3. 彼の消息
*テーマ:依存
思えば、僕らはひどく弱くて、人一倍ダメな人間でした。何かに依存することでしか生きられず、それを失ってしまったらたちまち死んでしまうような、ミミズのような生き物でした。誰かに塗り固められたコンクリートを這って生き、照り返しに身を焦がしても、一体何を求めて日の下に出てきたのか解らず、解らないまま干からびて死んでいく一匹の虫でした。
■act. 1
「手も足も出ない」とはまさにこのことだ、と小柄で細身のその男――チョコは思った。ライトブラウンに染めた髪の毛は前髪に癖がついていて、何度アイロンで直しても外に出るとすぐに戻るのが彼のささやかな悩みだ。それをがしがしとかき回しながら、手元の書類に目を向けている。こんなときは、改めて見る自分のメイド服姿も一層空しく感じるというもので。何度目かの溜息をついてみても、目の前の現実は変わらず、である。
大学三年目の春も健康診断は憂鬱だった。中学三年のときに糖尿病と診断されて以来、一度として学校の健康診断で引っ掛からなかった試しがない。初めの頃こそインシュリン注射や食事療法などと頑張ったものの、今となってはすでに諦めの境地。少しでもストレスを感じたり、口が寂しくなったりすると、チョコレートがないと生きていかれない。そのくらいチョコレートが人生で大事だ。食生活を制限されるくらいならこのまま死んでやると啖呵を切って病院を飛び出した、あの時が人生で一番格好良かったと思える。
女装メイド喫茶でアルバイトをしていることにも深い理由はない。ただ、なるべく他人と違う仕事がしたかった。そして、一八〇度違う自分を演じて、誰かにもてはやされてみたかった。それだけのこと。鏡に映る自分はもう普段の自分ではないと、そう言い聞かせてジンクスをかける。「要再検査」と書かれた紙切れをおざなりにカバンの中に放り、ロッカーの扉を勢いよく閉めた。
ケータイのバイブが鳴ったのは、そのすぐ後のことだった。
幼稚な変身願望だとか、そういうことではない気がするが、自分と同じような気持ちを抱いている男をチョコは知っている。中学からの同級で、高校を出て一時期は彼ともう一人の男と三人で共同生活を送っていたことがある。漆黒の髪を長く伸ばして、いつも後ろで適当に結んでいた。暮らしていくうち、なんとなく名前で呼び合うのが気恥ずかしい時期があって、いい加減な呼び名をつけ合った。それ以来、三人の中で自分は「チョコ」、彼は「S」として生きてきた。「S」というのは、果たして何が由来だったか。彼の本名である「シュージ」が元だったか、サディズムの略称が元だったか、覚醒剤の俗称が元だったか…それはもう定かでない。ただ、彼を一言で表すとしたら、今でもやはり「クスリ」とそう答えるだろう。高校三年の秋から、Sは覚せい剤の常習者になっていた。
「チョコいる?」
何気なく声をかけた視線の先で、一瞬Sは驚いたような顔をした。あのときの表情をよく覚えている。
「なんだ、『チョコ』つったらマリファナのことかと思っちまうぜ。どうしようもねぇなぁ」
「チョコ」がマリファナの別称だと知ったのは、それが初めてのことだった。苦々しく笑ったSは、「さんきゅ」と一言断って、差し出したパッケージから一粒チョコレートを掬いあげて口に放った。
「思ったより苦いな」
「カカオ七二パーセントだから、甘くはないだろうね」
「けど、気に入った」
ニカと笑う笑顔は昔から何一つ変わってなどいなかった。けれど、そこにはもう以前のような屈託のない純粋な笑顔など、どこにもないということをチョコは悟っていた。
「…まだ止めてないの、」
言葉を一旦区切った先に何を言おうとしているのか、Sは把握したという風にもう一度笑ってみせる。
「メンボクないね…まったく」
そう言いながら反省の色がないSに腹が立った。彼がどういう意図と経緯でそれに手を出したのかは分からない。だが、覚せい剤を常用して刻一刻と身を削られていくのを、解っていてあえて服用し続ける、その姿をとても愚かしいと感じた。
「どうかしてる」
隠しもせず軽蔑の目で見つめるチョコに、Sは空回る声で喉を鳴らして視線を外した。
「どうかしてる、ね」
