても明日香にとっては今が問題なのだ。

お母さんは考えた。

「あのね、泣き虫の秘密を教えましょうか。誰にも内緒よ」

お母さんが急に声をひそめたので、明日香は黙ってうなずいた。お母さんが「内緒よ」という時は大事な話なのだ。

「明日香がよく泣くのは身体の中に『泣き虫』がいるからなの」

「泣き虫?」

明日香はけげんそうな顔で問い返した。

「そうよ。みんなの胸の中にはとっても小さな虫が住んでいるの。子供が泣くのはこの、泣き虫のせいなのよ」

明日香はきょとんとしていた。

「よく聞いて。子供が寂しかったり悲しかったりした時、胸の中で泣き虫がそれを感じ取ってさわぎ始めるの。泣き虫が胸の中で身体を震わせると子供も泣きたくなって、涙が出るの。

でも初めは泣き虫もまだ泣き方をよく知らないから、ちょっとしたことでメソメソするだけ。そのうちに少しずつ上手に泣けるようになるのよ。それまでの辛抱、明日香はもう少しよ。

泣き虫は子供と一緒に成長するの。その子がどんな子になるかで、泣き虫がどんな風に育つかも変わり、泣き虫の成長の仕方で、その子の泣き方も変わるの。

明日香には、悲しい時や感動した時にステキな涙が流せて、わがままやいくじなしの涙はこらえられるようになって欲しいのよ。そんな風に、泣き虫と一緒に成長してちょうだい。

それに……、泣き虫は役にもたつわよ」

お母さんはニコっと笑って続けた。

「明日香も" 虫の知らせ" とか" 虫が好かない" とかって言葉、聞いたことがあるでしょう。その子に危険がせまると胸をドキドキさせたり、この人は怪しいから気をつけなさいって悪い人を教えてくれたりするのよ。

泣き虫はちゃんと育つといろいろなサインを出してその子を守ってくれるの」

明日香は少し考えてからいった。

「" おなかの虫が鳴く" っていうのも関係あるのかしら」

「そうそう、ちゃんとご飯を食べないと大きくなれないわよって教えてくれるのよ」

「ふーん。でも、泣き虫はどこからやってくるの?」

しだいに明日香はお母さんの話に引きこまれていた。

「ふつうはお父さんやお母さんからね。大人はあまり涙を見せないでしょう。泣くことが少なくなったら泣き虫はその人と一緒にはいられなくなるの。そうなったら、泣き虫は近くにいる子どものところに引越ししてしまうの。夜、一緒に寝ている時などにね。

そしてまた最初に生まれ変わって育っていく。すべては自然に起こることなの。でも特別に泣き虫をお引っ越しさせる秘密のおまじないもあるのよ」

「泣き虫に早くなりたい子なんているのかしら?」

「どうかしら。そんなにたくさんはいないわね。ほとんどの子は気づかないうちに泣き虫をお父さんやお母さんからもらい、大人になると自然に自分の子どもにあげてしまう。だから泣き虫が本当にいるってことを知らない大人もたくさんいるのよ」

「わたしの泣き虫はお母さんがくれたの?」

「そうよ、お母さんもよく泣いていたから、たくさん泣き虫が明日香のところに行ったのかもね」

お母さんはウインクした。

「じゃあ、大介は?」

「大介にはお父さんの泣き虫がお引っ越しすると思うの。でもお父さん、このところずっと忙しくて大介といっしょに寝ることがなかったでしょう。それでまだ大介は『泣き虫』を持ってないのよ」

明日香はお母さんの話について考えた。お母さんはよく冗談で家族をからかうけど、内緒の話という時は本気だ。たとえそれがどんなに突拍子もない話でも。

もしそうだとしたら……。

「だったら、わたしの泣き虫を大介にあげてもいいかしら」

名案を思いついたように手をポンとたたいて、明日香はニッコリした。

「そうすればわたしの泣き虫は治るんでしょ」

明日香は泣き虫を弟に分けたら、自分の泣きべそはなおるかも知れないと考えたのだ。 お母さんとしては涙の大切さを理解してほしかったが、それを今、明日香に押し付けてはいけないことも分かっていた。

「あなたの泣き虫のことはあなたが決めていいのよ」

「お母さん、そのお引っ越しのおまじないを教えてちょうだい」

「それが明日香の本当に望むことなら。よく聞いて。相手が寝ている時に、耳元で『泣き虫小虫、あっち行って泣いてこい』と囁いてフーッとやさしく息をふきこむの。絶対に寝てる子を起こしてはいけないわよ」

明日香はかたわらの大介の方に向き直った。昼間のドロ遊びで疲れて大介はぐっすり眠っていて、少々声を出しても起きる気づかいはなかった。明日香は一気におまじないを唱えた。

