5. Package

*テーマ:衝動、契約


■Scene 1

 ムシ暑くまとわりついてくる空気の膜が、知れず頭の奥の方を溶かしていた。どろどろに溶けた脳ミソは、ともすれば肉を焼く匂いが生々しい焼肉屋の、テーブルに並べられたホルモンみたいに旨そうに思えた。遠くのビルが陽炎に揺れているのを鳩みたいに見つめながら、帰路を急ぐ急行の列車はもくもく走る。車体が揺れた拍子に、図らずも隣に立つ人の後頭部に肘をぶつける。その一瞬に垣間見えた、向こうに座り眠る女の、半袖から浅ましく垂れ出たはみ肉。それを焼く空想でしばし苛立ちは紛れた。

 あぁ、そうだ、明日は焼き肉を食べよう。でも、その前に今日の晩御飯が最優先事項である。ユーウツだなぁ、とため息は嘆いた。お腹は空いているはずなのに、車内に充満する不快度指数が食欲を打ち消している。作る気はすでに失せて、さっそう彼女の足は出来合いものを買いに行く心積もりだ。


 駅を上がってすぐの角を曲がると、スタジアムに続く複雑な路地に、伝統的な並びを守って個人商店が陳列している。その大半が中華料理店だが、たまの店先にはチャイナドレスが引っ掛かっていたりする。

 日本有数のチャイナタウンだ。少し広い通りに出れば、商店街でいうところのアーチみたいに、いかにも恭しく鳥居が建っているし、奥まった方には社も点在している。けれども、ここで育った愛(めぐみ)にとっては、単なる商店街と言って相違ない。ましてやこんな雨降る平日の夕方ならば、観光客の数もそぞろな、ただの中国人街である。傘を並べて歩く客より、店先の品物を気にかけているおばさんの方がいくらか目に留まる。

 ここにあるもので目新しいことは何もないけれど、愛はこの横浜での生活に飽き飽きしたことは一度もない。たまの休日に賑わう街を見ることがあれば、こうして閑散とした(良く言えば、すごく落ち着いた)街の表情もまた一興だ。絶えず変化する環境の流れに関しては、ここはその速度がとても緩やかだと思う。それはたぶん、ずっと昔の建物が、ことさら主張も引け目を感じることもせずに、丁度よく混在している街並みが物語る通りなのだ。外側からの刺激を甘受しつつも、新しいコトやモノをひたすら陳列するのではなく、自分に合うように変換してからゆっくり慣らしていく作業を繰り返すのだ。

 さて、夕飯は何にしようかと選択肢を思いめぐらして、肩掛けの鞄から携帯電話を取り出した。最も慣れた手つきでメモリを探し、通話ボタンを押す。寝ているかもしれないとも思ったが、当人だってお腹は空いている頃合いだろう。こうして、変なところで優柔不断な彼女は、しばしば決定を彼に委ねる。もちろん、その前に選択肢を彼女好みに絞っておくことは忘れない、が―――。数回のコールのあと、「はい」と応じたその声に、無意識に表情が緩む。チマキと、水餃子と、肉まんと、シュウマイと…今日の夕飯は何がいい? 本日の料理当番をサボタージュする気満々の彼女の電話に、スピーカーの向こうで苦笑を洩らす声が聞こえた。



■Scene 2

 知れず、うたた寝をしていた瞼を跳ね開けると、前の乗客席には誰ひとり座っていなかった。肩をずり落ちたスクールバッグの片ひもに気付いたが、直すのも面倒くさくなって足を大の字に投げ出した。白いポロシャツと紺のプリーツスカートから、健康的に日焼けした手足が伸びている。車窓の外には普段見慣れない緑と青の風景が広がっていて、電車をすっかり乗り過ごしてしまったのだということに気づかされた。夏休みだというのに朝早くから部活に励んだ体は、思いのほか疲れているらしい。辺りはすっかり別世界だが、あとは帰るだけともなれば焦る心は微塵もなかった。


 未来(みく)はこの頃、認めたくない心の檻を抱えていた。一つは受験に臨む高校生の特有のものであり、もう一つは年頃の女特有の、一種の病気みたいなものであった。多くの作家や経験者たちが後にそう語るように、それは本当に風邪とか流行り病みたいなもので、誰でもかかるが所詮一時のものでしかない事象なのだと、未来は何度も呪文のように反芻し、自分に言い聞かせる。成長の時期を認めても、自分のペースを見失うなんてそんなことは認めたくない。なにしろ、それはとても怖いことだ。だから、未来は自分でコントロールすることのできないその感情を、本で読んだ通りに風邪だと思い込むことにし、外側に表象しないようひたすら部活に打ち込むことにしたのである。しかしながら、その部活もこの夏の練習と合宿を最後に、引退の時期を迎えてしまうことになった。焦るように過度に熱中したあとの体は、こうして心に追いつけずに失速する。そうして生じたジレンマは、もともとあまり頭で考えるタイプでない未来の思考範囲を飛びぬけて、彼女を深い眠りへと誘うのであった。

(もう少し寝ていたい…)