「そうかもしれないな」と続けて呟く。彼の向こう側の窓の外でカラスが鳴いた。
「だけど、俺にだってたった一個だけ心から『止めたい』って思うもんがある」
「それは何?」
視線を外したままの彼に、苛立ちが募って投げやりに言葉を返す。チョコは、ごそごそと箱の中を探して、ようやく見つけた最後の一粒を口の中で噛み潰した。パキリと小気味良い音がした瞬間、Sがこちらを振り返って言った。
「『人間』さ」
「人間?」
「お前はどうやったら止められると思う?」
質問だかなぞなぞだか区別のつかない問いかけ。哀しいことに、そう問いかけたSの表情は不自然なくらいに普通だった。思いつめて失意の顔で言うでもなく、狂ったように愚問を口にした風でもない。まるでそれは彼にとって普遍的な問題だとでも言うように、いたって冷静な口ぶりだった。
答えることができずに、チョコは再び「どうかしてる」と言った。あるいはそれは、クスリの副作用からくる異常なまでの倦怠感や憂鬱感ゆえだったのかもしれないが、仮にそうだとしたところでチョコには彼を咎めることはできそうになかった。第一、指摘したところで何が変わるというのだろう? 彼は友人だが、彼のことは何も知らない。どういう意図でクスリにはまったのかも分からない。そんな自分に、彼の問いかけに見合う答えは持ち合わせていない気がした。
グシャリ、とチョコレートのパッケージが手の中で歪む音がした。チョコの返答に一泊置いて、Sがつまらなそうに呟く。
「むしろ、どうかなっちまいたいのかもしれないな」
空しくも人間というやつは、自己に対して「飽きる」ということが容易に起こりうるらしい。しかし、現実は思ったよりも容易くなく、どうしようもなく自分を持て余しながら元の生活に戻っていくのだろう。だけど、もしも踏み越えてしまったら? そうしたらきっと恐ろしいことになるに違いない。ともすると、それこそが錯覚だと言われるかもしれないが、あの頃Sは確かに自分ではない別の何かになりたがっていた。いや、今となってみれば、誰にともなくポツリと零したあの言葉は、チョコの心の叫びでもあったのかもしれないと思う。だから、チョコは思い出すたびにSを否定する。彼を否定することで、糖尿病の自分にも、メイド姿の自分にも、平凡な自分にも妥協することができるから。
好んで携帯しているパッケージの中から、チョコレートを一粒取り出す。考えてみれば、特にチョコレートに依存するようになったのも、あの日の記憶を無意識のうちに忘れまいとするからなのかもしれないと思う。口に放って歯を立てれば、Sの記憶とともに陰鬱な気持ちがわずかに吹っ切れる気がした。
少しあって、フロアで女性客が彼を「可愛い」と囃し立てた。
■act. 2
その男――ブンタは、手帳の日付にまず丸をして、×をして、最終的には赤く塗りつぶした。図らずも、結局一番目立つ印の付いたその日は、彼の息子の誕生日であり命日であった。硬い短髪に合わせるように無精髭を生やした顔を、骨ばった右手で覆い隠す。深いため息の果てに、机の上でケータイが静かに点滅するのが見えた。彼のケータイが鳴る日は決まって良くないことの前触れだった。ただでさえ仕事仲間以外からはかかってくることのない電話が、日曜の昼間に鳴るはずはない。メールだとしても一体誰が…と訝しんでディスプレイを覗き込んだ。送信者のリストに、「S」という文字がぼんやりと浮かんでいた。
Sは中学と高校の同級生で、ある時期一緒に共同生活をしたこともある友人の一人だ。明るくて気前のいい男だったが、時折何を考えているのか解らないところがあった。高校三年のときに覚せい剤に手を出したと本人の口から聞いたが、服用が重度のレベルに達する頃には、アパートから出て行ってしまって消息が分からなくなった。まさに、それ以来の連絡だろう。
Sを思い出すときは、必ず彼の背中が思い出される。筋肉があまりない薄い背中に、漆黒の髪が掛かり、その隙間には幾重にも走った紅い傷痕が見つけられた。傷痕は絶えることなく彼の身体に刻み込まれていて、まるで孵化しそうな生き物の背を思わせた。それは正しく、彼の生命の証であり、やがて慟哭する前触れであったのだろうとブンタは思っている。
