4. Twin-s

*テーマ:ツインズ


■眠りの森の1301号室

 幼いころに泊まったペンションは木の匂いがした。オタマジャクシにあふれる夏の川辺が近くにあって、夜はホタルがやってくるのだと父が言った。今思えば、決して綺麗ではなかったそれをやけに懐かしく感じるのは、そこが正木と過ごした一番の記憶だからなのだろう。床やテーブルに幾重にも刻みつけられた年輪の木目。硬いウッドチェア。二段ベッド。はしゃぐ私たちを優しく迎え入れ、暖かい懐に抱きとめてくれたのは、そこに棲む森の神様だったのに違いない。

ベッドヘッドで仄かに輝く、樹木を模したランプシェードを見ながら、私は一人温もりを懐古した。手の届く天井をコンコンと二つ叩けば、下から応えが返ってくる二段ベッドは、ここにはない。

「正木、起きてる?」

 発した声は届かない天井に木霊して空しく響いただけだった。ぼんやりとしたランプシェードの灯りが、まるで夕日を遮る高木の雑木林のように部屋を包むから、まるでたった一人取り残されたかのような寂しさを彷彿とさせる。けれどもここはツインルームだ。私が横たわるベッドの横には、彼のベッドがあるはずである。しかし、返事がない。ましてや、それは布団をがさと音立てる風もない。やはり寝てしまったのか、と落胆の念が色を濃くした。もう一度呼びかけてみようかとも思ったが、思ったきり止めた。二度もフラれてやる義理も権利も私にはないから。その代わり、多少の苛立ちを込めて寝返りを打つ。几帳面にベッドメイクされたシーツの冷たさが、やけに他人面して私の眠りを妨げていた。


 正木雄也は、物心がつく以前からの幼馴染である。家が近所だったことに加え、彼の母親と私の両親とが旧友同士であったこともあり、双子の姉弟のように育ってきた。長身というほど高くはないが、ほっそりとしたシルエットゆえに高身長に見られることが多い。これでも昔は顔のまんまると丸い子供だったのだが、どうやらそれは単に成長の順序が前後しただけに過ぎなかったらしい。黒目がちで犬のような瞳と黒子の位置が変わらないのなら、ゆうやんはゆうやんのままに違いないのだ。可哀想だから甲斐性なしのお人好しだなんて言わないが、「三つ子の魂百まで」を見事に体現する愛すべき同胞を、私は誰よりも知っている。

 互いに六歳のころである。両親に連れられて行ったペンションは、箱根の山際にあって、涼やかなテラスに蝉が啼いていた。木造の広いダイニングと水回りが一階にあり、二つの客室ともう一つ小さな個室が二階にはあった。小さな部屋にはこじんまりとした白木の二段ベッドが置いてあり、それだけでスペースの余裕がないので、あとは望遠鏡でも通すのかという程度の天窓が傾斜した天井に貼り付いていた。私たちは期待通りその部屋をあてがわれ、公平になるようジャンケンでベッドの選択権を取り決めた。たしか私がグーで勝ったのだったか。誇らしげな顔で上段を選択すると、ゆうやんは「最初から下が良かった」のだと嫌味なく微笑んで私を見上げた。そういう子だった。


「傷心旅行に行こうと思う。付き合ってよ、正木」

 そんなうら若き思い出の日々から二十年。半年ぶりに会って開口一番そう言った私に対してでさえ、ゆうやんは苦笑気味に目を細めて頷いただけだった。付き合って四年の彼氏と破局して、傷心していたのは確かに事実だったが、早々熱の冷めゆく薄情な頭で最初に思い出したのは、母でも友人でもなくゆうやんのことで。気がつくと私は、携帯のメモリで彼の番号を探していた。

 ―――もしもし、正木? 久し振り。あのねぇ、私、彼氏と別れた。うん、そう。あの人。あんまり落ち込んでるわけじゃないんだけど、なんだかアンタに会いたくなっちゃったんだ。いつなら会える?

 コールして応答があって、矢継ぎ早にそれだけ話した。ゆうやんが私の要求を断ったためしはない。それを知っているからなのか、思えば事あるごとに彼を頼りにしている自分へ、「なんて嫌な女」と苦々しく唇を噛み締めた。