 気だるい足でホームを変え、上りの電車に乗り込む。下りだった先程の車内とは空気が違う。駅が進むにつれて心の解放へ向かうような下り電車に比べ、こちらの電車はまるで逆に何か重たいものを次々と纏っていくようであった。自分の家に向かっているだけなのになんとなく陰鬱な気分になるのは、たぶんこの電車の向かう先の街とさっき乗り換えた海沿いの町との、空の色の違いが深く影響しているに違いない。そんなとりとめもないことを考えながら、今度こそ眠ってしまわないように意識を保つ。ようやく目的の駅に辿り着き、そこで正確に下車したときには、すでに時刻は十六時になっていた。


「大村か?」

 電車を降りると、未来は現在最も会いたくない人物の声に足を止めた。簡素なTシャツに薄手のジャケットを羽織った仕事帰りの装いで、彼―――高野総士(そうし)は彼女を呼び止めたのである。果たして偶然に遠回りした横浜駅で、たまたま通りがかった彼に声をかけられる確率とはどれほどだろうか。だが事実は奇しく、彼が改札を通過しようとしたその時、折しも、未来は同じように改札を出て、バス・ステーションに向かうところだったのである。

 夏休みの不自然な時間帯に制服で駅をうろうろしているという状況はどこか居心地が悪く、未来は声をかけられた瞬間、思わず肩を強張らせた。第一、振り向いて顔を見たら、折角忘れようとしていた感情を再び思い出してしまいそうな予感が彼女を苛んでいた。だから、しばしの間、未来は足を止めたまま振り返らなかった。本当を言うと、そのまま気付かなかったふりをして立ち去りたかったのだが、雑踏の中から声一つを拾い上げて無意識に足を止めた後では、もう自然を装うことはできそうになかったのである。

 彼女からすれば、この遠回りは単なる偶然であり失敗であり、今日一日のささやかな後悔になるかならないか程度の小さなイベントに過ぎなかった。…はずであった。しかし、期待は別の偶然によって裏切られ、後の彼女の変革に大きなきっかけをもたらすことになったのである。



■Scene 3

 夕飯には、買ってきたチマキと、インスタントパッケージの青椒肉絲を作って食べた。食器を洗う彼の細身の背中を見つめながら、愛はグラスを傾ける。からり、と透明な容器の中で揺れた氷は、外気の温かさに触れて静かに融解し、そしてまた、グラスを持つ彼女の指先を濡らした。母が漬けた梅酒を晩酌するのが近頃の日課になっている。彼はたびたびその晩酌に付き合ってくれるが、生来のマイペースさゆえに落ち着いて酒を傾けるということがあまりない。洗い物なんて飲んだ後だっていいじゃないか、と思う愛の大雑把ぶりとは反対に、気にかかったら行動しないと気が済まない性質なのである。そのくせ、双方几帳面とは到底言い難く、愛は見ての通りのアバウト主義であり、彼は関心のないものに対しては極めて適当な価値観をもった人であった。

 互いに今年で二十九を数え、三十路リーチが頭の中で華やかなファンファーレを鳴らしている。全くと言っていいほど面識のなかった二人であったが、二十四歳のときに知り合ってすぐ交際がスタートした。好都合だった、というのが正直な理由かもしれない。特別な事情とか間柄とか、そういうものが一切ない真っ白な二人だったからこそ、気取らずにありのままの自分たちを表現できた。綺麗な恋人を演じたい年頃でもなくなっていたから、その出逢いはすごく自然に二人の中で始まっていたのだと、後になって気付く。そうこうしているうち、あっという間に五年の歳月は黙々と流れた。

「今日のチマキさ、あれすごく美味しかったよね。どこで買ってきたの?」

「入口のとこの、いつもは肉まんを買ってきてるところ」

「あぁ、あそこか。僕も今度の料理当番のとき買ってこよっかな」

「悠ちゃんはお料理上手だから、だめ」

 生活の部分に関して言えば、二十代前半の頃に比べて随分と落ち着いてきている。けれど、その一方で、別の焦燥感が年齢とともに重く増してきていることが、愛にとって気がかりでならない。そう、言ってみればそれが、彼女にとって最近で一番の悩みごとなのである。

「ねぇ、悠ちゃん。そろそろこっち来て一緒に飲んでよ」

 はいはい、と悠は緑のエプロンを頭から通して外し、丁寧に折りたたんでダイニングチェアーの背もたれに掛けた。最後に食器乾燥機のスイッチを回すのを忘れない。先刻飲みかけだったグラスは、ソファーの前の小さなテーブルに、つまり愛のグラスの隣に置いたままである。1LDKのこじんまりとした部屋に、隙間を埋めるように置かれた家具たちは、時間をかけて選んだ分だけどれも愛おしい。

 悠はにこにこと満足げに微笑んでソファーに腰を下ろす。それを、待ちくたびれた愛が不満げにぶうたれた顔で見つめるが、彼はそんなことは気にも留めず、相変わらず花でも愛でるみたいに眺める。そのことがまた愛の不満を助長するのだと、彼は解らないらしい。氷が溶けて色のますます薄くなった彼のグラスの中身を見かねて、梅酒を注ぎ足す。氷をすすめたら、やんわりと手で断られた。