「新しい女か?」
茶化すように訊ねたブンタの横顔に、「バーカ」とSが間延びした声を上げた。
「彼女にとったらそれが商売だ。新しいも古いもない」
特に爪を立てる癖のある女らしかった。風呂上りに痛いと小言を言うものの、彼の真意はその逆で、爪痕をむしろ誇らしげに見せつけるかのようにも見える。「自慢するなよ」とやじると、「やめろよ、恥ずかしい」と言って照れたように笑った。
Sにはすでに両親がなく、なのにというべきか、だからというべきか、必要以上に金だけは持ち合わせていたようだった。もちろんその辺りの事情は知る由もなかったが、だからこそ彼はとてつもなくシンプルな生き方が可能だったのだ思う。吸収して、出して、寝て、起きて、吸収して、出して、寝て、起きて…延々とその繰り返しだ。金で買える範囲しか求めない代わりに、そこには欺瞞でも確かに一つの秩序が構築されていた。認めたくなかったが、それが事実だった。
「クスリ止めて落ち着いたら、ちゃんと女もできるだろうに」
それが正論だと自分の中で確信しつつも、何の気なしを装ってブンタはそう言ったことがある。煙草の紫煙を深呼吸のように吐き出して、諭すように言った一言に、しかしSは薄く微笑んだだけだった。
「愛情があればいいってもんじゃない。だからといって全く存在しないってこともない。だったら、割り切ってるところが丁度いいと思うときもあるだろう。そういうことだ」
何を指して「そういうこと」だと言ったのか分からなかったが、ブンタにはそれが構築された世界すべてに対して言ったように感じられた。珍しく饒舌にSが続ける。
「そりゃあ、気味が悪いのなんのってな。虫が這ってる女の背中を抱いたって気分良いわけないんだよ。けどな、達するその一瞬だけ、そいつらが孵化して―――」
「蝶にでもなるってか?」
燻っていた先端の灰を灰皿に押さえつけ、もみ消す。驚いたような声を上げたブンタに、Sは笑った。
「―――そうだったら良いのになって話だ。そう。つまり、ものは考えようってわけ」
価値観の相違と言われてしまえばそれまでだ。人並み以上を求めるも、それ以下で満足するも、結局は自分のエゴにすぎないと。ただ、ブンタはSのその満足した表情にある種の羨望と嫉妬を感じていたのだろう。
「…それって同じことなんじゃないのかな、世の中も」
上半身にTシャツをかぶってトイレに立とうとするSに、それまで黙っていたチョコが声をかけ、ブンタも落としていた視線をあげてSを見遣った。わずかに足を止めたSはしかし、その言葉をあえて無視した。
「ブンタ」という仇名はSがつけた。彼が愛飲しているセブンスターの銘柄の俗称を、人名みたいにして呼んだのがSだった。中学三年のときから吸い始めて、すでにもうかなりのヘビースモーカーだ。とはいえ、「いつ肺癌になってもおかしくない」と脅す医師の言葉は、もはや彼にとっては「いつ肺癌になるのか分からないけど止めたまえ」と同義であって、まるで説得力が感じられなくなっていた。蓋を開けてみればそこには、止められないだろうなという漠然とした予知があるだけだった。
しかし、彼とて禁煙を志したことくらいある。付き合い始めた彼女の妊娠が発覚したときに、少なくとも本数を減らす努力くらいはできたつもりだった。だが、彼女自身ももともと愛煙家だったこともあったのだろう、息子は結局死産だった。彼女は、最期まで禁煙できなかったブンタをなじり、責め抜いた。甘んじて受け入れたのは、そうしないと彼女の精神状態がどうにかなってしまいそうだったからだ。そして、それとともに彼女への想いが冷めていってしまう自分の心理に気づき、ブンタは絶望した。嗚呼、全てはエゴだった。望んだとおりにならないだけで、これほどにあっさりとどうでも良くなってしまう自分に吐き気がした。
だから、ブンタはSの言葉を否定する。彼の世界を肯定してしまったら、ブンタは過去の自分を再び招き入れることになってしまうから。息子の死を仕方がなかったと思うことだけはしたくなかった。
手に馴染んだケースから、新しいのを一本取り出して火をつける。財布とケータイと車の鍵を尻ポケットに捻じ込む。家を出る直前、机の上にのった灰皿が目に留まった。押し付けられ、山のようになっている吸殻は、何かの虫の死骸みたいに気味悪く朽ちていた。
