2. 電車にまつわるいくつかの雑念

*テーマ:無題


「わたくしはそのひとをつねにせんせいとよんでいた」


 気がつくとあたしは、冒頭を音読する国語教師の声を反芻していた。夏目漱石の代表作、「こゝろ」。冬休み中の課題として一冊丸々の読書を命じられたあたし達は、結局ろくに読みもせずに、年明け最初の授業に臨んだ。内容はさっぱり分かっていない。ただ、彼女があまりに「則天去私」を懇々と語るから、それが試験に出るということはどうやら分かった。「天の定めに従って、私情や私心を捨てること」と書かれたノートに赤線を引きながら、彼は人生の末ついに「傍観者」を決め込んだのに違いない、とひとりごちた。とはいえ、いかに模範解答を正確に書くことができたとしても、その言葉の本当の意味を理解することは、経験の浅いあたし達には到底できないのだろう。


 中小ビル群の合間を縫うようにして走る電車の窓からは、そこに生きる人々の辛気臭い姿が垣間見える。扉横の柱に肩を凭れながら、あたしはじっとその様を見守っていた。遠くの空から伸びる線状の雲が紅く染まる。日が短い。


 まだ冬が続いていた。


                 ***


 たとえば、白髪の頭を端正に整え、いつもカーキのコートをかちりと着込んでいる、あの人。時として淵の細い眼鏡をかけている時などは、まるでかのカーネル・サンダース氏と見紛うほどに類似していると思ったことがある。名前も知らない。職業も分からない。話をしたこともない。何をしに毎日この路線を使っているのかさえ、あたしには想像もつかないけれど、あたしが仮に「先生」と呼ぶのなら、あんな感じの人が良いと思った。

 あの人にはどこか、世を儚むような素振りがある。周りの人間たちと一線を引き、私情を持たぬフィギュアのように車内を見つめている姿がとても印象的だった。何かを悟っているのとは違う、もっと悲観的な哀愁。あたしはそれを、心の内でこっそりと「先生」と呼んで気に入っていた。


「ねぇ、人の話聞いてる?」

 声に気づいて振り向くと、至極間近に彼の顔があった。カサついた薄い唇が見える。

「…何の話だっけ」

「友也とあきちゃんの話なんだけどさ、あの二人ってクラス一緒だったこととかあるっけ、っていう…」

 名前を出されても釈然としない顔でいるあたしに、彼は大袈裟に溜息をついてみせた。

「まぁ、予想はしてたけどね」

 穏やかに垂れ下がった目尻が、性格の良さを象徴的に表していると思う。彼は一瞬だけ不機嫌そうな顔をしたが、すぐに表情を収めて、上目遣いにそっと微笑んだ。それに釣られてあたしも微笑む。

「ごめんね」


 彼とは、高校に入ってからすぐに親しくなった。男子の顔と名前を覚えることほど苦手なことはなかったけれど、様々な行事のたびに名前の挙がる彼を、無視しろという方が難しい。まして、クラスは結局三年間同じで、通っている予備校も一緒となれば、生活空間のほとんどを共有しているのだから、それなりに親しくなるのも当然のことだろう。とりわけ気に入っていたわけではないとはいえ、高校二年の夏に彼から告白されたときには、なんだかんだ喜んでそれを承諾した。以来、彼とあたしは世間一般に言う「恋人同士」という関係に落ち着いている。


「もうすぐ着くね」

「あ…本当」

 ふと、あたしの肩越しに外の景色を眺めた彼は、静かな口調でそう呟いた。瞳が何を見つめているのかは伺えない。思わず「どうしたの?」と声を掛けそうになったが、すぐにそれを撤回して思いついた単語を発してみた。

「宿題!」

「は…?」

「やってないかもしれない、あたし」

 突然の反応に面を食らった彼は、あたしに詰め寄られる形になって息を呑んだ。

「当てられそうになったら見せて、ね?」

「うん…いいけど」

 期待通りの返答に満足したあたしは「よし」と言って、肩を叩いた。迫っていた顔が離れ、彼が困ったように笑う。あたしは、何故かそのことにそっと安堵した。


 学校からの帰り道には、中央駅周辺に位置する予備校へ向かうため、あたし達は共にこの私鉄を利用する。一年の頃から通っていたあたしと半年違えて入校した彼は、あの頃もやはり同じように微笑んでいたのだろう。「また一緒ね」と廊下で何気なく声を掛けたら、はっとした顔をされたのを覚えている。以前から知ってはいたものの、至近距離で見る彼は思っていたよりもずっと端正な顔をしていた。そして今も、整った顔立ちにうっすらと大人びた表情がすごく似合っている。

 思えば、あたしはその頃から世間が規定する「恋人」というものが一体何なのか分からずにいた。果たして、あたしの一体どの部分が、彼のどういう特性に惹かれ、なぜあたしに彼を好きだと言わせるのか。そして、彼もまた、なぜあたしを「好き」だと言うのか。考えれば考えるほど分からなくなる。けれど、その問いを突き詰めてしまったら、終にはとうとう馬鹿馬鹿しくなって、きっと何かが壊れてしまう。そんな確信があたしにはあった。