「そういえばねぇ、有紀が結婚するんだってさ」

「有紀ちゃんって、大学の同級生の?」

「うん」

 しばし間を置いてから記憶を確認した悠は、遅れて「へぇー」と間延びした声を発した。卒業してからも年に一度くらいは会っている、比較的仲のいい友人だ。歳は一つ上のオフィスレディで、さらに五つ上の男性と、二年の交際の末結婚に至ったらしい。典型的と言えばその通りの、けれど愛にはどこか羨ましい報せだった。先々月ランチしたときには何も言っていなかった。うまくやってるの? という質問に、いつもと変わりないさっぱりとした表情で、まぁまぁねと応えたくらい。もともとさばけた性格の友人だったが、物事とはこういうときに限って前兆のないものなのだと実感した。

 しかし、まぁ、それはそれ。あっけなく「へぇー」で反応を終えた悠を横目で伺って、愛はちびちびと梅酒をすすった。もっと何某かのコメントがあってもいいんじゃないの? と心中で唇を尖らしたい気持ちである。目の前で彼の意識と視線を奪っているテレビが憎らしい。彼女の遠く見つめる視線に気づいたわけではなく、CMに入ったタイミングでこちらを振り向く、その辛辣。ふてくされたままそこへ頭を預けると、迷いなく伸ばされた彼の左手が頭を撫でた。

「で、式には呼ばれた?」

「うん」

「そう、行ってらっしゃい」

 思い出したように言葉を繋げる扱いの巧さが、なんとなく腹立たしいけれど、それに対して何も言うことのできない自分がいるのも事実で。わずかに頭に回ったアルコールも助けてか、考えているのも馬鹿らしくなる。結婚ってなんなのか。それをぐるぐると考えることで、今与えられているこの幸せよりも温かいものが手に入るのか。沢山の人を巻き込んで公にこの生活を縛ることと、今の自由な生活を天秤にかけたとき、それは果たしてどちらが幸せだと言えるのか。

 有紀から送られてきた招待状に描かれた金のフォントと、母の漬けた梅酒の緑が、錯綜してテレビの画面みたいに思考を麻痺させる。結婚ってなんなのか。甚だ疑問だ。



■Scene 4

 高野総士は、未来が通う私立の女子高校で国語の非常勤講師を務めている男である。歳の頃は正確には定かでないが、たしか二十九だったように思う。数年前に赴任してきたばかりだが、明るい性格な上、人好きのする幼くて柔和な顔立ちが生徒に気に入られており、非常勤とは思えないほど生徒との距離が近い。未来の名前を知っているのもこのためで、さらに言えば、野球好きな性分ゆえ、未来の所属するソフトボール部にしばしば見学にくることがあるからである。ひょろりとした薄めの体は、お世辞にも肉付きがいいとは言い難く、スポーツができるのかどうかは想像の域を出ないが、快晴の日の下で見る彼の髪の毛は、日焼けした赤っぽいブラウンで、天然の柔らかそうな癖毛がきらきらと太陽光に反射してとても可愛らしい。未来はそれが好きだった。


 その彼がどうして未来を呼びとめたか。重ねて言うが、彼が未来の名前を知っていたのは人好きのする生来の性格ゆえであり、断じて他意はない。だから、そのときも彼は偶然見かけた未来に何気なく挨拶しただけにすぎないのだろう。振り向いたあと、他愛のない話をしたことは覚えている。部活か、と聞かれたので、そうだと答えた。時間が遅いことに関しても、正直に電車を乗り過ごしたことを伝えた。それを聞いた彼は疑いもせず声をあげて笑い、未来の好きな顔で大変だったなぁとはにかんだのだった。

 総士の乗り換える電車は未来の行き先と反対側だったが、彼は偶然の出会いを喜んでバス・ステーションまで送ってくれた。普段学校では見られないラフなスタイルの彼は、未来にとって先生であって先生ではない感覚だった。駅の雑踏の中を横に並んで歩くと、身長は平均よりやや高めであることが知れたし、人を避けるときのしなやかな動きだとか、エスカレーターでさりげなく自分を先にしてくれるところだとか、先生としてではない彼自身の所作が垣間見えてとても新鮮な気持ちがした。バスまでの短い距離であることがもどかしく、もっともっと彼と一緒に歩いていたいと思う。その気持ちは、未来が必死に忘れようとしていた感情のかけらで、一つ思い出してしまうと洪水のようにあふれてくる厄介なものだ。それに気づいてはいたが、けれども彼を見てしまった瞬間に未来は我慢の限界であることも悟ってしまった。彼のことを知りたい。その想いは貪欲で、いくら心の内に閉じ込めて見えないよう努力しても、自覚してしまった想いの塊は、重さを増して心に存在し続けるのだと。


 ステーションに着いたとき、未来の乗るバスはまだ到着していなかった。総士は指を口元に当てながら時刻表を眺め、来るまで待ってるよと言った。こんなことなら、いっそのこと丁度バスが停車していれば良かったのに…と未来は複雑な心中を皮肉に嘆いた。嬉しいはずなのに、心はちっとも軽くならない。むしろ、予定時刻が近付くほどに哀しみが増してくる、このもどかしい空白の時間がひどく辛い。楽しそうに話す総士の横顔を見上げて、未来はいよいよ感情のかけらを口にした。