「泣き虫小虫、大介のところに行って泣いてこい。泣き虫、みんな行ってしまえ」

「待って、明日香。自分の分を残しておかないと。泣き虫を全部追い出しちゃうと明日香は泣けなくなるかもしれないのよ」

「いいもん。なみだなんかいらないわ。なみだが出なくなればケンカしても負けないし」

そう言うと明日香は少し強めに息を吹き込んだ。そして満足したように、すぐに眠りについた。

次の朝、明日香が学校に行く前にいつもの一戦があった。しかし、これまでと違って明日香は泣かなかった。

「大介、ばかなことはやめなさい。今日から泣き虫はあんたよ」

明日香はきっぱりとそう言い切ると、軽く弟のお尻をたたいた。大介はきょとんとしていたが、いつもとちがう姉の態度にとまどったように泣きだしてしまった。

『本当に泣き虫は大介のところにいったみたい』

明日香は確信を持った。


その日、学校でいきなり、上級生のいじめっ子と対決することになってしまった。

「自分の使ったものはちゃんとかた付けなさいよ。みんな、こまるでしょ」

その子が自分の遊んだドッジボールをそのままにして帰ろうとするのを見つけたのだ。しかし、明日香の注意を無視してかけ出そうとしたので、明日香は彼女の手をとらえた。

「待ちなさいよ」

すると相手は、

「何よ。そんなにかた付けるのが好きなら、あなたがかた付けなさいよ」

と言ってじろりとにらんできた。

いつもなら、ここで目に涙がじわーっとにじんでくる。

自分が悪いくせに平気で人の注意を無視する態度と、それに対してはっきり注意できない明日香自身へのもどかしさ、情けなさで泣けてくるのだ。

しかし、今日は違った。

「ボールで遊んだのはあなた、だからかた付けるのもあなた」

明日香はきっぱり言って、その子の手をつかんで放さなかった。にらみ合いが続いたが、先に目をそらしたのはいじめっ子の方だった。

「かた付ければいいんでしょ。かた付ければ」

そう言う、相手の目は少し涙で濡れていた。明日香が勝ったのだ。

『やったー』

明日香は泣き虫とサヨナラしたことを本当に嬉しく思った。これから私は誰にも負けないで、強い自分でいられる。悲しさともくやしさともサヨナラだわ。

その日の明日香は天下無敵だった。誰と口ゲンカしても負けなかった。 自習の時、いつもさわぐヒロシを一声で静かにさせたり、掃除をサボろうとする男子たちをつかまえて来て机を運ばせたり、今までできなかったことが嘘のように簡単にできたのだ。気分は最高!

ところが……。


「ここは森川に読んでもらおうか。いいところだからな」

国語の時間、先生は明日香を指名した。明日香は音読が得意だった。明日香の情感をたっぷりこめた音読はクラスのみんなをいつも楽しませていたのだ。

ところが読み始めてまもなく、

「おい、どうした?いつもの調子は」

というけげんそうな先生の声が響いた。

先生に言われるまでもなく、明日香も気づいていた。全くの棒読みだったのだ。

本を読む時に感じる楽しさを、今日はいつもほどは感じなかったし、自分の中に感動が生まれてこなかった。正確に言うと、楽しさは感じるのにそれが心の中で膨らまず、身体全体に溢れてくる感動が成長しなかったのだ。だから読む声も一本調子になっていて、クラスのみんなに感動を伝えることなどとうてい出来なかったのだ。


「一体、どうしたのかしら」

明日香は帰り道で考えた。たぶん、涙を捨てたことと関係あるにちがいない。泣くことと一緒に感動する心も捨ててしまったのかもしれない。

明日香は初めて不安になった。このまま本を読むの楽しさが消えてしまったらどうしよう。

それに涙がまったく出なければ困ることがほかにもたくさんある。卒業式、友達との別れ、お葬式、そんな時に涙が出なければ、冷たい人間と誤解されてしまうかも知れない。

「お母さん、やっぱり少し、泣き虫を大介から返してもらおうかしら」

明日香は家に帰るとお母さんに学校での出来事を残らず話した。しかしお母さんは小さく首をふりながら明日香に言った。

「残念ながらそれはできないのよ。一度、泣き虫をあげてしまった人はその相手からは返してもらえないの。みんなが好き勝手に泣き虫をやり取りするようになったら大変でしょう」

「じゃあ、私はもう一生泣けないの?」

明日香は泣きたくなったが、涙は出なかった。

「本当に明日香は、涙の大切さがわかったの」

お母さんはじっと娘の目を見つめて尋ねた。明日香はコクンと小さくうなずいた。

「もし、明日香が、本当に涙の大切さが分かったのなら……お父さんにお願いしなさい」


その夜、明日香は久しぶりに早く帰ってきたお父さんに「泣き虫」をなくした話をして、明日香にお父さんの泣き虫をちょうだいと頼んだ。

お父さんは最初、怪訝そうな顔をしていたがお母さんの目配せに気づいて、黙って明日香の話を聞いた。

「そうか。明日香は涙の大切さがわかったと言うんだね。明日香はひとつ成長したんだ。でもお父さん、最近ずいぶん泣いてないから、もう泣き虫はいないかもしれないぞ」

お父さんは愉快そうにそう言いかけたが、明日香の真剣な顔を見てあわてて付け加えた。

「冗談冗談、きっとまだ残っているさ。明日香の言うようにおまじないを使ってみよう」

「お父さん、泣き虫は少しだけでいいのよ。泣きベソには戻りたくないんだから」

明日香はふとんの中で念を押して、目を閉じた。

「わかったよ」

お父さんはうなずいて、明日香から教えられたおまじないの言葉を唱えた。

それからお父さんは明日香の様子をしばらく見守り、考えこむようにしていたが、やがて口を開いた。

「明日香は泣き虫を本当に信じるのかい。泣いたり笑ったりするのは、泣き虫のせいではなくて、やっぱり明日香自身じゃあないのかな。感動して泣くのは自分が精神的に成長した証拠なんだから全然、恥ずかしいことじゃあない。

たしかにお母さんは不思議なことをたくさん知っているけど、お父さんは泣き虫なんていないと思うよ」

返事がないのでお父さんは明日香の顔をのぞきこんだが、彼女はすでに寝息を立てていた。

「ふぁああ……」

明日香の寝顔を見て、お父さんも大きなあくびをした。


しばらくしてお母さんが二階の様子を見に上がってきた時、お父さんも明日香の隣りで、小さくいびきをかいていた。

だから、小さな虫たちがお父さんの口から明日香の耳へ、一列になって行進していくのを見ていたのはお母さんだけだった。


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