分かっている。悪い女の自覚はある。

彼が私のことを「好き」なのを知っているくせに、知らぬ素振りをして身勝手に連れ回し、挙句ツインルームにチェックインした。優しさにつけ込んで性根の悪い魔女を振舞うのならまだいい。私はそれどころか、寝たフリもろくにできやしない中途半端な眠り姫だ。ゆうやんの気持ちには応えられないくせに、いけしゃあしゃあと助けを乞うて「同じ部屋で寝たい」とねだる。さぁ、果たしてカップルだったならツインとダブルはどちらを好むのかしらと考えて、噛み締める唇に自嘲の色を浮かべた。一つベッドで絡み合い睦み合うのも乙なら、愛し合うのと眠ることの分別をつけてベテランを気取るのも余裕でアリだろう。だけど、それはあくまでも偶発的な出会いによる、限りなく他人に近い相手との、本能と欲に塗れた「恋愛」の中でのお話だ。私とゆうやんはそうじゃない。互いに双子の姉弟のように育ってきた。血の繋がりなどという束縛を受けずして、家族以上の信頼と絆を培ってきたはずなのだ。今更、「恋愛」なんていう小さな枠に押し込んで欲しくなどない。

(それでも、昔みたいに「ゆうやん」とは呼べない乙女心を分かってくれとは言わないけれど…)

 結局、男も女も駄目にするのは「愛」だとか「恋」だとかいう類の、面倒臭い価値観に違いないのだ。Sleeping beautyが本当に美しいのは、眠っている束の間の理想に他ならない。やれ、口を開けばいかに麗しい王子との間にも諍いは起こるはずだし、ヒールで歩いたらいつかそのフクラハギを蹴飛ばしてやりたくなるに決まっている。ならば、眠ったフリをしてでも、私はゆうやんの理想のままでありたい。そして、幼いころ確かにそうであったように、「愛」でもなく「恋」でもない、もっと超越的な結びつきとして私たちを美化したいのだ。

(でも、あぁ、ツインベッドってこんなに遠かったんだっけ…)

 ツインを選んだのは他でもない自分だというのに、ここに至って改めてその選択を後悔している私は、やはり中途半端な女なのだろう。こんな曖昧な境界線を自覚するくらいなら、躊躇わずにシングルを選べば良かっただなんて。

「本当に、なんて嫌な女」

 

 一体、ゆうやんはどう思っているのだろうか。一体いつ「好き」を自覚して、いつからその眼差しで私を護ってくれていたのか。考えるだけで怖くなる。誰よりも分かっている顔をして、一番理解できていないのではないかと不安になる。すれ違いだなんて信じたくない。だけれども、時間というのはひどく残酷で、私を「女」に変えてしまったように、彼も「男」へと変えてしまった。その経過だけはどうあっても取り戻せないことくらい分かるつもりだ。

(どうせなら、甲斐性なしのお人好しなところも全部変わってしまえばいいのに)

 寝返りを打って背を向けた視線の先には、あのときの天井とは似ても似つかない、白塗りの壁。重苦しい羽毛布団から腕を伸ばして、コン・コンと二回合図をしてみる。やはり返事はない。けれど、一拍置いて、思いもかけず隣の部屋から同じように壁を叩く音が聞こえてきた。今考えてみれば、迷う私に応えてくれたその人は、あのとき私たちを温かく見守ってくれていた、森の神様だったのだろうと思う。その音は、記憶に残っている木造ベッドの音と到底重なることはないけれど。それでも、彼もあの頃のままだったら…と望んでしまう自分は愚かだろうか。

 願わくば、ここからは見えない彼の寝顔が、今も昔も安らかでありますように。絶え間ないランプシェードの優しい灯りに包まれて、私も密やかに瞼を閉じた。



■1302号室のへヴンズ・ドア

 死んだら日蓮宗の宗派に従って、墓石に名前を刻むつもりである。妻との婚式は神前式で行ったし、それ以外は別段宗教と関わることもなかったように思う。それでも、この歳にもなると天国というやつを夢想するようになる。極楽浄土、黄泉の国…呼び方はなんだっていい。いずれにしろ、これから近いうちお世話になるであろう、あの世は例えるのなら雲の上のような場所であって欲しい。つまり丁度、こうして横たわっているベッドのように、柔らかく弾力のある寝床であって欲しいということだ。硬い、優しさのない病院のベッドなどではなく、もっと上質なシーツとよく干された太陽の匂いのする布団がいい。穏やかな眠りを妨げられないように。退屈してしまわないように。サイズは、そうだな、キングサイズだったら良いかもしれない。そうしたら、私は誰よりも一番に妻へ枕を差し出すだろう。「さぁ、ここが僕らの新しい寝床だよ」と囁いて一緒に布団に潜れば、彼女はゆっくりと微笑んでくれるに違いない。もう硬いベッドに眉を顰めることはないんだよと、そう言ってやりたい。