「先生、このあと時間ありますか」

「別に何もないけど、どうした?」

 突然、真面目な声で問われた総士は、目を丸くして応えた。衝動で口走ってしまった言葉を続けるべきか躊躇したが、言ってしまった以上引き下がれなくなり、未来はぎこちなく微笑んで言葉を繋いだ。

「私、今日帰っても一人なので、夕飯でも食べに行きたいなぁって。でも、やっぱり迷惑ですよね、すみません」

「そうかぁ。でも連絡もなしじゃ、親御さんが心配するだろう?」

 その言葉に、思わず唇をかみしめた未来は、その仕草を気取られぬように視線をそらした。当然といえば当然のことだ。彼は仕事帰りの一教師で、自分は制服姿の女子高生。誰に気付かれるということではないかもしれないけれど、不躾なお願いだということは解っているつもりだ。そうして、半ば諦めた表情をした未来を、総士はしかし見逃さなかった。何か悩みでもあると思ったのかもしれない。やや困った顔をしながら、彼は未来の希望を快く引き受けた。

「よし、分かった。ただし、俺の実家だけどいいな? 食べたら、車で送ってやるから、寝るんじゃないぞ」

 そう言って、総士はうつむいたままの未来の頭を撫でた。自分より一回りも二回りも大きい掌が温かくて、未来はなんだかすごく切ない気持ちになる。先生が好きだ。徐々に形を成していく心の檻は、甘美に未来の心を締め付けるようでありながら、温かく包みこむ先生の掌にも似ていると思った。



■Scene 5

 結婚式というものは、第三者からしてみればどこか見せかけの部分が強いように感じられる気がする。それは、愛の中に「結婚」という形の実感が伴わないからなのかそれは分からなかったが、少なくともあの舞台席に実際に座ってみなければ、彼らが本当に幸せで綺麗な存在なのかどうかは解りそうもなかった。とはいえ、彼らが何らかの決意の結果、こうして結婚という形を選択していることは間違いなく、そうしたからには祝福すべきことなのだろう。つまり、他人事だ。そう思って自分と切り離して見てみると、たしかに彼女は今までで一番美しく、輝いて見えた。

 有紀の挙式は東京のシティセンターの上級階で行われ、東京で最も長いと言われているモダンテイストなバージンロードを、彼女はオーダーメイドの純白ドレスで闊歩した。キリスト教式のスタイルで、讃美歌は三一二番を斉唱した。「いつくしみふかき」はキリスト教主義の高校時代に、合唱で歌ったことが思い出深い一曲だ。それでも、いかにもフェミニンな海辺のリゾートチャペルでではなく、夜景と食事の評価が高いブライダルレストランを選ぶあたり、有紀らしい選択だと言えるだろう。ドレスは彼女のスタイルに完璧にフィットした高価そうなものであったが、ごてごてとした装飾品などのない、実にシンプルなデザインのものであった。それも有紀らしい。見たところ、私以外にも高校・大学の友人を大勢招待していたようで、規模からしても費用は一体どれくらいかかったのだろうかと、気にかかりながら黙々とフレンチを食べた。

愛はあまりこうした行事に参加する性質ではなかったので、このためにパーティードレスをしつらえる必要があった。シックなパープルのワンピースドレスを選びながら、あと何回それを着る機会が訪れるかを想像すると憂鬱な気持ちになったものだ。とてもじゃないが、あと何度も結婚式に参加するなんて気にはなれそうもない。歳柄、その度に結婚の難題を突き付けられるのは御免だし、自分が招待する側になる日が来るのかどうか、訳の分からない焦燥感に駆られるからである。


「愛、三か月ぶりね!」

 お色直しを終えた有紀は、ワインレッドのドレスに身を包んで再び現れた。黒を基調としたモダンなダイニングに、その紅は誰よりも異彩を放っている。丁度、同じく招待されていた大学時代の知人と話に華を咲かせていた愛は、手を振って陽気にやってきた彼女を見ておめでとうと言った。例による挨拶に一瞬困った顔を見せた有紀は、ありがとうと定型句をぎこちなく述べながら、二人に新しいワイングラスを勧めて、そこへ自らのグラスを突き合わせた。わずかにチンと音がした後、有紀は癖のある笑みを浮かべて「お先に」と言った。一瞬、どういう意味かはかりかねて言葉を逡巡したが、意地悪っぽく微笑む表情から、結婚のことを指すのだと思い至った。

「まぁ、あんたたちより一個上だし、そこは先にいっとかないとね」

「それでも、羨ましいです」

 隣で即答したもう一人の知人に合わせて、愛もにこりと微笑む。どうやら、隣の知人は結婚に絶大な興味を持っているらしい。持ち上げ上手な彼女が隣で熱心に有紀と会話を弾ませているのを横に聞きながら、手渡されたスパークリングワインに口をつけた。その、少しずつ流し込むように酒を飲む癖のある愛を見て、やがて会話を終えた有紀がくすりと笑った。