 それだけではない。朝起きて、物を食べて、登校して、予備校へ行って、風呂に入って、眠りにつく…という、毎日変わりなく遂行される工程。繰り返される両親や教師や彼との会話。なぜあたしはこの生活の中で生きているのか。これは誰が決め、誰が選んだものなのか。この世界は、そういう難解な疑問で満ちている。もちろんそのどれも全く同じということはありえないのだけれど、それでもあたしは、このループする日常の営みから微かに脱却してみたいと願っていた。


「まもなく終点、終点―――――」

 車内アナウンスが思考をかき消す。あともう三分もしたら、この扉が開いて、ここにいる全ての人が雑踏の中に消えていくんだろう。そして彼も、あの辛気臭い日常生活の中に、何の迷いもなく溶け込んでいくに違いない。そう思うと、あたしは何だか怖くなった。

 本を読んでいる人、携帯の画面を覗き込んでいる人、つり革に頭を預けて眠っている人…車内はいつだって混沌としていたけれど、それでもその中にはありありと、「平凡」の模範とも言うべき世界の姿が映し出されていた。


「今日、夕飯一緒に食べて帰る?」

 彼の優しい声がする。急に黙り込んだあたしに気を遣ったのだと思う。穏やかに細められるその瞳に、あたしは今にも口をついて吐き出してしまいそうになる気持ちを感じた。

 ねえ、知ってる? アンタが言ってた「あき」って娘ね、一年の頃はアンタに惚れてたんだって。アンタも当時はケッコー可愛いって言ってた。それでどうして、アンタとあの娘は好き合わなかったのかな。どうしてあたしと「恋人」なんてやってるのかな。あたしはさっき、そう言ってやりたかった。湧き上がる疑問を問いかけてみたかった。けれど、それを問いかけてしまったら、きっと行き着いてしまっただろう。あたしは彼のことなんかこれっぽっちも好きなんかじゃない。彼氏がいるっていうステータスが欲しかっただけで、別にこの人じゃなくても良かったんだって。

 そして思い知らされてしまう。結局、あたしは逸脱することを望みながら、それでも彼との関係を壊すことを恐れ、手放すことができなかった「平凡」な人間なのだ、ということを。

「そうだね。食べて帰ろっか」

 返した声は果たして綺麗に届いただろうか。そんなことばかりが気になってしまう。あたしが返した言葉に、彼が小さく微笑んだら、それであたしはやっと安心することができるから。


 電車は静かに駅に滑り込んでいく。車体とレールが起こす強い摩擦音など誰の耳にも届かないかのように、車内はそっと、現実世界への扉が開くのを待っていた。乗客は立ち上がり、それぞれの生活に戻る準備をしている。

 駅名のアナウンス。

 ついに開かれた扉に向けて、人々が押し合い、ひしめき合いながら降りていく。人波に流されていく視界の片隅に映ったのは、「先生」の姿だった。

 カーキのトレンチコートに、淵の細い丸眼鏡。座席の端に凭れて座っている「先生」からは、深く俯いたまま降りる気配が全く感じられない。その姿はまるで、退屈な日常生活への抵抗を思うあたしの心情と重なって、まさに本物の「傍観者」のように見えた。

「あの、終点ですよ…」

 思わず車内へ引き返し、恐る恐る声を掛ける。渋い顔で眠りについていた「先生」はビクリとして目を醒ますと、あたしを見て表情を変えた。

「僕は降りませんよ」

 そして、そう言ってあたしを一瞥すると、またすぐに眠りについてしまった。

「どうした?」

 一度電車を降りた彼が戻ってきて怪訝そうに訊いた。理由の分からない無力感に駆られて、無意識のうちにそれに応える。

 「先生」がどうして電車を降りないのか、その理由はあたしには分からない。乗り過ごしたのか、あるいはこうしてずっと電車に乗っているつもりなのか、考えられる可能性はいくつかあったけれど、それよりも、あたしはあたしに向けられた拒絶の言葉がすごく怖かった。あたしはきっと、その時の「先生」の表情を忘れはしないだろう。哀しむような、疲れた顔。レンズ越しにうっすらと細められた「傍観者」の目は、辛辣にあたしの瞳を射抜いていた。思い知らされる。いくらあたしが「傍観者」に憧れて、自分の凡庸さに抗おうとも、「先生」の目には所詮ループする日常生活の一部にしか過ぎない存在なのだということを。

「もうすぐ電車出るよ。俺たちも降りよう」

 現実に呼び戻す声は、いつもひどく優しい。彼への気持ちが偽りだとしても、あたしはやはり、彼と一緒にいるこの時間がどうしようもなく好きだから、その声に誘われるまま電車を降りて行く。

 誰かと違う自分でありたいと願う、あたしのささやかな抵抗は、束の間の思考の世界から降りると、すぐに雑踏の中に消えてしまった。

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