「好きなとこに行ってくるといい」

 妻は病院のベッドで私にそう告げた。もともと身体の強い人ではなかったから、旅行なぞ数えるほどしか行ったことはないのだけれど、この晩年にいよいよ彼女は病を患い、遠出のできない状態になった。しかし、彼女はそれを気に病むでもなく、ただ私に一言「旅行にでも行っておいで」と言っただけだった。特別、手のかかる介護が必要なわけではないのだが、毎日のように見舞いに通ってくる私を気遣ったのだろう。「最後に一度だけ浮気を許す」などと冗談めかして、私を病室から送り出した。

「あっちへ行ったらきっと退屈する。そうなる前に、貴方も後悔のないようにしておきなさい」

 連れ添って六〇余年、互いにもうそろそろ先は長くないのだ。以前に私が九州へ行ってみたいと洩らしていたのを覚えていたのか。本当は一緒に行けたら良いのだが、どうもその要望には応えられそうもないからさと、彼女は患者服姿でからりと笑った。


 結果、私は妻のその言葉に従って旅行に行くことを決意した。とはいえ、それほど遠くの地に行こうというわけではない。眠る彼女の傍らで土産話を聞かせられるように出かけるのだ。一人で行こうかとも思ったのだが、長年の出不精ゆえに尻ごみしてしまって良くないので、友人を一人連れだって電車に乗り込んだ。浮気を許すと彼女は言ったが、この歳にもなってもちろんそんな大仰なことはできはしまい。年の頃が同じ男の友人を誘ったら、快く付き添いを引き受けてくれた。旅行代理店のパンフレットをかき集めて、行き先や宿泊先を相談して決めた。年甲斐もなくはしゃいだのは実に久しぶりのことだった。

「なんだかこの映画、俺たちみたいだなァ、立川さん」

 海沿いを鈍行でぶらりしたその夜、テレビを観ながらふと連れ合いの彼がそう口にした。ツインの部屋を二人で取ったのだが、彼はどうやら相当ベッドが気に入ったらしい。部屋に着いて荷物を適当な場所に降ろすなり、片方のベッドに腹ばいに横たわって、向かい合いに設置されているテレビをずっと観ている。

「何が?」

 部屋付きの浴室で手短に風呂を済ませた私は、頭をタオルで拭きながら短く疑問を口にした。

「これだよ、これ。有名な映画だったと思うんだが、なんていったっけなァ」

「どんな話だって?」

「余命短い男二人組が海を見に、病院を抜け出す話さ」

「ああ、」

 簡単な説明に該当するドイツ映画を思い出して、私は一瞬タイトルを迷うように言葉を区切った。

「『Knockin’ on heaven’s door』?」

「そう、それだ」

「残念ながら、私たちのようにツインルームというわけではないみたいだけどね」

 末期患者の若者二人が、病院を抜け出して車を盗み、盗んだ金銭でホテルに宿泊していた。キングサイズかという大きなベッドに優雅に横たわって、「死ぬまでにしたいことリスト」なんて洒落たものを書いている。そのシーンをぼんやりと見つめながら、果たして自分ならば一体どんな項目を挙げるか考えてみた。考えてみるも、どうやらあまり多く思いつきそうにない。恐らくそれなりに満足しているという証だろう。なにしろ、自分はもう充分すぎるくらいの年月を妻とともに生きてきたのだ。死ぬ前に後悔のないようにするという意味では変わりはないが、私たちは生を急いでいるわけではない。むしろ、とても緩やかな時間の中で、死がそっと訪れるのを待っていると言う方が正しいかもしれない。

 小さなスクリーンに映る彼らは、海を目指す道程の途中、仮初めの休憩として、豪華なベッドで眠りについた。しかし、それは死を想う彼らの心が求める、安寧の象徴だったのだと私は思う。ならば、やはり眠りにつくのは広くて柔らかいベッドが良いだろう。ツインではなく、二人一緒に眠りにつくのだ。二人で眠っても落ちないように、どうか天国のベッドがそう準備されてありますように。


 映画が終わると、隣のベッドではすでに規則的な寝息が聞こえていて、まるで同じ歳とは思えないほどフットワークの軽い友人に、そっと微笑みが零れた。彼が風邪などひかないように、注意深く布団をかけてやる。そして私も…と眠りにつこうとすると、ベッドヘッドの方の壁から、短くコン・コンとノックする音が聞こえてきた。隣の部屋の客だろう。何かを探るようにして恐る恐る叩く音から、おそらく相手は幼い子どもだろうと勝手に検討をつけた。一拍考えてから、私もそれに応えるように壁をノックする。「大丈夫、迷う君を知っている人はここにいるよ」と想いを込めて、どうか彼/彼女も今夜安らかな眠りにつけるよう祈る。きっとその音は天国の扉を叩く音に似ているのに違いないと、眠りに落ちる寸前に思った。

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