「その癖、直ってなかったのね」

「知らなかったっけ」

「ランチでお酒は飲まないじゃない?」

 あぁ、そうかと納得して頷く。年に数回会うことがあるとはいえ、言われてみれば、いつも昼間なのでともに酒を飲むということは卒業以来なかった。いつのまにか、さっきまで有紀と話していた知人は遠くの方へ移動しており、愛はすっかり有紀と二人で空間から独立していた。同様に、皆そこかしこで知り合い同士の会話を弾ませており、それぞれの空気が打ちとけ合って、緊張感は緩やかな調和へと移ろいでいる。かっちりとした衣服を身につけているのに、その光景はどこか不思議な感覚で、これがたぶん有紀たちの魅力の一部なのだろうと思った。彼女たちに惹かれあって集まった人々だからこそ、こうして打ち解けあうことができる。それは紛れもなく有紀の一つの特性であり、きっと新郎の彼もそんな人なのだろうと思う。

「愛は結婚しないの?」

 ふいに声色を変えて有紀が囁く。すぅっと通った鼻筋に、つんとすました表情の唇が、愛に向けられていた。

「付き合ってもう五年だっけ? そろそろ、そういう話が出てたりするんじゃない?」

 予想された言葉だったが、改めて突き付けられると心に重い。思わず瞳を眇めて、愛は視線をそらした。結婚を勧められるのが特別煩わしいということではない。それがまるで当たり前であるかのように突き付けられることが疑問なのだ。付き合う年月が長いほど、その必然性が増すかのように問われる質問。子供を作るのなら、結婚はしたい。法的に正式な婚姻関係を結ぶことの必要性も分からないつもりはない。だが、今得られている二人の幸せを必ずしも維持する楔だとは思えない。ならば、何を最優先に考えて選択すべきなのか、愛にはまだ答えがないのだ。

「有紀はどうして結婚を選んだの?」

 相変わらずワインを少しずつ流し込む愛に、有紀は少しの間考えてみてからできるだけ彼女を真っ直ぐに見つめて答えた。

「私の場合はね、年齢上焦ってたってこともなくはないけれど、この歳になって偶然彼みたいな人に出逢って、打ち解けて、そのうちに彼と『家族』になりたいって、そう思ったの。結婚って、恋人と違ってすごく辛気臭くて泥臭いものだと思う。綺麗な側面だけじゃなくて、もっともっと人間らしい汚いところまで、この人を理解したい、受け入れたいって、そういうことだと思うのね。もちろん、まだ駆け出しだから、その本当の相手は彼じゃないかもしれない。それは解らないけれど、私はそれを見極めるのも悪い経験じゃないと思うわ。自分の弱みを見せることはすごく勇気がいることで、大袈裟なんかじゃなく自分の命に関わることなのだけど、私だって何にも知らない子供じゃないのよ。これでも、信じることと信用することの区別はつけてるつもり。その上でもし裏切られることがあったなら、それはもう私の責任よ。つまり、そこまでの責任を負う覚悟が、私にはできたってことの証なのね」

 有紀の言葉はどこかの誰かの受け売りみたいなものだったが、ただ単に言葉を拝借しまくる薄っぺらい人間のそれではなかった。ひとつひとつの言葉の底には彼女が歩んできた経験と記憶がしっかりと根を張っていて、たとえ表現のフォーマットが誰かの言葉にすげ変わったとしても、彼女自身がそこから失われることはないのだということが読み取れた。けれど、その言葉の意味はどれも経験を伴ってようやく確信できるというようなものばかりで、愛が正確に理解を得るまでにはまだもう少し時間が必要なものばかりであった。

「ねぇ、愛。彼を愛してる?」

 いやらしい意味も、重苦しい意味も含まないよう、有紀は注意深く言葉を紡いだ。愛は突然の問いかけに面をくらったような顔で彼女を見返したが、すぐにその真っ直ぐな瞳に気付いた愛は、それが冗談でないことを汲み取ってから自然な表情で小さく頷いた。

「そう。ならば、いつかその想いを形にしたいと思う日がくるはずよ。たとえ、それが今の彼じゃなかったとしても、ね」

 有紀はそう言い残したまま、再びグラスをチンと愛のに突き合わせて、ダイニングの活気の中に溶け込んでいった。



■Scene 6

 先生の家で食事を済ませた後は、約束通り車に乗り込んだ。辺りはすっかり暗くなっていて、こんな遅い時間に彼といるという事実がすごく不思議なことのように思えた。行き交う車のライトが煌煌と街を照らすのを眺めながら、未来は携帯を取り出して母にメールを送信した。何にもやましいことはないけれど、どこかいけないことをしたような気がして、嘘のメールを書いた。というよりも、先生と一緒にいるということを自分の中だけの秘密にしておきたかったのかもしれない。先生には家の前から少し離れたところに停めてもらって、静かに感謝を告げた。何事もなかったかのように振舞って家に戻ることは、小さなスリルがあってどきどきする。

 人を「好き」ということに果てがないのだということを、本当の意味で知ったのは初めてのことだった。そして、そこにはきっと明確な始まりもありはしないんだと、未来は一人で悟るようにベッドの上で呟いた。人という大きな広がりが始まったときから、測定できない宇宙のようなそれが、遺伝子を包む海みたいに存在していて。広がりとともに蓄積された膨大なエネルギーは、「好き」という言葉を出入り口にしてそこからあふれ出す。私たちの心はただのパッケージで、からだの成長に伴って次第に容量を増やすけれど、未熟なうちは器が小さいからとても入りきる大きさにはなれないんだ。だからすぐに満たされるけど、苦しくって、そのうち手に負えなくって、持て余して、吐き出したくなるんだ。…