■Epilogue
メールの送信者は紛れもなく「S」だった。消息が途絶えてからずっとアドレスが変わっていなかったというのもどこか不自然だが、何よりも不自然だったのは、チョコもブンタも彼のメモリを消去していなかったことのように感じる。Sがアパートから姿を消したすぐ後に、二人も申し合わせたように別々の生活を望んだ。それ以来、五年ぶりの再会だった。
「久しぶりだね」
黒いスーツに身を包んだ互いの姿など、八年間の付き合いの中で一度として見たことがなかった。だが、大の大人が五年くらいでそう簡単に変わるわけがないのだ。チョコはその幼い顔つきに不釣り合いな気がするし、ブンタはやけに物々し過ぎる気がする。どちらも想像通りだ。
「奥さんはどう? 元気にしてる?」
挨拶文句にそう言ったチョコに、ブンタは顔色を変えずに嘘をついた。
「ああ、息子ともども元気にしてるよ。上の子は今年で四歳になる」
十センチ以上身長差のある友人と肩を並べて、二人は揃って受付で帳簿に本名を書き記した。
「お前はあれから就職見つかったのか?」
「なんとかコネでっちあげて、ようやくって感じかな。それなりに生活できるだけは貰ってるよ。おかげさまで」
女装メイド喫茶やら何やら点々としながら働いているとは、もちろん言えなかった。羞恥とか劣等感からではない。ただ単に、言う必要も義務もないと思ったからだった。
「なら、いい」
ブンタは、ふかしていた煙草の火を携帯灰皿に押しとどめて、パチンと蓋を閉めた。昔から世間話に花が咲くような関係じゃなかった。互いの事情もあまりよくは知らない。それでも、二人は…いや、三人は旧友としてとても穏やかな間柄だった。今はそれが純粋に懐かしい。
「健康状態だけはお互い良好じゃなさそうだね」
灰皿の中をちらりと目で探ったチョコが、上目づかいににやりと笑った。その指摘に、ブンタも口元を綻ばせる。
「ってことは、お前もまだ止めてないのか…糖分過剰摂取。ちゃんと医者行け。でもって、ちゃんと治療受けろ」
尊大に言い放つと、チョコはむくれて「ヨケーなお世話だよ」と言った。そのやりとりも元の通りだった。
メールの送信者は確かにSだったが、その文面を送信したのは正確にはSのまた別の友人だった。Sのケータイに登録されているメモリ宛てに、一通り一斉送信したらしい。彼が死んだのは一昨日の夜だったという。急性心不全だった。
近親者がいなかったSには不思議なくらい、大勢の人数が集まっていた。恐らく、喪主の代理人を務めている男がメールの送信者だろう。眼鏡をかけた、スーツの似合う普通の男だった。参列中、チョコもブンタもただ一つのことだけを考えていた。果たして、Sの死の原因は覚せい剤だったのだろうか。仮に十中八九そうだったとして、この最期にSは何と感想を述べるだろうか。考えてみても、しっくりくる案は浮かびそうになかった。
「依存」という事柄に関して、「毒をもって毒を制すしかないんだよ」と生前Sは言った。生憎とその末路までは訊くことが叶わなかったわけだが、彼にとってはどこまでが想像の範囲内だったのだろう。急性心不全で事切れ、報せが来て、葬儀に出席するまで、奇妙なほどに自然な流れすぎる。現実味がない、というのはこういうことを言うのだろうか。あの頃は確かに一緒に生活をしていたはずだというのに、五年間の空白の末ついに彼の存在が無くなったと思った途端、二人にはSの存在が一体何だったのか分からなくなっていた。もしかすると、Sという人間など本当は初めからどこにも存在しておらず、ここにいる全員が想像の中で生み出しただけだったのかもしれない。そう言われた方が、納得がいく気がした。
「そうだとしても、」
おもむろにブンタの隣でチョコが口を開いた。
「そうだとしても、やっぱり君は死してなお『人間』でしかなかった」
翌日、火葬場でSの遺体は通例通り火に焼かれた。かろうじて雨の降らない灰色の空に、煙となって彼は昇ったそうだ。
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