 それはまだ、未来にとって、理解には到底およばない程度のただの経験でしかなかったが、頬を静かに伝うこの事象の正体は、まさしく「あの人を好き」という事実に帰結していた。たぶん、彼も経験しただろうこの感情を、純粋に、しかしひたすらに知りたいと思った。自分よりもはるか先をゆく彼の軌跡を。どんな風にして、どんな人を「好き」になって、どんな痛みを我慢して、あの大きな心の器を育てたのだろう。

 この夜、未来は胸の高鳴りで眠れなかった。



■Scene 7

 総士の実家に行った日から、未来は眠れない日々が続いていた。それでも最近はまだましになった方で、始めのうちは学校に行くことすら億劫だった程だ。彼とまともに顔を合わせられる自信がない。自分の我儘で迷惑をかけたことも理由の一つだが、何よりも未来自身の心の変化があまりにも大きいためだ。彼を好きだと自覚し認めたまでは良かったが、一つ心のわだかまりがすっきりしたと思ったら、その中にあったのはそれより凶悪な感情の怪物だった。十二も離れた総士のことをどうにかしてやりたいと思っている他方で、釣り合うはずがないと諭す自分が混在している。だが、心が分裂したままでは当然勉強に身が入るはずもなく、模試の結果も散々だった。判定ランクが下がってDと印字されている成績表を眺めては、いっそう複雑になったジレンマに顔を覆った。

(どれもこれも巧くいかないことばっかり!)

 苛立ちのまま机に突っ伏した未来をみて、前の席に横向きで腰かけていた雪子が頭を小突いてきた。

「なぁーに、しけたツラしてんのぉ」

 未来より僅かに大人びた声をした彼女は、ぱっつんの前髪を整えながら横目で未来をからかう。肩にかからない長さのミディアムボブに、やや短めのところで揃えられた前髪。短く折って穿いた紺のスカートからは、色気のないパープルのジャージが覗いていた。褐色に焼けた長い腕が、未来の頭頂部をぐりぐりと押しやってくる。右耳にピアスの穴が二つ空いているが、それもそろそろ塞がりそうに見えた。華奢な体つきに似合わず指は使いこまれていて、爪も歪んでいる。同じソフトボール部として、三年間熱中してきた同胞だ。彼女はこんなにはつらつとしているのに、どうして私は…と比較してしまう自分に嫌気が差した。

「だっさいジャージ…」

「血気盛んな男子どもには、受験勉強のためにもこんぐらい気を遣ってあげたほうがいいのよぉ」

 雪子はカラカラと笑いながら、クラスにいる男子に聞こえるようわざと大きな声でそう言った。それを耳に入れた男子A・B・Cが雪子に向って「うるせーぱっつん」と言っているのが分かった。

(そうよ、ここには男子だっているのに、どうして…!)

 うら若き年頃の生娘ならば、恋愛と性欲に目覚めるのもおかしい話ではない。しかし、どうしてよりにもよって先生なのだろうか。クラスの男子でなかったとしても、他に選択肢はあったはずだ。それならば、ここまで悩む必要もなかったのに…と卑屈な気持ちになって唇を尖らした。

「ねぇ、あんた最近顔色悪いわよ」

 雪子がひとしきり男子とじゃれた会話を交わした後、怪訝な顔で未来を覗き込んできた。

「…へーき、なんでもない」

「なんでもなくて拗ねるわけ、あんたは?」

 少し棘のある言い方。それもそのはずで、最近といったら未来はこのやり取りを繰り返してばかりだったのだ。心配されて、それを突っぱねて、それでもまだ拗ねた態度をとっている。そんな友人に苛立ちが募っても、それは当然のことだろう。

 雪子には彼氏がいる。一つ上の大学生で、うちの学校ではない他校の先輩。二人が付き合っているのを知ってから少なくとも三年の月日が経っている。以前に別の友達から「卒業したら結婚するらしよ」との噂を聞いていただけに、今は彼女が羨ましくも憎らしくもあった。

「雪子にはわかんないもん…」

 考えたら余計にイライラしてきた。投げやりに答えた未来に対して、雪子も棘を強張らせる。

「あっそ。もしかして、高野センセのこと? あんた、まさか高野センセに告白しちゃったとかじゃないわよね」

 はっきりと言い募る雪子に、目を見開く。

「…なんで……?」

 なんであんたがそんなこと知ってるのよ。なんで今ここで先生の名前が出てくるの。なんでそんなしたり顔で私を見下すのよ。

 矢継ぎ早に言葉が頭をよぎったが、かろうじて言葉にするのは踏みとどまった。しかし、その表情を察してか、雪子は続ける。

「なんか、B組のあやちゃんが…ほら、高野センセの実家の近所に住んでるコ…がね、見たって言ってたのよ。センセーの家からあんたが出てくるとこをさ」

 ちょっとした噂になってるみたいだから、と雪子は段々声を静めて囁くように言い聞かせた。それを聞いて、血の気が引くのを未来はやけにリアルに感じた。

(ばれてた…? 私が先生の家に行ったこと……)

「ちょっとっ…! ミクっ!」

 悔しくて悔しくて、何が悔しいのか分からないままに、未来は席を立ちあがり教室を走って出ていった。あのまま雪子の話を聞いていたら、涙があふれてくると直感的に悟ったのだ。まるで、自分の気持ちをさらけ出されて笑い者にされているような気がした。雪子は知っていて私を宥めるふりをした。…冷静になれず思考はどんどんとマイナスの方向に走り続けた。全速力で走り去る未来を、総士が止めたのも気付かないまま。



■Scene 8

 生理がこない。額に手を当ててしばしの偏頭痛に眩暈を感じたのは、現在契約している出版社のトイレの中だった。毎月決まって三十日周期で来ていたはずの生理が、今月に入ってもまだ来ていない。さすがに数日の誤差はあるだろうと冷静になったのはもう6日も前のことである。明日で生理開始予定日から丸一週間が経過する。愛は思わずありもしない吐き気を感じて、トイレの扉に寄りかかった。しかし、いつまでもここで突っ立っているわけにはいかないと、なんとか自分を奮い立たせて手洗い場を出た。

 ラフなカジュアルジャケットにいつもの肩掛け鞄を下げた愛は、原稿の入稿と打ち合わせを兼ねて出版社を訪れていた。フリーライターをやっている愛は、ここが最も気心の知れた出版社である。高校時代から出版メディアに憧れてアルバイトをしていた懐かしの場所であり、また新卒で入社した初めての出版社であったからだ。二年前に独立したのは、仕事上の束縛感を感じたことと在宅ワーカーでITの会社を運営している悠に合わせたライフスタイルを送ろうと決めたからだ。今では二人して平日の好きな時間から自宅にて仕事に励んでいる。

 有紀の結婚式に出席した日、披露宴の二次会で飲んだワインが思いの外強くて久しぶりに酔った。また、話に夢中になっていたせいであまり物を口にしていなかったことも原因だったように思う。ともあれ、帰ってきてから悠に珍しがられつつ一緒にベッドに入った。抱き寄せられて寝るのが習慣になっている愛だったが、その日ばかりは胸が高鳴って眠れなかった。なんとか寝かしつけようと悠が頭を撫でるのが気持ちよくて、彼の胸に顔をうずめて自分からも抱きしめる腕に力を込めた。そんな普段と違う愛の所作に、悠が「どうした」と囁いたのを覚えている。「寂しくなった」と確か答えたのだったか…その辺りの自分の記憶は定かではないのだが、数回のやり取りの後、じれったさに身を捩って愛から口づけたのだけは記憶が正しい。根が我儘な性格を承知している彼は、愛の求めるところをその数少ないやり取りから推察し、判断し、最終的に彼女自身の好きにさせるという結論に至ったらしい。キスを求めた唇にはキスで返し、ハグを求めた腕にはありったけの愛情をこめてハグをくれた。「私のどこが好き?」と不安を口にしないまでも、悠は彼女の思惟を察して「大丈夫、大丈夫だよ」と言いながら何度も頭を撫でた。

 全てが酔った上での妄想でなければ、おそらくあれが原因だったのだろう。二ヵ月半ぶりに身を投じたセックスは、酒が助けるところもあってかひどく扇情的で情熱的だったように感じる。詳しい内容は覚えていないが、自分に触れる彼の掌がすごく熱かったという感覚だけは未だに肌に残っている。

「どうしたのよ、具合でも悪いの?」

 思い出して一人わずかに赤面する愛を、担当である笠井さんが指摘した。彼女は愛の同期で、今も愛の記事を担当してくれている仲の良い編集者だ。現在は雑誌の特集記事とともに、エッセイに近い小説を連載させてもらっており、今度その連載作品を一冊にまとめるにあたり、加筆修正やデザイン決定のため、打ち合わせを行っている。新しい原稿を差し出しつつ、愛は自然を装ってつぶやいた。

「それが…生理が来ないの」

「あらーもしかしてオメデタかもしれないってこと?」

「そう思う? 私………どうしたらいいんだろ」

 ぽつりとつぶやく愛に先程までの焦燥感はもうなかった。仮に妊娠していたとして、それを彼に告げたところで悠は動じないだろうという確信が愛の中にはあったからだ。そして、彼女が産みたいと望んだら、それも恐らく許してくれると…。だが、その考えに至っても結婚している姿が想像できない。彼は結婚を望んでくれるのだろうか。第一、それ以前に、子供ができたから結婚するなんて安直で迂闊なことはしたくない。彼のためにも、自分のためにも。そして子供のためにも。

「まぁ、冷静に、焦らずに、まずは妊娠検査薬を試してみることね」

「ええ……そうする。明日で一週間なの」

「なら丁度いいわね。それで、もし出来てたときは、籍を入れられるの?」

 笠井さんの尤もな問いに対して、しかし愛は答えられずにいた。その姿を見かねて、笠井さんが続ける。

「いい? どちらが前後しようといいけれど、いずれにしろこれだけは守らなくちゃいけないってことはね、自分以外の命に責任をもつってことよ。パートナーや子供だけじゃなくて、その人のご両親の場合だってある。そういう責任を負いますって神と法に誓うことが結婚でしょう。重大な契約だってことを忘れちゃだめよ」

 彼女の真摯な瞳をみて、愛は何度もその言葉を頭の中で反芻していた。

 次の日は何事もなかったかのように食事当番をこなしていた彼だったが、本当はあの日、柄にもない態度をとった私をどういう風に感じたのだろうか。「寂しい」と言った言葉の意味をどこまで捉えていたのだろうか。それが自分自身の潜在意識だったなんてことは決して認めたくないけれど、もしもこの身に別の命が宿っているのだとしたら、認めざるを得ない。いや、そうでなかったとしても、心に向き合うしかない。

 私は、あの人と一緒に生きていきたいのだと。



■Scene 9

 生理がきていない。学校から走って帰った次の日、腹痛が治らなくて学校を休んだ。話を聞いて学校を休むなんてそれこそ噂に真実性を与えるようなものだけれど、本当に腹痛がやまないので仕方ないという風に欠席の連絡をした。そろそろ周期的に時期だというこもあり、生理痛の一環だと思っていたところが、生理痛ではなかった。それどころか、来るはずだった日に生理がきていない。まだ誤差の範囲内だと自分を納得させてはいるが、いかんせん初めてのことで不安が募る。もちろん、原因になるようなことは何一つ身に覚えがないのでそういう心配ではないのだが、ここのところの精神的な葛藤と相まって、大きなストレスが未来に蓄積していた。さすがに受験時期になって学校を何日も休むわけにはいかず登校したが、気分が優れないために保健室へ行った。そこで得た答えは、「過度のストレスによる生理不順」だった。

 保健医の先生から伝わったのかもしれない。その日、未来は総士に教育相談室へと呼び出された。聞かれたことは予想していたものと十中八九同じで、ストレスの原因と最近の学校生活の様子、勉強の進み具合といった内容だ。担任ではなく彼に呼び出されたことを始め未来は戸惑ったが、この前家に招き入れてくれた日から総士が自分を心配してくれているのだということは薄々分かっていたため、それでだろうと思った。総士一人だったというところは、ある意味では幸いだったのかもしれない。もし他の先生や担任などが同席していたとしたら、この問題は解決しないだろうから。少なくとも、未来は話さないだろう。あなたに恋焦がれているなんてこと。あなたを想う気持ちが、未来の存在を侵食しているのだということは。

 総士は努めて穏やかな口調で未来に話しかけた。自分が語りかけるたびに彼女が俯くのを、感覚として気付いてはいながらも、正確に察することはできずにいた。しかし、だからこそ、そのもどかしさが彼を行動に移させたということもある。もしも自分が関与していることで彼女が悩みを抱えているのだとしたら、それは早計だった自分の対処が問題だったのだろうから。教師として、大人としての責任を彼は感じ、未来に質問を投げかけていた。だが、その気持ちがやはり彼女を苦しめるのだということに、彼は気付かない。

 最近どうだ、勉強の方はどうだ、残りの学校生活を楽しんでいるか…彼が少しでも気を遣って遠まわしに未来のことを察してくれているのはありがたかったが、それが彼女の心を救うことにはならなかった。逆に募っていくのは、総士に対する想いばかりで、未来はついに逃げ場を失い、言葉を振り絞った。


 あなたが―――――。



■Scene 10

 あれから一週間後。再び渡された新しい原稿を読み終えて、笠井さんはふぅと一つ息を漏らした。その瞬間は、執筆者である愛にとって一番緊張する恒例の場面でもある。もう一度原稿を一からめくり直し、大まかな流れを確認する。そこで、「うん」と頷いてから、赤のペンを置き、笠井さんは愛の方に向き直った。

「どうやら、自分の中で答えが出たみたいね」

「そうかもしれません」

 「答え」というのは明確なものではない。エッセイを通じて具体化された愛の感情の一部のことで、いうなれば最近しきりに悩んでいた内容についての彼女なりの回答ということだ。

 最近、愛は一言では言い表せない複雑な感情を抱えていた。結婚とはなんなのか。自分はいったい、悠との関係性の中でどうありたいのか。それはありふれた男女問題で、いい歳をとった人間ならば誰もが経験しうる課題である。妊娠の可能性を感じた時、しかし自分の考えは不思議なほどはっきりと明瞭な形になっていた。結果は陰性で、結局何事もなかったのだが、愛にとっては大きな契機になったのに違いない。彼女はその回答を、エッセイ小説という形に具現化することで、そして自分を「未来」というキャラクターに投影することで、自分の中で飲み下し受け入れたのである。

「作品のタイトルはどうしましょうか」

 笠井さんがにこにこと笑顔で愛に尋ねる。彼女の表情には、エッセイの完成が近付いてきたことによる嬉しさのほかに、愛が自分なりの答えを見つけ出せたことに対する喜びが含まれているように感じた。タイトルについて、予め自分の中にあった案をだしてみる。

「『Package』…なんてどうでしょう」

 

 打ち合わせの話もおよそまとまり、あとは出版の日を待つばかりとなった。今日は早く帰れそうだ、と悠にメールをする。短い文章のあと、「話がある」と入れようかどうか迷ったが、結局その言葉は直接会って口頭で伝えることにした。


 あなたと一緒に生きていたい。

 さぁ、どれだけ気取らずに私は伝えられるだろうか。

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